言葉の感覚/〈障害者〉という言葉

 今回は〈言葉の感覚〉について書かせていただきます。一見そうは見えなくても〈たのしい教育の発想法〉にもつながる内容だと考えています。お付き合いください。
 前回の〈教員採用試験の問題から〉は長いので〈前後編〉に分ける予定でしたが、アップしたものを見ると全部通しになっていましたのでそれで完結しています

  旅をしていた時のこと、風情ある街並みを歩いていくと「あいさつ通り」という表示がありました。しばらく行くと「あいさつ通り ここまで」という記されています。
 思わず笑ってしまいました。

 旅のTV番組を見ている時、ある路地の先に「ドロボウ、ここより先、進入禁止」という立て看板がありました。それをみた女優さんが「こういう防犯対策っていいですね」とコメントしていました。

 これは笑うというより複雑な気持ちになりました。

  書いた人が意図していないにしても「あいさつ通り ここまで」という言葉からは〈もうここから先はあいさつしないでよいですよ〉というメッセージが伝わってしまいます。

「ドロボウ、ここより先、進入禁止」という言葉は〈ここ以外でドロボウしてください〉と受け取れないこともないのです。

 考えすぎだと思う人もいるかもしれません。
 では、こういう言葉の感覚はない方が良いのか?

 わたしにはそうは思えません。

 自分の言葉が発する意味の広がりを予測する力は、他人を傷つけないことにもつながります。また自分の意図を正しく伝えることにもつながります。
 こうやってたくさんの人たちに読んでいただいている記事を綴っているわたし自身、気をつけておきたい大切なことです。

 ところで最近、行政側のある方に「障害者という言葉そのものがおかしいと思う」という、かねてからの私の言葉の感覚を話したところ、その人がとても感心してくれました。

 行政にかぎらず教育の中でも「障害者」という言葉を簡単に使っています。たとえば・・・

 〈障害者基本法〉をはじめとして法律にも使われています。

 もちろん教育の中でもたくさん利用されています。

 障害者という言葉は私が大嫌いな言葉ですけど、好き嫌いではなく「言葉のセンス」そして「言葉の持つ意味」からして、なくなっていってほしいと考えています。
 
 漢字を変えたりひらがな表記で文字通り〈言葉を濁す〉のではなく「障害者という言葉自体がいずれ使われなくなっていけばよい」と考えているのです。

 そして、すぐに変わることはなくても、10年後20年後は変わる可能性があると思っています。

 その言葉の感覚をメールマガジンに綴っているところです。機会があればいずれ紹介しますのでおたのしみに。
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吉村昭 冬の鷹-教員採用試験の問題から

 たのしい教育派で、かつ教員採用試験の合格を何としてでも勝ち取りたいという方たちが研究所に学びに来ています。その人たちの今回の試験結果の分析から、国語の点数の加算によって合格できるということがハッキリし、それに基づいて国語に関してはさっそく〈実践問題〉の演習から始めています。研究所のメンバーもこの人たちに合格してもらうために全力投球です。

 ところでその国語の演習の一つに〈この中から間違った組合せを選びなさい〉という問題があって、その選択肢を見て「この問題を作成した人物、いいね」と感じたので紹介させていただきます。

 みなさんは、この問題の答えがわかりますか?
 一つだけ〈間違った組合せ〉があります。

 当てずっぽうでもよいので予想してみてください。

 

① 南総里見八犬伝は〈滝沢馬琴〉別名〈曲亭馬琴〉の作品ですから正解


 私は古典は苦手ではないのですけど、私も初めて目にしたのが ⑤「安愚楽鍋」です。〈あぐらなべ〉と読みます。これが答えなのかと思う人もいるかもしれませんが、これは正解だとわかりました。もっとはっきり「これは違う」というものが含まれているからです

④「国姓爺合戦」は〈こくせんやがっせん〉と読みます。
 近松門左衛門の作品です、正解

③「徒然草」は古典の頻出問題です、吉田兼好で正解

②の「蘭学事始:らんがくことはじめ」の著者は〈福沢諭吉〉です。この組合せが間違いだということになります

 知っていた人もいると思います。

 話はここからです。

 選択肢にある前野良沢とは何者か?

 「解体新書」をご存知でしょうか?

 江戸の後期、杉田玄白のグループは、人間の身体の中を自分たちで調べようと研究をはじめます。
 しかし、その中でドイツの解剖医クルムスが著したターヘルアナトミアのオランダ語訳の本の素晴らしさを発見し、自分たちで研究することをやめて、その翻訳に力を入れることにしたのです。

 これがアーヘルアナトミアです。

 授業の中で子どもたちに「予想変更は素晴らしいことだ」という話をすることがあります。その時に例にあげることのある素晴らしい予想変更の一つです。

 玄白たちが予想変更せず、自分たちで解剖学的な研究を始めたとしたら、日本の人体の研究は何十年も遅れたことでしょう。素晴らしいものがあったら、まずそれを学び取るところから始めるのがよいのです。

 これが杉田玄白。

  マハトマ・ガンジーに似ています、どうでもいいのですけど。

 解体新書は、本屋さんで手に入ります、講談社の学術文庫です。
 わたしは国語や理科で利用していました。

 中を開くと、たとえば人間の骨格がかなり詳しく描かれています。
 もちろんクルムスのターヘル・アナトミアの図を丁寧に写実したものです。

 

これは脳の図です。

 もう一度表紙を見てください、「杉田玄白 解体新書」とありますね。
 そのせいもあって、殆どの人たちが解体新書を著したのが杉田玄白だと思っているのですけど、玄白が自分の名前で出版したのであって、それを訳したのは別な人物です。

 私がそのことを知ったのは学生時代です。
 その頃とてもお世話になっていた教育心理学の石川清治教授が
「きゆな君、驚いたよ、解体新書を訳したのは杉田玄白じゃなかったんだねぇ」
そう言って、文庫本を手渡してくれました。
 吉村昭の「冬の鷹」です、今でも大切に持っています。


 少し読んでみようと思ったら、その日で一気に読み終えました。
 以来、吉村昭の作品は私の生涯の友になりました。

 吉村昭のノンフィクション作品は重厚で、時代考証をこれでもかというほど重ねて描かれています。
 戦時の「戦艦武蔵」でも幕末の「ふぉん・しーほるとの娘」でも、昭和の「神々の沈黙」でもしかりです。
 その吉村昭が「冬の鷹」で、人体の内部を調べようとする杉田玄白たちのグループが、どの様な過程を経て〈解体新書〉を出版するに至ったかを、壮絶な迫力をもって描いています。

 杉田玄白はオランダ語の知識はありません。
 解体新書を訳したのは〈前野良沢:まえのりょうたく〉でした。前野良沢のオランダ語の知識と学問への鬼気迫る姿があって「解体新書」が生まれたのです。
 杉田玄白はプロデュース(企画)した人物なのです。もちろん杉田玄白の熱意がなくてはこういう事業はスタートしなかったのも事実ですが、実際の翻訳そのものは前野良沢無くしては不可能でした。

 少し書き抜いてみましょう。

不意に、玄白が足をとめた。
「いかがでござろう。ぜひおきき下され」
 玄白の眼が、良沢と淳庵に据えられた。
 良沢たちは、立ち止った。
「いかがでござろうか。このターヘル・アナトミアをわが国の言葉に翻訳してみようではありませぬか。

 もしもその一部でも翻訳することができ得ましたならば、人体の内部や外部のことがあきらかになり、医学の治療の上にはかり知れない益となります。

 オランダ語をわが国の言葉に翻訳することは、むろん至難のわざにちがいありませぬ。しかし、なんとかして通詞などの手もかりず、医家であるわれらの手で読解してみようではござらぬか」
 玄白の顔には、はげしい熱意の色がみられた。
 良沢の体が、一瞬硬直したように動かなくなった。眼は玄白を凝視し、顔には血の色がのぼっていた。
「よくぞ申された」
 良沢が、腹の底から声をしぼり出すように言った。そして、何度もうなずくと、
「実を申すと、私は二、三年以前からオランダ書を翻訳いたしたき宿願をいだいてまいりましたが、一人ではかなわず、かと言って志を同じくする良友もござらぬ。そのことを嘆いて鬱々といたずらに日を過してまいりましたが、おのおの方がなんとしても翻訳の業を果したいと欲せられるなら、まことに心強きかぎりです。私は、昨年長崎へもゆきオランダ語も少々おぼえてまいっておりますので、それを手がかりに、このターヘル・アナトミアの解読に取りくんでみましょう」

 

 前野良沢はこの人です。

 はじめの教員採用試験の問題に戻りましょう。

 選択肢の〈前野良沢〉は「解体新書を翻訳した人物」です。
 しかし、ほとんどの人はその名前を知らないことでしょう。
 彼は数年かけた翻訳作業の後〈自分の名前は残さないでよい〉と言い残し杉田玄白から離れていったのです。

  研究所に学びに来る人たちにも話したのですけど、このサイトを購読してくれているみなさんにもぜひ読んでもらいたい一冊です。読書が苦手でなければ、中学生くらいからなら読めると思います。

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超能力実験から ものの見方・考え方を学ぶ

 これは研究所にたのしいおもちゃを買ってもってきてくれたA先生と数名で、そのたのしみ方の工夫をしていているところです。

5~6分くらいするとこうやって次第に浮かせるようになり・・・

 しっかりと超能力人間となりました。

 もちろん、物体を祈りの力、念力などで浮かせることはできません。時間があれば、たのCafe(たのしい教育Cafe)で取り上げるかもしれないので種明かしは控えておきますね。

 もしも超能力でものを浮かす力があるとしたらすばらしいことです。
 たとえばこういう透明ケースに入ったパソコンのパーツがゆるんでいたりした時に、わざわざ開けずに超能力で直すことができます。

 ミゾにおちたカギなども上から念力で拾い上げることができます。
 薬などの調合も、ケースの中で、超衛生的に処理することができます。
 水の中に入れた砂糖が溶けないように、ストップさせることもできるでしょう。

 しかし超能力があると語っているうちの誰一人として、そういう実験をしてくれた人はいません。やって見せてくれるのは手品師の様な人たちばかりです。

 超能力で物体を持ち上げるなんてできないからです。

 ものを持ち上げるには物理的な力が必要となります。
 磁力であったり電力であったり、手で持ち上げたり釣り上げたりする必要があるのです。
 ですから、たいていの人なら、そういう実験は超能力ではなくて、何かの仕掛けがあるに違いないと思ってくれるでしょう。
 ところが、たとえば「祈りで病気を治します」というような超能力については、信じてしまったりするのです。
 「祈祷で不登校を治します」という看板を見たことがあります。それにすがってお金を払っている人もいるのだと思うと悲しい気持ちになります。
 もっと本格的な科学、つまり原子論的な見方・考え方が広まっていく必要があるでしょう。

 科学は自然界に、つまりこの宇宙で生じる力を解明しています。
 4つあります。
 〈重力〉〈電磁気力〉〈強い力〉〈弱い力〉です。
 〈強い力〉と〈弱い力〉 は、素粒子といって〈原子〉よりもっと小さな世界で生じる力で、ふだんの私たちの暮らしの中で目にしたり感じたりすることはありません。

「えー、四つだけ? そんなことないよ、たとえば〈筋力〉とかもあるじゃない」と考える人もいるでしょう。
 すばらしい疑問です。

 筋力は、わたしたちが食べ物を化学エネルギーとして取り出して筋肉の中で生じさせる〈電磁気力〉の一つです。

 水がものを浮かせる「浮力」は?

 浮力は〈重力〉と〈電磁気力〉から生じるものです。

 「恋の力」は?
 それは人間が頭の中で作り出したイメージの世界です。イメージの中で空を飛んだりすることができますね、それと同じで、実際にそうなっているわけではありません。〈恋の力〉そのもので物質を持ち上げたりすることはできないのです。ただし、その脳の中でイメージする力は〈電磁気力〉で作られたものです。脳の中にも実際に電気が流れています。

 怖い話ですけど「のろいの力」は?
 あるわけないのです。
 のろいで人を殺すなんてできません、心配しないでください。
 のろいで人を怖がらせているだけです。

 わたしたちの目で見える力は全て〈重力〉と〈電磁力〉とに分けられるのです。

 四つの力以外の力はないのか?
 科学者たちは今も研究をすすめています。ダークマターと関連して何か発見される可能性が無いとはいえませんが、それは素粒子の世界、私たちの日常生活で生じる力ではありません。

 人間が賢くなっていく歴史は、超能力などにだまされなくなってきた歴史でもあります。もちろん、賢くなっていくことは、たのしいもので、周りの人たちが騙される悲しさから解放されていくことでもあります。

 超能力にだまされない人間が育っていくことも、たのしい教育の目標の一つです。
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今日からスタートします〈たのしい出前児童館;沖縄市〉

 月に一度のたのしい出前児童館のリーフが完成しました。今日9/10(月)からスタートします。ものづくりやゲームなど全部無料でたのしめます。沖縄市の児童が対象です。

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