与謝野晶子が生みだした詩が、今の言葉でいう炎上騒ぎとなったことは高校の国語で学んだけれど、その時には歴史の感覚が記憶一辺倒の薄ぺらいものだったので、社会の状況とうまく結びつけることができませんでした。
明治の頃の日本は〈日清、日露〉と10年越しに戦争が続きました。
大国〈中国〉に勝った後、今度は〈ロシア〉という大国を撃破しようと、日本が過剰な熱を帯びていた頃に「君、死にたもうことなかれ」と弟に手紙を書いた。それは私信ではなく雑誌に発表され、いろいろな 人たちの目に触れるものとして。
第日本帝国憲法で〈天皇の地位は神聖なもので、侵すことはできない〉とハッキリ記された明治天皇に「すめらみこと(天皇)自身は、自ら戦いにはでませんよね」と書いた。
そのすごさに鳥肌がたったのは教師になってからでした。
君死にたまふことなかれ
(旅順の攻囲軍にある弟宗七を歎きて)
ああ、弟よ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ。
末に生れし君なれば
親のなさけは勝りしも、
親は刄をにぎらせて
人を殺せと教へしや、
人を殺して死ねよとて
廿四までを育てしや。堺の街のあきびとの
老舗を誇るあるじにて、
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ。
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家の習ひに無きことを。君死にたまふことなかれ。
すめらみことは、戦ひに
おほみづからは出でまさね、互に人の血を流し、
獣の道に死ねよとは、
死ぬるを人の誉れとは、
おほみこころの深ければ、
もとより如何で思されん。ああ、弟よ、戦ひに
君死にたまふことなかれ。
過ぎにし秋を父君に
おくれたまへる母君は、
歎きのなかに、いたましく、
我子を召され、家を守り、
安しと聞ける大御代も
母の白髪は増さりゆく。暖簾のかげに伏して泣く
あえかに若き新妻を
君忘るるや、思へるや。
十月も添はで別れたる
少女ごころを思ひみよ。この世ひとりの君ならで
ああまた誰を頼むべき。
君死にたまふことなかれ。
立身出世や外面を気にする〈おとこ〉たちには生み出せない心の歌でしょう。
この詩を紹介しようと下書きしていたのは一週間少し前のことでした、そのうちにこの世界は、また起こしてはいけないことを起こしてしまいました。世界はそれを止めることができませんでした。
外交や人々の叫びではなく〈システム〉として蛮行を起こせないしくみを人類の叡智で構築しなくてはいけません。
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