カール・セーガンの言葉たち Pale blue dot./たのしい英語教育の教材としても

 大好きなカール・セーガンの話に入る前に、前々回の「ゆとり教育と円周率」について。記事の反響はまだ続いていて、いろいろな質問が届いています。わたしにとってはごく当たり前のことだったのでサ イトに書くのも今頃になってしまいましたが「円周率を3として計算することの素晴らしさ」そのものは、教師になって数年御、高学年をもたせてもらったとき に始まっています。もう二十数年前からのことになります。

 この反響からすると、おそらくいろいろな方達が興味を持ってくれると予想できるので、可能な方はぜひ周りの方達に「この記事面白いよ」と伝えて読んでもらうことを提案します。もしかすると「だからゆとり教育はダメなんだ」という意見もあるかもしれませんが、中には子ども達と同じ様な感覚で「おもしろいね」と言ってくれるが出てくるでしょう。そうやって、地道にですけど確実に「たのしい教育」が広まっていくのだと思っています。可能な方はぜひお願いいたします。

 さて今回は、わたしの発想法を語る時に重要な人物、カール・セーガンについて書きたいと思います。

 わたしはカール・セーガンからとてもたくさんの影響を受けています。
 彼が綴った本を繰り返し繰り返し読みましたし、同じ本を何冊も持っています。
 地球の生き物や大地の美しさ素晴らしさは星野道夫から学び、星としての素晴らしさはカール・セーガンから学びました。

 セーガンは宇宙科学で有名です。
 彼が一般の人達に向けて作成したTV番組に「コスモス」があります。レンタル屋さんでは見たことがないのですが、DVDは販売されています。
 名作です。
 教師時代に、教材として購入してたくさんの子どもたちに観てもらいました。
※わたしが購入した頃は2万円を超えていたのですけど、かなり安くなっていて、DVD7枚パッケージで、書いている今現在で1万円を切っています。日本語字幕もついています。

 

 その中の一部、しかもとても感動的な部分がyoutubeで視聴できます。
 それが  Pale blue dot. です。

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 地球のことです。

 セーガンの本のタイトルにもなっています。

 観測の役割を終えた探査機ボイジャーが太陽系の端に到達しようとする時、NASAのボイジャーミッションにも関わっていたセーガンが「ボイジャーを地球の向きに回転させて、写真を撮ってもらおう」と提案しました。

 遠く離れた探査機にうまく命令を伝えられるか。無理な体勢変換で、その後、太陽系を無事飛び出ると期待している流れに影響がでないか。そもそも地球が写るのか?
 いろいろな反論があったでしょう。
 しかしNASAは最終的にセーガンの提案を受け入れボイジャーのカメラを地球に向けました、さすがです。

 セーガン自身がその画像を感動的な言葉で伝えてくれています。
 ぜひごらんください。ほんの3分少しの時間です。

 動画を見るのが難しい方もいるかもしれません、ボイジャーが振り向いて撮った写真も載せておきます。この右側の茶色の帯の中ほどやや下がわにある点が地球、Pale blue dot. です。

wikipediaに感謝して

 

この距離から見ると、地球というものは、さして興味深い場所には見えない。
しかし、私たちにとっては違う。
この点をよく見てほしい。
あれがここだ。
あれが故郷だ。
あれが私たちだ。

ここにすべての人が住んでいる。

愛する人も、知人も、友達も
いままでに存在したすべての人が、
みなここで人生を送っている。

喜びも悲しみも、自信たっぷりの幾多の宗教も
政治思想も、経済主義も、
すべての狩人も、牧人も、英雄も、
卑怯者も、文明の創設者も、破壊者も、
すべての王様も、農民も、
愛し合う夫婦も、すべての父と母、
希望にみちた 子ども、
発明家、そして探検家、
道徳を教える先生も、腐敗した政治家も、
スーパースターも、偉大な指導者も、すべての聖者も、
罪人も、人類の歴史上すべての 人が、ここに住んでいる。

太陽の光照らされた、塵にもひとしいこの場所に。

地球は、とても小さな舞台だ。
広漠とした宇宙の中では…

 

考えてみてほしい。


すべての将軍や皇帝が、勝利と栄光の名のもとに
流した血の河を。
この点の、そのまたごく一部の、
つかの間の支配者となるために。

考えてみてほしい。

この点の片隅にいる住人が、
別の隅にいる ほとんど見分けのつかない住人にたいして、
どれほど残虐な仕打ちをしてきたのかを。
どれほど多くの誤解があることか。
どれほど熱心に、人は殺し合うことか。
どれほどの激しい憎しみがあることか。

私たちの気どった態度、思いこみによる自惚れ、
自分たちは特別なんだという幻想。
この青白い点はそのことを教えてくれる。

私たちの惑星はこの漆黒の闇に囲まれた、
ひとかけらの孤独な泡にすぎない。

この広漠とした宇宙では、私たちは名もない存在だ。

他に助けてくれる人はいない、私たち自身をのぞいては。

地球は、現在までに知られている生命をはぐくむ
唯一の星だ。

すくなくとも近い将来、
ほかに人類が移住できるような場所は存在しない。

行くことはできるか?
たぶん。
住むことはできるか?
いや、まだ。

好き嫌いにかかわらず
いまのところ地球が私たちの住む場所だ

天文学は、人を謙虚にし、

身のほどをわからせる学問だという。
人間の思い上がりを示すのに、

これほどふさわしい例もないだろう。
私たちのちっぽけな世界を、

はるか彼方からみた景色ほどには。

 

私にとって、この映像は

私たちの責任を表しているように見える。
もっとお互いに気を配り、

この青白い点を大切にするとい う責任を。

私たちの知っている、ただ一つの故郷を。

“想像力なくしては、私たちはどこへも行けない”

カール・セーガン(1938~1996)

 

 アナウンサーではありませんが、カール・セーガンの言葉は聞きやすくて、英語の教材にもなると思います。
 残念ながら中学生に英語を教えるという機会はまだありませんが、わたしなら、この3分ほどの教材を英語に使います。きっと子ども達も、この言葉のどれかに感銘をうけて、そのフレーズを覚えてくれるのではないかと思います。

 興味のある方のために、英文も載せておきます。

From this distant vantage point,

the Earth might not seem of any particular interest.

But for us, it’s different.

Consider again that dot.

That’s here, that’s home, that’s us.

On it everyone you love, everyone you know,

everyone you ever heard of,

every human being who ever was, lived out their lives.

The aggregate of our joy and suffering,

thousands of confident religions, ideologies,

and economic doctrines, every hunter and forager,

every hero and coward, every creator

and destroyer of civilization, every king and peasant,

every young couple in love, every mother and father, hopeful child, inventor and explorer,

every teacher of morals, every corrupt politician,

every “superstar,” every “supreme leader,” every saint and sinner in the history of our species lived there

—on the mote of dust suspended in a sunbeam.

 

The Earth is a very small stage in a vast cosmic arena. Think of the rivers of blood spilled by all those generals

and emperors so that, in glory and triumph,

they could become the momentary masters

of a fraction of a dot.

Think of the endless cruelties visited

by the inhabitants of one corner of this pixel

on the scarcely distinguishable inhabitants

of some other corner, how frequent their misunderstandings, how eager they are to kill one another, how fervent their hatreds.

Our posturings, our imagined self-importance,

the delusion that we have some privileged position

in the Universe,

are challenged by this point of pale light.

Our planet is a lonely speck in the great enveloping

cosmic dark.

In our obscurity, in all this vastness,

there is no hint that help will come from

elsewhere to save us from ourselves.

The Earth is the only world known so far to harbor life. There is nowhere else, at least in the near future, to which our species could migrate. Visit, yes. Settle, not yet. Like it or not, for the moment the Earth is where we make our stand.

It has been said that astronomy is a humbling

and character-building experience.

There is perhaps no better demonstration

of the folly of human conceits than this distant image

of our tiny world.

To me, it underscores our responsibility

to deal more kindly with one another,

and to preserve and cherish the pale blue dot,

the only home we’ve ever known.

–Carl Sagan, Pale Blue Dot, 1994

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アイディア 発想法/新しい概念にとらわれる重要性 板倉聖宣の発想法から学んだこと

 アイディアや発想法について書いてみようと思います。前回の「ゆとり教育と円周率」の反響も大きく「どうすればそういう発想ができるのでしょうか」という様な質問が複数届いているので、それを受けた内容にもなると思います。

 公立学校の教師を数年前に早期退職して後、沖縄県の事業を初めとしていろいろなプロジェクトを担わせてもらいました。また、たのしい教育派の教師の支援や子ども達の支援など、この四年間で数々の活動を実施し、そのどれもがかなりの成果を上げています。ですから、たしかにいろいろな発想でものごとに取り組み、一定の成功を収めていると言ってよいのだと思います。

 わたしの発想の根底には「たのしさ」があります。
 しかしそれを答えても、答えになっていないでしょう。

 ですから少し哲学的な話として、板倉聖宣の発想法を紹介させていただこうと思います。
 わたしが大きな影響を受けた人物です。

 わたしが板倉聖宣の発想法に初めて触れたのは、今から30年も前のことですから、右にも左にも「たのしい教育」を教えてくれる人はいません。手に入る限りの書籍・雑誌を取り寄せ、さらに ガリ版(謄写版)印刷 の資料も手に入るものを片端から取り寄せていました。特に山田正男さんという名古屋の高校の数学の先生が板倉聖宣の講演などをガリ版印刷して50冊とか100冊くらい発行してくれていて、それはとても貴重な礎になりました。

 その時の資料はPDFにして大切に持っていて、今でも時々見ることがあります。わたしが毎週力を込めて綴っている「たのしい教育メールマガジン」のある章は、そういう貴重な資料から、「伝えたい」と思うものを読みやすく編集し直して綴っています。

 その資料の一部です。手書きの本です。
 %e6%9d%bf%e5%80%89%e8%81%96%e5%ae%a3%e7%99%ba%e6%83%b3%e6%b3%95 書き起こしてみましょう。

 板倉聖宣
 人間は、ものにとらわれるからこそ、ものを考えることができるのだとしたら

「何とかものにとらわれずに自由に考えられる様になりたい」
と願うこと自体がナンセンスだということになる。
 それから外から見て「いかにも、ものにとらわれずに自由に考えている様に見える人」は、どの様に考えていることになるのだろうか?

 その疑問に対する、今の私の答えは簡単である・・・

「そういう人は、他の人とは違うことにとらわれて考えているにすぎない」

ということである!

 

 つまり冒頭の私に対する質問の答えにもなるのですけど
「いろいろなことを自由に発想している様に見える」というのは、私が
「普通の教育関係者がとらわれている概念とは別なものにとらわれて考えているにすぎない」
ということです。

 それが「子ども達や先生、保護者の方達が笑顔になるのかどうか」ということにとらわれて考えている、ということであったり、「単に〈賢く〉ではなく、〈たのしく賢く〉」であったりするのです。

発想法について根本的なところから時間をかけて学びたい方は、ぜひわたしのメルマガをお取りください。実費で月800円(年一括申し込み)です。

 サイト内を検索すれば、一部を読むことができます。

追記
 発想法に関する具体的な技法として「ブレイン・ノート」というわたしの開発した技法があります。興味のある方は、カウンセリングを申し込む様に「ブレイン・ノート技法」希望と書いて問い合わせてください。カウンセリングと同じ一時間五千円でコーチします。 ⇨ こちら

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ゆとり教育と円周率 たのしい教育の発想法

ゆとり教育は一般的に否定されている感じがあります。わたしは教育実践のプロであって教育施策の専門家というわけではないので、ゆとり教育の隅々まで知っているというわけではありません。しかし、もしも「ゆとり教育に反対」の立場の方達であっても、ゆとり教育の全てが否定できるわけではないという気がするのですけど、どうでしょうか。

 宇宙研究開発機構JAXAの選考でアメリカNASAの研修に参加させていただいた時、「ゆとり教育はなっていない」と強く主張する方と夕食を共にしましたことがありました。

 熱く語るその主張に、特に反論することはしませんでしたが、その方が「たとえば円周率が3.14ではなく3で計算しているというのは愚の骨頂である」という話を出した時に、経験を元にこういう話をしたことがありました。

 わたしは 3.14 より 3 で計算した方が使えるという感じがあるので、ゆとり教育とか言われるずっと以前から、3.14と並行して「円周率を3で把握する有用性」の授業をしてきましたよ。

 たとえば池のおおよその円周から直径を出す時にも、円周を歩測(自分の歩幅でおおよその長さを出す)で「だいたい10mだ」と見当をつけて
10÷3.14 ではなく 10÷3 で計算して
「直径は3mと少しくらいだな」と予測する力があるといいと思うんです。

%e3%82%86%e3%81%a8%e3%82%8a%e6%95%99%e8%82%b2%e3%81%a8%e5%86%86%e5%91%a8%e7%8e%87%ef%bc%92 頭のおおよその直径から、帽子の生地の長さを見当つけたりできたりして、子どもたちもとても喜んでくれるんですよ。

 その人はとてもバランス感覚のある人物で、「ほー、そうなの」と興味深くわたしの話を聞いてくれて、期せずしてその場は「たのしい教育」のテーマになっていきました。

「円周率はおおよそ3なんだ」とイメージしていると、ノートやペン、計算機などが側になくても、自分でちょっと計算してみよう、という気持ちになります。
 しかもそれは算数・数学が大切にしてきた「概数」の概念を大切にしていることでもあります。

 四捨五入は概数・近似値をとらえる時の重要な数処理で、簡単にいうと
「概数にする方法の1つで、必要な位の1つ下の位の数が4,3,2,1,0のときは切り捨て、5,6,7,8,9のときは切り上げること」です。

 つまり概数・近似値で考える際には、4,3,2,1,0は「無かったこと」にして計算をすすめるわけです。そしてそれがとても役立つので、算数・数学で大切にしてきているということです。

 3.14の小数点以下は「1」です。四捨五入の数の中でも切り捨て側にとても近い側です。小数点第二位の数も「4」で、これもまた切り捨てられる数です。「概数」で考えれば良いのです。

 例えば 直径が10mの池があった場合でいうと
 10×3=30 池の周りはおよそ30mだ と概算するわけです。

「いいや、そんな数ではなく、3.14で計算しなくてはいけないのだ」という考え方もわかります。ただし、それでも「正確な値に少し近づいた」ということで「近似値」であることでは同じなのです。

   10×3.14=31.4m  ですね。
   この1.4mの差をどう見るか?
 おおよそ30mだと見たときに、自分が手を開いたくらい長さ分足りない、ということです。これは決定的にまずいことか?

徒競走で幼稚園生や1年生が走る距離をイメージしてみてください。その走った長さからさらに1.4m、走ってみると「1歩幅」くらいです。
それを正確に把握することが決定的に重要なことか、ということです。

 それが重要である場合も出てくるし、大雑把にまず把握できる力が重要であるということもある。

 たのしい教育では、円周率3という素晴らしい数を利用して、大雑把に池の周り(円周)のは30mだと把握できる感動を伝えたい。どうみても池の周りが30mには見えないけれど、測ってみると約30mと言って良い、ということの素晴らしさを伝えたいと思っています。
 わたしの授業に感動したある子が、
「先生、もしも富士山にトンネルがあって、その長さがわかれば、富士山だいたいの周りの長さがわかるんですね」と言ってくれたことがあります。きっとその子は〈人間の英知〉に感動してくれたのだと思います。
 わたしはすかさず
「そうそう。逆にね、富士山の周りを車で走らせて長さを測れば、計算していって〈もしもトンネルを掘ったらどのくらいの長さになるのか〉っていうのがわかるんだよ!」という話につなげていきました。あの子もすでに成人している頃です。どういう人生を歩んでいるか、とても興味があります。

 話を戻します。
 そうやって、大雑把に把握できる素晴らしさに感動してもらってあと、「じゃあもっと正確に近い数を計算してみようか」ということで 3.14 に入るという方法があるのです。感動してくれた子ども達にとって、3.14の計算はさらに魅力あふれるものになるからです。

「とにかくはじめから3.14という三つの数字が大切だ」と考える方たちについては「なぜその3つの数字を大切にするのか/なぜ小数第二位までが大切なのか?」という意味で不思議なことでもあります。

 ご存知の通り円周率は永遠に続く数です。教師をしていた頃に教室に張ってあった表があります、これです。

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円周率は3.14でおわるわけではない。
四捨五入で言えば、3.14の後の数値の方がむしろ無視できない「5」や「9」です。

3.1415926535897932384626433832795028841971693993751058209749445923078164062862089986280348253421170679821480865132823066470938446095 5058223172535940812848111745028410270193852110555964462294895493038196442881097566593344612847564823378678316527120190914564856692

永遠に続く円周率の中のわずか3つを取ることが本当に教育にとって決定的なのか?
大雑把に「3」を利用することは決定的にまずいことか?

 逆に「3」と大雑把に把握することで見えてくるいろいろなことがないか。
 それが池の問題であったり、富士山のトンネルの話です。

 何しろ正確な数に勝るものはない、と考えている人たちも多いと思いますが、人間は「大雑把に把握する力」があったから発展進化できた、ということは科学の歴史で事欠きません。
 逆に、たとえば〈人口の正確な数〉で計算するということは不可能だといってもよいことです。沖縄県の人口の正確な数で算出しなさい、といったら計算は成り立たちません。誕生した子どもの数というのは把握ができないからです。

 数回前に書いたように「沖縄島の距離はおおよそ100km」という知識をもとにしてものごとをみる素晴らしさということがあるのです。

 「おおよそでとらえるすばらしさ」といテーマで授業プラン化しようと思っている題材の一つです。

 たのしい題材に事欠かないたのしい教育研究所です

クックパッドのゴボウ料理/楽しい家庭科・楽しい植物入門

 クックパッドで調べてみました、というメールが届きました。前回の記事「たのしい植物入門 ゴボウ」で、都市伝説ではないかと思っていた「ゴボウを食べるのは日本人くらいだ」という話に驚いた様子です。

 わたしもその方からのメールの内容で知ったのですけど、皆さんは、ゴボウ料理としてクックパットにどれくらいのレシピが出ていると思いますか?

 わたしの知っているゴボウ料理は「きんぴらゴボウ」と「ゴボウの和え物」「かき揚げ」に少し入れたりするかな、くらいです。その方からのメールを読む前なら「10〜多くて20位かな」と予想していただろうと思います。みなさんはどうでしょうか?

 予想してみてください。

 

 いろいろあるんですね・・・「ゴボウのポタージュスープ」「揚げゴボウ」「ゴボウのカレー風味」「ゴボウチャーハン」etc.

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クックパッドにアップされているゴボウ料理のレシピは全部で4万品以上とのことです(下)。2016年9月現在。

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同じきんぴらゴボウでも「◯◯風きんぴらゴボウ」とか「◯◯味きんぴらゴボウ」という様なレシピがありますから、ゴボウ料理が4万メニュー以上、ということはできないのですけど、それにしても驚きました。

 小学校の家庭科でゴボウを利用することは、わたしの経験上は皆無でした。

 しかし、前回書いた「ゴボウのお話し」と「クックパッドの利用の仕方」を交えて「ゴボウ」をテーマに調理してみると、たのしい授業になると思います。

 お勧めいたします。

家庭科もたのしく賢く「たのしい教育研究所」です