ギンネム(ギンゴウカン)に驚く②/センス・オブ・ワンダー(自然を驚く力)

 ギンネム・ギンゴウカンの何に驚いたか。
 実はいつも見て来たのにそのことに気づかなかった自分に驚いたということもあるのですけど、まず、この実から確認しましょう。量ではなく形を見ると・・・

 タネがサヤに入っている作りですから〈マメ科〉の植物です。

 マメ科の植物の花の作りは特徴があります。
 以前の記事に書きましたが、大きめの花びらの中に小さな花びらが手のひらを合わせるようについていて「蝶形花」という独自な形です。

 ではギンネムの花は?

  ギンネムの花は蝶形ではなく花火の様な形です。

 これはどうしたものでしょう。

 目の前の植物たちが人間のまとめた植物図鑑に従ってくれるわけではありません、そういうグループ分けからはみ出るものがたくさん出てくるのです。それがつまり進化の過程だとも言えるでしょう。

 理科の教科書的に「マメ科の花は蝶形」と覚えているより、マメ科といっても全ての花が蝶形をしているのではなく〈多くのマメ科の花は蝶形である〉という説明が、より正確なのです。

 植物の分類に重要な〈科〉というグループ分けについて書きましたが、マメ科の植物は、その下に〈亜科〉という分け方をしています。

 ギンネム(ギンゴウカン)をはじめとして、サヤの中にタネができるのマメ科の特徴を持ちながら花の形が違っているグループを〈マメ科 ネムノキ亜科〉と分類しています。

  私いっきゅうは、ギンネムがマメ科であることは知っていましたし、マメ科の花の特徴も知っていました。

  しかし今回ア~ルと散歩しながら、ハッキリとその違いを認識しました。見ていても問題意識が無ければより深く見る・知ることは出来ないという例ですね。

  私がこの話をしたところ「植物が植物図鑑に従うわけではない」という話に強く反応した方がいました。そして「進化の過程でいろいろな形質が出来ていくということも、知っていたけれど、こんな具合に身近で考えたことはなかった」と話してくれました。

  たくさんの人に身近な周りの自然を不思議に感じる、その楽しさを体験してほしいと思っています。

  10月の〈たのしい教育cafe〉は宜野座村の植物を見ながらセンス・オブ・ワンダーを体験する1日になると思います。

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センス・オブ・ワンダー(自然を驚く力) ギンネム(ギンゴウカン)に驚く①

 センス・オブ・ワンダー(レイチェル・カーソン著)は私いっきゅうの座右の書です。※座右の書:いつでもそばに置いて手放せない本
 以前、このサイトでも何度か取りあげて来たと思います。
 センス・オブ・ワンダーをそのまま訳すと〈自然を不思議に思う感覚〉となります。しかしそれは〈感覚〉というより、普段何気なく通り過ぎる周りの自然に驚くことができる〈力〉なのだと私は思います。

センス・オブ・ワンダー

 何気なく見過ごす、通り過ごす自然のモノやできごとを不思議に感じる心は〈たのしさ〉を生み出します。経済的な豊かさとは別の心の豊かさを生み出してくれます。

 先日、ウェルカムCatのア~ルと散歩している時のことです。ア~ルはいろいろなものに興味関心を持つのではるかにセンス・オブ・ワンダーに優れています。

 私もア~ルに負けず劣らずそのセンスは高い方です。ア~ルが草のあたりで動く虫を観察している時、わたしの目の前に〈ギンネム/ギンゴウカン〉の木がありました。
 沖縄ではいろいろなところで自生しています。

 花が成長して実になっているところも見られます。

 これは花。

 茶色くなっているのは花が成長して実が成長していくところです。

 

これがギンネム(ギンゴウカン)の実です。
    一つの花からとてもたくさんの実(タネ)をつけるんですね。
 まずこの数に圧倒されてしまいます。

 以前、南北大東島に何度も通って子ども達や先生たちに授業をしていたことがありました。
 知り合った地域の方にいろいろ案内してもらって話を聞いたのですけど、何しろ海風の強い島なので、なかなか植物が育たない中、ギンネムはすくすくと成長していくので、昔は家づくりに利用していたという話でした。

 この実・タネのつき方から見ても、生命力の強さを感じます。

 ところでここで気になってしまいました。

 ギンネム・ギンゴウカンはサヤにタネが入っているところから見てマメ科です。

 以前、マメ科の花の特徴について書いたことがあるのですけど、それを思い出して「?」と思いました。
 みなさんは不思議に思うことはありませんか。
                      後半につづく

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池田武邦という人物を通して日本の戦争から現代までを見る

 私いっきゅうは子どもの頃〈瓦屋根〉の家に住んでいました。クーラーは無いけれど風通しよく快適で、それが忘れられず今も木造の家に住んでいます。
 建造物には興味があって〈世界の図書館〉の本や〈橋〉の本、〈日本の古代建築〉など、いくつか本を持っていて、今でも時々開きます。
 ガウディーなど世界的な建築家とは別に日本人で気になっている人物が二人います。

 一人は宮大工の西岡常一(にしおか つねかず)、木造建築の魅力、科学、伝統を伝え続け、映画「鬼に訊け」も作成されていて、公式サイトでもとりあげたことがあります。興味のある方は〈検索まど〉に名前を打ち込んで調べてみてください。

 もう一人が〈池田武邦(いけだ たけくに)〉です。
大正生まれ、現在92歳。戦後の日本を代表する建築家です。

 毎週発行しているメールマガジンの〈たのしい教育の発想法〉の章に池田武邦の話を書き始めています。

 池田武邦は戦後の日本の代表的な建築家です。
 霞が関ビルをはじめとして、彼が設計した建物を知っている人は多いことでしょう。

他にも
・新宿三井ビル
・京王プラザホテル
・ハウステンボス
 など、日本の建築の最先端を走ってきた人物です。

 何しろ地震大国で超高層ビルを建てるというのは世界的にも類がなく、その意味では世界の先端を走ってきた人物であるといえるでしょう。

 オカムラ製作所が彼のインタビュー記事を出した時の略歴がよくまとまっているので引用します。

池田武邦(いけだ たけくに)
1924年静岡県生まれ。建築家、日本設計創立者
2歳から神奈川県藤沢市で育つ。湘南中学校を卒業後、超難関の海軍兵学校へ入学(72期)、江田島へ。翌年、太平洋戦争勃発。1943年、海軍兵学校卒業後、大日本帝国海軍軽巡洋艦「矢矧」の艤装員として少尉候補生で佐世保へ着任。1944年6月「矢矧」航海士としてマリアナ沖海戦へ、10月レイテ沖海戦へ出撃。1945年第四分隊長兼「矢矧」測的長として「大和」以下駆逐艦8隻と共に沖縄特攻へと出撃。大和、矢矧ともにアメリカ軍に撃沈されるが奇跡的生還を果たす。同期の中でマリアナ、レイテ、沖縄海上特攻のすべてに参戦して生き残ったのは池田さんただ1人。生還後、1945年5月、大竹海軍潜水学校教官となる。同年8月3日広島に原子爆弾投下。遺体収容、傷病者の手当ても行う。同年8月15日の終戦以降は復員官となり、「矢矧」の姉妹艦「酒匂」に乗り組み復員業務に従事。1946年、父親の勧めで東京帝国大学第一工学部建築学科入学。卒業後は山下寿郎設計事務所入社。数々の大規模建築コンペを勝ち取る。1960年、日本初の超高層ビル・霞が関ビルの建設に設計チーフとして関わる。1967年退社し、日本設計事務所を創立。設計チーフとして関わった霞が関ビル、京王プラザホテル、新宿三井ビルが次々と完成。1974年50歳の時、超高層ビルの建設に疑問を抱く。1976年日本設計事務所代表取締役社長に就任。1983年長崎オランダ村、1988年ハウステンボスの設計に取り組む。1989年社長を退き、会長に。1994年会長辞任。池田研究室を立ち上げ、21世紀のあるべき日本の都市や建築を追求し、無償で地方の限界集落の再生や町づくりにも尽力。趣味はヨット。1985年、61歳の時には小笠原ヨットレースに参加して優勝している。『軍艦「矢矧」海戦記―建築家・池田武邦の太平洋戦争』(光人社)、『建築家の畏敬―池田武邦近代技術文明を問う 』(建築ジャーナル)、『次世代への伝言―自然の本質と人間の生き方を語る』(地湧社)など著書、関連書も多い。

 実は私が彼を気にし出したのは、板倉聖宣との戦争をめぐる語らいの中からでした。
 わたしの親が戦争の頃子どもだった世代で、私自身が戦争について考えるのは慰霊の日などに学校で体験者の方達のお話しを聞くくらいでした。
 戦争について真剣に考えたのは、教師になって板倉聖宣に学び始めてからです。

 板倉聖宣が沖縄に来てくれた時に、沖縄と戦争のことをテーマにこういうことを話してくれたことがありました。
「今、戦争の歴史という授業書をまとめはじめているんだけどね、あの戦争は軍部の一方的な行為で起こったと考えていると、そういう一部の人間がいなくなればよくなるということになる。しかし戦争というものは広く大衆全体が起こすもので、その認識の構造を明らかにしなくてはまた悲惨なことが起こる可能性があるんだよ。
 キミは沖縄に住んでいて、基地の問題や日本軍の問題などいろいろなことが声高に響くわけだから、逆にそういうことが見えなくなってしまうかもしれない」

 ただし、板倉聖宣が言うから正しいという認識の仕方は私にはありません。
 そういう発想をする人がいたら、板倉聖宣を神の位置に置いて考える人で、科学的な見方考え方から遥か遠い位置にいる人です。

 戦争は軍部が起こしたものなのか、広く大衆の意識が盛り上がって突入したのか、それは時間をかけて検証しなくてはいけません。
 しかし板倉聖宣の視点で戦争中のことを綴った日本文学やエッセイなどを読んでいくと、〈一部軍部が〉ではなく〈日本全体で戦争に突入していった〉ということはかなり正しいと言ってよいと思います。

 そういう中で知った一人が池田武邦でした。

 彼は〈沖縄戦〉へ戦艦大和と共に組んだ艦隊で特攻隊つまり生きて帰らない覚悟で向かった艦隊の一員でした。10隻の艦隊で大和を含む6隻がアメリカ軍の砲撃で沈み、彼は火傷を負いながらも生き残りました。


 池田武邦はあるインタビューでこう語っています。

軍部が勝手に戦争を始めたという人たちがいます。
戦争指導者たちがすべて悪いんだと。
本当にそうでしょうか。

戦前といえども、国民の支持がなければ戦争はできません。
開戦前の雰囲気を、僕は憶えています。
世を挙げて、戦争をやるべきだと盛り上がっていた。

ごく普通の人たちが、アメリカをやっつけろと言っていたんです。
 真珠湾攻撃のときは、まさに拍手喝采でした。
(昭和二十年夏、僕は兵士だった 梯久美子 著)

 

 その後、彼の建築や発想や思想をたどると実に興味深いものが見えてきました。

 彼は軍人として育った人物ですから、日本古来の復古的なものの見方考え方をしています。そこのあたりはもう少し注意深く見ていかなくてはいけませんが、池田武邦は戦争の頃の日本、そして戦後の日本について考える大きなきっかけになる重要な人物の一人です。

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デザインすることはたのしい/教員採用試験合格WS本コースのリーフ作成中

 たのしい教育研究所では力あるたのしい教育派の先生たちを学校現場に送る活動に力を注いでいます。まず100人を目標に育てたいということになり次年度合格に向けたも合格ワークショップを開催することが決まりました。

 個別の合格カウンセリングが進化していってワークショップになりましたから、少人数制です。つまりリーフはたくさん配ることはありません。しかしその作成には力を入れています。
 なぜか?
 デザインすることがたのしいからです。

今月では作成し、研究所の関係者に送ろうと考えています。
 みなさんの周りに「こういう先生に本務になってほしい」という方がいたら〈ねぇねぇ、たのしい教育研究所で、合格ワークショップがあるそうよ〉と噂を立てて置いていただけたら嬉しいです。

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