笑いについて考える/馬は笑うか?

  私いっきゅうはよく笑う方で、たとえば映画を観ながら笑いを抑えられなくて、周りの人に迷惑になっていないか心配するほどです。
 そういえばRIDE( ライド:たのしい教育研究所 )に来る先生たちもとてもよく笑います。たのしい教育が大好きだという人たちは、子ども様な感性をたくさんもっているので、自然にそうなるのでしょう。

 おかしい・おもしろいという感情が顔や身体全体に現れるのが〈笑い〉です。
 それは恐怖や満足というものよりずっと新しいものに違いありません。

 いつから人間たちが笑う様になったのでしょう?
 笑うのは人間だけなのでしょうか、他の動物たちは笑うのでしょうか?

 そういうことを調べていくと、きっといろいろなことが分かってくると思います。興味のある人はぜひ研究してみませんか。

「馬は笑う」という話がありますけど、わたしは信じていません。
 表情が笑っている様に見えているからといって〈笑っている〉とはいえません。


 笑いというのは〈普通のことと比べて想定外だ、奇想天外だ〉〈予想していたことととても違う〉という様な一段高いところからものごとを見た意外性から出てくる感覚なのです。
 〈自分のやり方・自分の感覚と違う〉というのではなく〈広く一般の行動や思考様式〉との相違を見ているのです。
 そういう全体的な把握はカンタンではありません。
 「笑い」は〈恐怖〉や〈安心〉、〈怒り〉や〈苦しみ〉という様な感覚よりずっと高い次元の感情だといってよいでしょう。

 ちなみにわたしの信頼している動物学者の話によれば、類人猿、たとえばゴリラは笑うそうです。類人猿の知能は他の動物より高いですから、これについては信じています。

 ところで以前、本を読んでいて大笑いしたことがありました。
 周りにたくさん人がいる場所だったので、しまったと思ったのですけど止められません。
 人生相談的な読み物だったと思うのですけど「どうしたら良いでしょう?」「こういう彼女と付き合っていてよいのでしょうか?」的な相談だったのか、それに対する回答がどうだったのかは覚えていなくて、わずかその中の一行だけが頭にあります。

彼女が「ネコ飼わない? うち、子ネコが生まれたからあげるよ!」というので、特にネコが好きでもなかったのだけどOKしたら、やって来たのは親ネコでした

 私はその時の〈親ネコ〉や〈男の人〉の表情、それからネコを持ってきた天真爛漫な女の人それぞれを勝手にイメージして笑いがとまりませんでした。

 笑いというのは人それぞれだと思いますから、ぜんぜん面白くないという人もいるかもしれません。でも、いろいろなところで笑えることもたのしいと思います。
 みなさんが大笑いした話があれば聞かせてくださいね。

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自由研究講座の質問から:アリスタルコスの地動説/なぜ大胆な発想ができたのか?

 自由研究講座の中の「いっきゅう先生のワクワク宇宙教室」を受講したお母さんから、とても楽しかったです、という言葉に続いて、次のような話がありました。

 古代ギリシャの科学者が「あんなに大きな太陽が、小さな地球を回っているなんておかしい」と考えたという視点に驚きました。

 ところで、そもそもどうして、月の大きさくらいにしか見えない太陽が地球より大きいと分かったのですか?

 

 ここではアリスタルコスの発想法について、さらに研究を深めたい方たち向けの内容として紹介したいとと思います。
 アリスタルコスの考え方をたどると、サイン・コサインなどの三角関数や、三平方の定理などが必要になるので、そこはいつか学んでもらうとして、それでも中学校くらいの勉強の内容で、計算することができることは理解できるのではないかと思います。
 おつき合いください。
 

 アリスタルコスはまず、月と地球の大きさの検討をつけました。
 どうしたか?

 〈月食の時の月〉の様子から検討をつけたのです。
 この図はアリスタルコスの唯一残っている著書「太陽と月の距離と大きさについて」の写本です。※写本=その頃は印刷する技術が無かったので一冊ずつ手書きで写し取っていた

 左が太陽、真ん中が地球、右が月の概略図です。

アリスタルコス「太陽と月の距離と大きさについて」写本 wikipedia

 アリスタルコスは、月食つまり〈月が地球の影の中を通過する様子〉から地球の直径は月の直径のおおよそ3倍であると検討をつけました。

 次に太陽の大きさです。

 この図を見てください。
〈半月〉つまり、地球から見て月の半分が明るい時は〈地球・月・太陽で描く図形〉が「直角三角形」になります。


 直角三角形を描くと〈三角関数〉が簡単に利用できます。
 〈三角関数〉というのは、アリスタルコスより前のユークリッド、ピタゴラスが利用した数学技法です。アリスタルコスはユークリッドの弟子だったという話もあるくらいで、三角関数のアイディアは持っていたにちがいありません。


 アリスタルコスは太陽・地球・月の描く角を〈87°〉だと算出しました。
 すると、太陽との角度θは〈3°〉になります⇨三角形の内角の和は180°だから
 地球から月までの距離を〈1〉だとすると、三角比で 1/a≒0.05(sin5°)だとわかります ※三角関数で算出
するとa≒1/0.05≒20
つまり地球から太陽まで(a)の距離は、地球から月まで(1)の20倍だと計算できます。※今の正確な計算では400倍だとわかっています。アリスタルコスが測定した角度が少し小さかったので、距離に大きな差がでてしまいました。しかし数字は違っていても、何倍も遠くにあることを力技で計算したところがアリスタルコスのすごさです

 実際のフィールドで、月までより20倍のモデルを置いて、月と同じくらいの大きさに見えるには、どれくらい大きくないといけないのか考えたのでしょう。

 20倍遠くても同じ大きさに見えるとすると、大きさも20倍ないといけないことがわかります。
 地球は月の3倍だから、太陽は地球の直径のおおよそ6倍くらいになる。※実際は109倍
 直径が6倍だということは、球の体積で計算すると、重量は300倍も大きいことになる。※現在の科学的なデータで計算すると〈太陽は地球より約33万倍

 アリスタルコスの頃はπの値は定まっていませんでしたし、現在の計算からみると違っているとはいえ、しかし、球の体積はおおよそこうだろう、という様にして「太陽は地球よりはるかに大きい」ことを正しく予測したのです。

 この結果からアリスタルコスはこう考えました。

 300倍の大きのものが、この小さな地球の周りを回るだろうか?
 たとえば小さな子どもと大人の大きさのでも6~7倍くらいの違いだ。
 小さな子どもと大人がヒモでお互いをふり回すとして考えてみると、小さな子が大の大人をふり回すなんてできない。
 大きな大人が、小さな子どもを振り回すのが普通だろう。

 6~7倍ですらそうなのだから、自分より300倍くらい大きなものを回すなんて有りえない。

 地球の周りを巨大な太陽が回っているのではなく、太陽の周りをちっぽけな地球が回っているに違いない。

 アリスタルコスは、そういう思考過程を重ねて地動説をとなえる様になったのです。
 数字的には間違っていましたが、地動説そのものは引き継がれ、ガリレオの金星の観測によって、天動説の間違いと地動説の正しさを証明されました。

 人間が真理を見つけていく過程のダイナミックな歴史を感じませんか。
 今わからなくいても、興味をもっていれば、きっとまたいつかこのことを思い出して、自分でもアリスタルコスのことを調べてみたくなると思います。
 興味関心のあることをどんどん調べて賢くなっていってくださいね。
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意見が違うことはすばらしいこと/板倉聖宣 科学の碑 由来記より

 みんなの意見が同じであればよいのに、と考えたことがあるでしょうか?
 RIDE( ライド:たのしい教育研究所 )の授業では、ほとんどそういうことはなく、いろいろな人たちが違う予想で自分の考えを出し、討論しあいます。
 その討論そのものがたのしい時間になります。
 また討論を経て、実際の姿を調べたり実験したりすることは、さらにたのしい時間になります。
 これが、みんな同じ意見だとしたら、たのしさも欠けるでしょうし、何より「実験してみよう」という意欲も怒らないかもしれません。
 こういう〈意見が違うことの素晴らしさ〉を高らかに掲げたものが板倉聖宣「科学の碑 由来記」です。
 新潟の東陽寺の敷地内にある〈科学の碑〉に掲げられています。
 この写真左下にある石版に記されています。

 

〈科学の碑〉由来記

 

 人類は科学によってはじめて、〈人々の意見が違うことのすばらしさ〉を発見することができました。
 いろいろな人がさまざまな意見をもっていてはじめて、思わぬ真実が発見されてきたのです。
 そこで、科学は民主主義一少数意見の尊重と歩をーにしてきました。
 私たち仮説実験授業研究会を中心とする人々は、1963年以来27年ほどの問、そのような科学をみんなのものとするために、学校や社会の中で努力してきました。
 そして〈たのしい科学の伝統〉を日本の学校や社会の一部によみがえらせることができたと自負しています。
 しかし、日本ではこれまで科学というと、一般の人々には親しみのもてないものと思われてきました。
 そこで私たちは、これまで私たちの仕事の成果を記念し、かつ今後の仕事の発展を期して、〈科学の碑〉を建設することにしました。

 そして、その周りの森には〈科学の森〉にふさわしい施設をととのえ、ともすれば誤解されがちな科学の性格を多くの人々に訴えることにしました。

      1990年5 月4 日設立委員会代表板倉聖宣

 

 違う意見があった時、このことを頭に置いて「違う意見があってよかったね」と考える様な人たちが増えていくと、たのしく賢い場所になると思います。
 それは学校だけでなく、家庭でも会社でも同じことだと考えています。

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理由は〈何となく〉でかまわない/次第に深く語りたくなってくる

 自由研究の講座でも、その姿を見ることができたのですけど、何か問われて困っている時に、先生がそっと「〈何となく〉ということてもかまわないんだよ」と伝えてあげると、子どもたちはホッとした表情をしてくれます。子どもだけではありません、大人、そして受講している先生たちもホッとした表情になります。

「そういうことを伝えると、みんな〈なんとなく〉としか言わなくなるのではないかな?」
と考える人がいるかもしれません。
 もしそうなるとしたら、それは「問いかけ」が悪いので、子ども達が悪いのではありません。
「考えてみたくなる様な問いかけ」をしていれば、子ども達は、次第に自分の考えを積極的に発表してくれる様になります。これは私だけのデータではなく、たのしい教育派の教師が確かめて来た実験事実です。
 次第に子どもたちは安心して授業に参加して、そのうち、少しずつ自分の考えを出してくれる様になります。

 もしも〈子どもをもっと賢く育てたい〉という方がいたら、自分自身の「問いかけ方」を工夫していくことをお勧めします。

 ところで「なんとなく」をめぐって、たのしい教育の泰斗である板倉聖宣がこういう話をしています。仮説実験授業という独自の授業方法の流れを説明した中の一部分です。

理由の発表
 予想、分布去に人数のもれがないことを確かめたら,こんどは,どうしてその予想をたてたのか,その理由を発表してもらいます。
 発表する順序は,普通は,少数派からいわせた方がいいと考えています。しかし,クラスの雰同気とか,それまでの歴史とかによっては,多数派からいわせた方がいいかも
しれません。まあ臨機応変でかまいません。
 誰から何をいってもかまいません。このときは指名して発言をもとめたものだけじゃなしに,誰に指名しでもよいと私は考えています。
 ただし教師の手前勝手な考えで発言させる以上,子どもが何をいってもよいという権利が保障されるべきです。
「どれがよいかわからないから,僕はね,テンノカミサマノイウトオリ,デハナイ,モウイチドキイテミヨウとやったら,これになった」といってもかまわないのです。まあ,そんなことまでやる子どもはあまりいませんけれども,「 なんとなく」というふうにいう子どもはたくさんいます。この「なんとなく」というのも,ちゃんとした理由です。無理に予想を選べというんですから,「なんとなく」といってもかまわないわけです。
 「なんとなくなんでいわないで,そのなんとなくをちょっと分解して考えたたら?」といってもかまいませんが,お説教しない方がいいですね。

 

「仮説実験授業のABC」仮説社 より

 普段の親子の会話や授業の中でも意識しているとよい発想法だと思います。

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