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平和を創る② たのしい教育で考える平和教育

 前回は平和教育の話から〈大学アメフト部のタックル〉の話になって、どうなることかと考えてしまった人も出て来たかもしれません。一気に書き上げることもできるのですけど、読者の皆さんへのリサーチから「あまり長くならない方がよい」と判断し、特別な場合をのぞいて、長めの稿は回を分けて書く様に意識しています、
 といいつつ、書くことが大好きな私は、ついつい長くなってしまいがちです。ご了承ください。

 さて、今問題になっている〈アメフト部のタックル問題〉を皆さんはどう捉えているでしょう。

 わたしが周りの人たちに尋ねたところでは

・大人たちが見苦しい
・コーチが勝手に命じたのではないか
・加害者の大学生は立派だ
・なぜ理事長が出て謝罪しないのか

       etc.

いろいろな意見がありました。

web上ではもっと激しい言葉が飛び交っています。
「◯◯という人物は異常だ」
「反社会的な集団と関係がある」
「アメフト部がなくなるくらいでは済まない」etc.

 その問題の始まりに戻って、問題のタックルの場面を見てみましょう。
 アメフト部の誰が悪い悪くないという話にもっていくつもりはありませんから、あえて背番号などがわからないものにしています。画像が荒く見えていると思います、ご了承ください。

 パスを投げ終えて無防備になっていた敵側のクォーター・バック(青ユニフォーム)に、後ろから思い切りタックルしていることがわかります。

 わたしは四十年以上武道を学び続けています。ですから人間に加わるダメージ、危険度に関してはプロの一人です。その私の目で見て、このタックルはあまりにも危険な行為です。

 たとえば海を眺めながらのんびり疲れを癒している人を、後ろから丸太ほどある棍棒で思い切り殴ったらどうなるでしょう? 

 体格が人一倍大きく、頑丈に鍛えあげた人間が無防備になった人間を後ろから思い切りタックルするというのは、そういうことです。

 写真に戻りましょう。
 タックルは骨盤より少し低い位置に当たっているので、衝撃が相手の太ももあたりに流れていき、膝から砕け落ちた様な形になっていますが、もう少し上に当たっていたら〈半身不随〉になる可能性が十分あったと思います。

 「コンカッション」という映画があります。アメフトの試合で脳障害で死亡した選手をめぐって今も裁判が進行している実話をテーマにしたものです。
 アメフトの試合中に首の骨を折って死亡した選手もいます。
 脳髄損傷で四肢麻痺になった選手もいます。
 アメフトに限らず、打撃系の技を追求している人たちが繰り出す衝撃度は素人の想像を超えたものがあるのです。

 だからこそルールの中で堂々と力をぶつけ合うことが必須なのです。

 この行為を〈反則タックル〉と称しているのが不思議でなりません。反則とか反則でないとかいうものではないのです。犯罪です。
 例えば空手の試合中、道着の乱れを審判に指摘されて、正座で相手に背を向けて整えることがあります。その時、後ろから脊髄に蹴りを入れたら、これは反則反則ではないというものを超えた犯罪なのです。

 武道家としてのわたしではなく、教育のプロとしての私は、もう一方の重要な側面が気になります。
 教育という営みの中で、わたしたちは〈誰かに命じられたらそういう恐ろしい行為をしてしまう〉〈命じられていると感じたら、相手を半身不随にしてしまう危険のある行為でもしてしまう〉人たちを育てあげてはいないか、そのことを教育者たち一人ひとりが問いかけなくてはいけないのではないかと考えるのです。

 実はそれが「戦争」を継続させる不気味なものの正体でもあるのではないか?

 そう思えてならないのです。

 私たち教育者は、もちろん子どもを育てていく親自身も「〈命じられたらやる〉〈命じられたと感じたらそうする〉という子ども達を育てることは恐ろしいことでもあるのだ」ということを感じなくてはいけないと思うのですが、どうでしょうか?

 そういう子どもを育ててしまった教育者、大人たちの責任というものを、この事件から感じ取ることができるかどうか、それが問われている様に思えるのです。

 平和というのものは願っていても実現することはありません。
 100人いれば100人とも平和が好きなのです。
 平和が好きなのに沖縄戦の様な惨劇を起こしてしまった、それが私たち人間です。過去をたどれば、そういう悲惨なことはたくさん数えることができます。
 たとえ「〈責任は俺がとるから相手を潰してしまえ〉と言われても理不尽なことには従わない」そういう子ども達をたくさん育てていく、それが強力な平和教育である、と思えてなりません。

 子どもが反抗して来た時、大人・教師の言うことに素直に従わなかった時、ついつい大人はカッと来てしまい、力関係で従わせようという気持ちになってしまうこともあるでしょう。
 けれど〈納得のいかないことには異議申し立てするというのは素晴らしいことでもある〉ということを感じて、誰がえらいえらくないということでなく、一対一の人間同士として対峙したい。

 異議申し立てすることは〈大きな成長の証〉であり、逆にそれがない子を心配しなくてはいけないのではないか。

 今回の事件では〈そういう状況に追い込んだ〉事実についても追及されなくてはいけません。また、加害者は罪を償って未来に向けて歩きだすチャンスが必要でしょう。真摯に謝罪して犯した罪を補うことで、被害者側も振り上げた手を下ろすことがあるということを学ぶのも大切なことです。
 しかしそれと同時に、言われたことをやる人間が大事だという価値観自体にも、一度立ち止まって考えておく必要があると思っています。

 73年前に戦争が終わり、平和憲法ができました。
 教育基本法の筆頭、第一条にも〈平和〉の文字は刻まれています。

第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

 教育は〈平和で民主的な国家及び社会の形成者を育成する〉のだと高らかに宣言されているのです。
 平和で民主的な社会は、たのしい社会を構成する大切な要素です。ですから〈たのしい教育〉も、その重要な一翼を握って進んでいます。
 日本各地が戦火にまみれ、一沖縄の地でさえわずか三ヶ月の間に20万人の命が消えた。沖縄でその悲惨な戦争が終わった六月。

 強引に平和と今回の異常なタックルとを結びつけた様に感じる方もいるかもしれませんが、そうではなく、日頃わたし自身が問いかけている見方・考え方です。
 〈平和を創る〉というのは高い位置にある理念などを構築するだけではなく、実は、こういう行動に問いかけていくことが大事なのではないか。それが〈真の平和教育〉につながるのではないか、そういうことを今回の事件から考えています。

 わたしたちが育てていく子ども達が平和で民主的な社会を生き生きと作りあげていって欲しい。親が教師がそのためにできることは何か?
 そういうことを、一人ひとりが真剣に考えてみる月にすることは大切なことだと思います。
 みなさんの意見を聞かせていただければ幸いです。
 たのしく賢い笑顔を育てる、それは平和な世の中を守り育てることと歩みを一つにしたものです。これからもたのしい教育に全力投球していきたいと考えています。
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