りゅうたろうさんがこのサイトに書いてくださった内容を丁寧に読ませていただきました。
板倉聖宣の発想法と哲学を追いかけている私にとって刺激ある文章でした。
ところで私は、りゅうたろうさんが今回取り上げた「エリート効果」の危うさを感じている一人です。
「エリート効果」という確かにあるのでしょう。
「あの山に一番先に上りたい」という様な先駆者意識というものを大事にしている人達はたくさんいると思います。
けれど、たのしい教育活動の広がりは、そういうモノを拠り所にしてはいけないのではないか、そういう事を考えているのです。
その事を話したくて書簡として書かせていただく事にしました。
たのしい教育活動の始まりが例えば、周りの人達がやっていなかった事による「エリート効果」であったにせよ、たまたま知人がやっていて、その付き合いとして始まったにせよ、それはどういうきっかけもありだと思うのです。きっかけはいろいろあってよい。
ちなみに私は「たまたま」の組みです。
ある人が「たのしい教育活動」を続けていこうと決断する時、周りがやっていないという事による「エリート効果」で広がっていくのではなく、たのしい教育を試した事による、実験結果としての「子ども達の笑顔」であったり「自分のわくわく感」であったり、「保護者の方達からよせられるファンレター」であったり、そういう「自分の本質的な喜び」として継続していくことを目指したい。
もしかすると、あの文章の続きで、板倉聖宣はそういう趣旨の事を語っていたのではないだろうか?
語っていなかったにしても、「語りたかった」のではないだろうか、そんな事を考えています。
エリート効果というのは「周りの人達から一目置かれる」という、周りの評価を気にした行動です。
そしてりゅうたろうさんが引用していた様に、それが広まると必然的に意欲が低くなってしまうものです。
私たちが大切にしている「たのしい教育活動」が広がっていく時に、そういうものを拠り所にしていてはあぶないのではないか。
そういうものではなくて、
「これをやると自分がたのしくてたまらないんだよね〜」
という様な、個人として湧き出て来るものを大切にしていく、という事が私の活動の指針です。
さっきは、板倉聖宣はそういう事を語りたかったのではないか、と書きましたが、実はりゅうたろうさんも、そういう事を考えていたのではないか、そう予想しているところです。
いっきゅう筆
たのしい授業の思想