メールマガジンの発想法の章で表題の〈90%主義の教育を〉という板倉聖宣の話を紹介したところ大きな反響がありました。少しだけここにも紹介しておきたいと思います。
わたしが強く影響を受けた発想法・哲学の1つです。
人間に完全を要求してはならない。
たとえば〈かけ算〉をおしえたからといって100題の計算問題全部正しく答えられることを要求してはならない。
人聞には〈あやまち〉というものがあるものだ。〈気のゆるみ〉というものが許されてしかるべきだ。
人聞が自由であり、機械や奴隷でないことは〈完全でなくてもよい〉ということを保証されているところに、もっとも典型的にあらわれているのではないかと、このごろつくづく思う。
100題の計算問題のうち10題以上もまちがえるとしたら、それは彼が〈かけ算〉というものをよく知らないか、その時の肉体的精神的状態が健全でないということの証拠となるだろう。しかし1題や2題まちがえたところでどうだというのだ。それは人間の〈あまりに人間的なまちがい〉とはいえないだろうか。
板倉聖宣1966
ある学校でとても熱心な図書館司書の先生とこういう話になったことがありました。もうすでに退職している頃でしょうか。
わたしが大学で図書館司書の単位を収めてきたということでだったのか、図書館の担当をさせてもらっていて、司書の先生と話し合いをもつ機会もたくさんあった頃です。
ある時の話し合いの中でその先生が
「学校の子ども達全員が定期的に図書館に本を借りに来てもらうためにはどうしたらよいだろうか」という話をしました。
わたしは〈全員〉という言葉が気になってこう話しました。
「野球 命だ、とかいって学校が終わると一目散に部活に飛んでいく子もいていいと思うんですよ。もしかしたらその子はその日々のお陰で甲子園に出て一流の選手になっていくかもしれません。そういう子も全員〈とにかく図書館に来て本を借りて読むように〉という様にすると、そういった子ども達の夢を奪ってしまうことになるかもしれません。
〈全員〉というのではなくて〈もっと多くの子が〉という様に目標を変えて、キャンペーン機関を実施するという様な方法ならアイディアがあります」
その先生は深く納得してくれた事を覚えています。
90%主義というのはそういうことです。
四捨五入すれば85%もその範疇ですから、わたしは時々〈85%主義〉という様にいうこともあります。
親も子も教師も完全ではありません。
そしてその完全でない部分に新たな可能性が見つかるかもしれません。
わたしの様によく忘れ物をする人間が、忘れ物対策の大発見をするかもしれないのです。忘れ物をしない人間はそもそもそういうことに困っていませんから、そこに知恵を働かせようと思うことも無いのです。
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