この日曜日に開催する〈たのしい教育Cafeスペシャル〉でA先生が仮説実験授業「足は何本?」を実施します。
わたしの好きな授業書の一つで、ハンディーのある子どもたちも、普通学級の子どもたちも一緒にたのしめる授業です。
もともと〈たのしい教育〉は大人、子どもの年齢の垣根も超えてしまうくらいですから、たとえば小学生でハンディがあるなしは特にハードルになりません。
文字が読めなくても、先生が話すことをある程度理解する力があれば大丈夫ですし、「口喧嘩できるくらいの力があれば大丈夫」という判断の仕方もあります。
特別支援のクラスでは「虫ずき」「植物ずき」「機械好き」など、他の子どもたちよりも興味関心が高いものを持っている子どもたちが多くいます。
それは普通学級の子どもたちより「自分自身の興味関心」をとても大切にしている子どもが多いからだというのが私の予想です。
わたしが教師をしている時は理科を担当することも多く、たくさんのクラスの子どもたちに授業してきたのですけど、特別支援のクラスの子どもたちも、わたしの理科の授業をたのしみにしてくれていて、行事などで時間割の変更があると「なんで理科がないんだ」と担任の先生に苦情をいっていたということも伝え聞きました。嬉しいことです。
たのしい教育の授業の中では、普通学級の子、特別支援クラスの子の垣根はありません。研究授業などでは後半に授業研究会を持ちます。その時、外部から見に来た方達には、特別支援のクラスの子が一緒だったということを知らない人たちが普通にいるだけでなく、活発に意見を言ったりする様な目立った子の中に、特別支援の対象の子がいることを知って驚いたりします。
しかし驚くには及ばないのです。
その子たちが〈劣る〉様な尺度で見ているから、その子固有のたくさんの支援が必要なのだという結論になっているだけで、その子たちが興味関心を持ってくれる内容を提供できたら、そこに向かってどんどん伸びる剥き身(むきみ)の才能を携えているのですから。
ある人たちを〈劣る〉と結論付ける尺度はいくらでもあります。それは誰にでも向けることができます。
たとえば私を〈ものを探す力〉という尺度で測れば、小学校低学年の子どもに劣ります。
クラスの子どもたちを〈可愛げ〉とか〈ファションセンス〉という尺度で見れば、成績の上下と関係ない優劣が出てきます。
しかし「この子は〈可愛げ〉について特別に支援しなくてはならない」という様なクラス分けはありませんね。
〈可愛げ〉は一般の教育にとって重要ではない、とみんなが考えているからです。
社会で生きていくにあたって、周りの人に可愛がられるというのはすばらしい才能だと思います。忘れ物をしたり、何か失敗しても、可愛がられている人はヘルプしてくれる人たちがたくさん出てくるでしょう。
赤ん坊は自然に可愛がられるすばらしい才能を持って生まれて来ます。大人になっても、そういうセンスをある程度持ち続けていられたら、それは大きな宝物になると思います。ある分野で自分の力が低くても、周りの人たちの力を重ねて、いい結果が出せる可能性が高くなるからです。
逆に〈この人、可愛げがないよね〉という様な雰囲気を普通に漂わせていると、周りの人たちからの知恵や力が重なることが少なくなっていくでしょう。
誤解しないでいただきたいのですけど、可愛いらしい人が素晴らしいとか、可愛げがない人はいけない、と言いたいのではありません。〈計算のスピード〉や〈漢字の読み書き〉など学校で優劣をつける尺度を重視して、実生活・社会生活でも判断しがちですけど、学校では特に評価しない、たとえば「可愛げ」などの様ないろいろな尺度があって、それらもかなり有効なのだということを知っていただきたいのです。
今、特別支援のクラスに入っている子ども達に「たのしい教育」で授業を組み立てていけば、普通学級の子ども達と同じ様な授業が成り立ちます。
〈たのしい教育で全ての授業内容がOKだ〉というほどプログラムや教材がふんだんにある、というわけではありませんが、それでもおそらく皆さんが予想しているよりかなりたくさんの教材がそろっていると思います。
来る日曜日のたのしい教育Cafeにお申し込みの皆さんは、それらのいくつかを一緒に体験しましょう。
お会いできることをたのしみにしています。
たのしい教育Cafeや講座などで取り上げたい内容は数々あって、たとえば「研究授業ならたのしい教育」という様なテーマの講座もできるだけ早くやりたいと思っています。それでも来年にはまた〈特別支援〉をテーマにした講座もできると思います。ご期待ください。
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