仮説実験授業研究会代表 板倉聖宣「たのしい授業の思想」の反響から

 板倉聖宣(仮説実験授業研究会代表)の「たのしい授業の思想」の後半部分を11/18発行のメルマガ(最新号)に掲載したところ、さっそくいろいろな反響が届きました。その中に「板倉宣先生の話はとても辛口ですけど確かに自分は、教師が言うままに納得してきた優等生だったのだなと思います」というメールがありました。

板倉聖宣沖縄に来た時に熱く語る板倉聖宣

 これまでも書いて来ましたが、板倉聖宣が執筆した文章と、板倉聖宣の講演などを書き起こした文章は、かなりの違いがあります。

 板倉聖宣が語る時、一見、過激な話がたくさん出て来ます。上の写真は沖縄に来てくださったとる時の一枚ですが、早口で歯に絹を着せず目から鱗が落ちるかの様な発想をたくさん聞かせてくれました。過激だと思える言葉も出て来ます。しかしよく考えていくと、たとえば歴史を紐解いたとても納得いく話です。
 それに対して書く文章は、同じく目から鱗が落ちるかの様な発想ではあっても、丁寧にそれをまとめてくれています。研究所に来る若い先生たちに読んでもらっても「わかりやすいです」という評価です。
 書くと語るで、同一人物だとは思えない、という様な感じもするくらいです。しかしそれはわたしの感想だけではなく、板倉聖宣本人が、いろいろなところで似たエピソードを語ってくれています。いずれ紹介できると思います。

 さて、反響がいろいろ届いている、板倉聖宣の「たのしい授業」の思想 の後半部分の一部をメルマガから掲載いたします。

板倉聖宣 = 「たのしい授業」の思想 (1983)= から

 

 人を見下すためにする勉強のつまらなさ
 ふりかえってみると,私自身の学校生活はたのしいものではありませんでした。幸いなことに,数学についてだけは,小学校のころから「数学的にものを考えることのたのしさ」を知ることができたので,たのしく勉強できはしました。しかし,ほかの勉強はまるでたのしくありませんでした。ときたま国語読本の科学にかかわる話の中に「たのしい」と思える話がのっていましたが,理科もたいくつなばかりでした。だから私は,なぜ勉強するのかわかりませんでした。
 そこで私が下した結論は,「勉強というのは他の人たちにばかにされないためにするものだ」ということでした。
 じっさい「こんなことを知らないとはかにされますよ」といわれる言葉がもっとも迫力があるように思われました。「歴史も地理も理科も,人にはかにされないために勉強するもの」私はそう思って小中学校に通ったのです。
 しかし,そんな思いで勉強していたのでは,勉強がたのしくなるなんていうことはありえません。そこで私は歴史も地理も理科も国語も,人にはかにされないだけの知識を身につけることに失敗しました。じっさい,よく姉だちなどからばかにされ,笑いものにされて,とてもみじめな気分になったものでした。
 そこで私は,こんどは知識とか学問というものをのろいたい気分になりました。そして「勉強というものは,人をけいべつし,見下すためにやるものだ」と考えるようにもなりました。こうなると,「勉強すればするほど人が悪くなる」ということになって,「正義のためにも勉強なんかするものか」という気分にもなってきます。意気地のない私はそこまでひらきなおって勉強を拒否できず,しぶしぶ「けいべつされないための試験勉強」などをしたのです。
 学校の成績が悪いとそのことだけでけいべつされ,成績がいいとそのことだけで尊敬されるということは,私も知っていたからです。

 私が「たのしい」と思って勉強したのは長い間、数学だけでした。しかし敗戦を経験した直後に,中学3年で西洋史の教科書をはじめて手にしたとき,「これは勉強するに値するぞ」と思うことができました。それから哲学に興味がわき,物理や化学が面白いと思うよ子どもから拒否されるのでしょうか。今度は私の体験を中心に,具体的な内容について少し考えてみることにしましょう。
「小中学生のころの私は理科が好きでなかった」と書きましたが,それはふつういわれるように「理屈っぼい理科が自分の性分にあわなかったから」では断じてありません。いまはいわゆる科学教育の専門家となっているので確信をもっていえるのですが,たいていの場合,「理科で教える知識があま引こも一方的で理屈にかなっていないように思えてならなかったから」こそ理科がきらいだったのです。

 私がはっきりおぼえていることに,「ジャガイモのイモは茎(地下茎)で,サツマイモのイモは根だ」という知識があります。
 小学校6年生のとき,先生から渡された受験問題集にのっていた知識です。私はそのときあまりのばかばかしさに,「そんなことおぼえるもんか」と大いに反発しました。その反発があまり激しかったので,かえってはっきりおぼえているのです。

 常識的にいって,地下にあるものはすべて根であって茎ではありえません。だから強いて,「ジャガイモのイモは茎だ」というには,「イモをすべて根と考えるとどんな混乱が生ずるか。ジャガイモのイモを茎と考えるとどんなにいいことがあるか」ということをわかりやすく説明してくれなければなりません。竹や蓮根の地下茎だって,あれを根と考えるととういう不都合があって困るのか,説明してくれなければ困るのです。

 小学生時代の私には,イモを地下茎と考える必然的な理由はまったくわかりませんでした。いや,私はそのことが気になっていたので,それから今まで40年間も「イモを地下茎と考える必然性はとう説明されるのか」ことあるたびに各種の本をしらべているのですが,いまだに納得できないでいるのです。それなのに,いまでもときどき植物学の断片的な知識のうけうりで,「ジャガイモのイモは地下茎だ」と教えたがる人はあとをたちません。
 もちろん学問的にはそれなりの理由があって,ジャガイモのイモを地下茎としているわけです。その理由としてよくあげられることは,私も知らないわけではありません。しかしふつうの本に書いてある「その理由」はそのすべてを並べあげても私を納得させるのに十分でないのです。
 このことについて私は「ジャガイモ教育史」という一篇の論文をかけるほどの材料を巣めています。この「ジャガイモは茎だ」という知識の教育史はひとつ教訓的な話ともなります。

 科学の本が専制ぶりを発揮するとき
 私の知るかぎり,多くの日本人がこういう知識をはじめて知ったのは明治8年以後のことです。その年文部省が翻訳刊行したガリグエー著『初学須知』の植物学の巻の冒頭に「馬鈴薯の塊根の如きは・・・・茎{の}…膨脹する者なり。」と書かれてあったからです。

 当時はいわゆる「究理熱」の時代で,近代科学の分子論的な世界観がそれまでの日本人の自然観を根底から動揺させていたころでした。しかし,こと博物学的知識に関しては、それまでの日本人の常識を根底からゆさぶるよぅな重大な知識は欧米にもないと思われていたのです。ところが,この「ジャガイモは根ではなくて茎だ」という説は,それまでの日本人の常識を超えたものでした。そこでこの知識はその後のほとんとすべての小学校の教科書にとりあげられることになったのです。
 「その人が文明開化の時代の植物の知識を知っているかどうか」を見るには,ジャガイモを茎と答えられるかとうかで簡単に判断できたからでしょう。それにガリグェーの本には,「凡そ根は幹及び小枝と識別し易し。これ,幹と小枝〔茎]とは芽を生ずれとも,根は否らざる故なり」とも書いてありました。
 日常生活の常識からすると,地中にあるのが根で地表にあるのが茎ですが,ここでは「芽を生ずるものは(地中にあっても)茎だ」と定義されているのです。科学は専制君主ではないので,何の理由もなく常識に反した定義を下すわけもないのですが,この本にはそういう定義の変更を必要とする必然性はとこにも示されていません。
科学の本も,教育の権力者と相通ずると,しばしばこういう専制ぶりを発揮するのです。

 サツマイモは根か茎か
 しかし,明治の文明開化の精神は,その専制的な定義の変更をそのままうけいれました。そしてその後日本人の著した教科書には,「ジャガイモでもサツマイモでも,いもは根でなく茎だ」と大書されるようになりました。
 フランスとはちがって明治の日本にはジャガイモはほとんどなく,サツマイモが普及していました。ですから,日本では,ジャガイモについて書くならサツマイモについても書かなければなりません。そこで「サツマイモは根か茎か」に判断を下そうとして「芽を出すかどうか」を見れば,たしかに芽を出すので,「サツマイモも茎だ」と書いたのです。理科教科書の編者たちも応用問題を解いて,まちがったというわけです。
 サツマイモを育てるには,茎を挿木しますが,その茎は苗床にふせたイモから出た芽がのびたものを使うのです。ですから「芽を出すのは茎で,根は芽を出さない」という定義からすると,この応用問題の解答にはまちがいの入る余地などないように見えます。しかし植物学者は,ジャガイモのイモは茎とし,サツマイモのイモは根としているのです。
 これはどうしたことでしょう。

 このちがいを説明するには「ジャガイモとサツマイモとでは芽の出かたにちがいがある」ということに着目しなければならないのです。「一方のイモにははじめから鱗片状の変形葉がついた芽があって,そこから芽がでるのに,他方ぱ芽が出る”といってもそれは不定芽で,直接葉を生じないというちがいがある」というわけです。
 しかし,そんな微妙なちがいなど小学生にはなかなかわかるものではありません。理科教科書の編者たち,のちに東京文理科大学の初代学長になった三宅米吉とか,のちに東大の植物学の教授となった松村任三さえまちがっているのです。「ジャガイモは茎だがサツマイモは根だ」という知識は,グレー著(矢田部良吉訳)『植物通解』(文部省,明治16年刊)にはじめて出てくるのですが,その後も小学校の理科の検定教科書のまちがいも容易に改まりませんでした。安東伊三次郎著『生物界の現象(植物篇)』(上原書店,明治35年刊)などが,「甘藷のイモは茎にあらず」と強調して,やっとジャガイモとサツフイモの区別がはっきりつけられるようになるのです。

 つまらない授業は優等生をうむ
 それではその後の小学校の理科教科書はこの問題をどう扱うことになったのでしょうか。明治40年以後,文部省は小学校の理科教科書を国定として教師用書と児童用書を出しましたが,その国定理科書には「ジャガイモは茎,サツマイモは根」とだけ書いて,なぜそのように区別するのか,その理由については教師用書にも書いてないのです。
 私もそういう国定教科書で理科の授業をうけたので,納得がいかなかったのも当然といえるでしょう。
 もちろん,その国定教科書時代にも,「なぜジャガイモのイモは地下茎でサツマイモのイモは根か」ということについて何とか「わかる授業」をやろうと努力した人びともいました。
 そして今もいます。

 しかしそういう授業はまったく成功していないといってよいでしょう。先生が「なんとかわからせよう」と努力していっていることをわかる子はいても,ひとつも「たのしい授業」にはならないからです。「理科ではなぜ,常識とはちがった茎の定義をするのか」その必然性がわからなければ,サツマイモとジャガイモとの芽のでかたのちがいをいくら教えても何か空虚な感じが残ってしまうからです。先生のいうことは何でもうけいれてしまう優等生だけが,「ジャガイモは地下茎で,サツマイモは根」という結論と「なぜそういえるのか」と問われたときの模範解答の書き方をおぼえて,それで優等生ぶりを発揮するにおわるのです。

 私はいま,そういう優等生になれなかった自分をほめてやりたいと思います。

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