「言葉」にはまるでDNAの様に受け継いできた〈人々の心、大切にしてきたものの見方・考え方〉が刻まれています。
カウンセリングの講演や科学・ものづくりなどの授業、メンタルヘルス、子ども達への受験特訓などでも、言葉の中にある、ものの見方・考え方について触れることが多々あります。
最近、若い先生方向けの講座で話した「清らかさ」についてのお話の反応が大きかったので、今回は、そのことについて書いてみます。
私は琉球大学の教育学部で学びましたが、その時の私の周りは8〜9割が県外出身者でした。もちろん先生方も県外出身者が多数いました。
そういう中だったからでしょう、心理学の授業で、ある先生から沖縄・琉球の言葉に触れて
きゆなくん、沖縄の「ちゅらさ」という言葉は「美しい」という意味でいいのかな?
という質問を受けたことがありました。
わたしが小学校の中学年頃までは、琉球方言をたくさん耳にしていました。
もっぱら方言を使うおじいちゃんおばあちゃんたちが元気な頃です。
しかも私はおじいちゃん子で、祖父は三味線の先生もしていましたから、歌に残る沖縄の古い言葉をふんだんに聞いていました。
自分でしゃべることには不自由するのですけど、琉球方言についてはある程度、体に染み付いてもいます。
ですから、あまり躊躇せず
「〈ちゅら〉には大和言葉の〈美しい〉というイメージはあまりそぐわなくて、あえて言えば〈ちゅら〉は〈清らかな時〉に使う言葉だと思います」
と答えたことを覚えています。
今でも、その答えでよいと思っています。
沖縄方言で〈ちゅら〉の反対語は、〈醜〉を表す言葉ではありません。
〈やな〉という言葉が反対語です。
〈やな〉は〈悪〉とか〈悪い〉というイメージです。
〈やなむん〉という時には、〈悪いもの〉、何かしら〈邪悪なもの〉を意味します。
〈やな〉の反対が〈ちゅら〉なのです。
ですから〈ちゅら〉は〈美〉というより〈清らか〉というイメージが近いのです。
〈美〉にも、〈清らか〉という意味が含まれているといえないこともありませんが、たとえば「美人」という時には、清らかさより別な価値観が先に立ってしまうことが多いのではないでしょうか。また、善悪の価値観や誠実さなどを含んだ言葉から、ずれたイメージに捉えられてしまうことが多くなると思うのですが、どうでしょうか。
さて「ちゅら」という単語を含んだ「ちむじゅらさ」という言葉があります。
これまで書いた様に「心の美しさ」ではなく「心の清らかさ」となります。
顔形(かおかたち)というのはDNAで決まっているものですから、基本的には、自分でどうすることもできません。ところが「心の清らかさ」は自分で育てていくものです。
そこで、受験生にこういう話をしました。
「教室に入って〈さぁ試験が始まるぞ〉という時には、心清らかに待ちましょう。探し物をしている時にも心乱れていると、目の前のものが見えずに慌てて別なところを探してしまい、結局見つからなかったりするのです。メガネをかけているにもかかわらず慌ててそれが見えずにいろいろ探しまわる、ということもあるくらいですね。ですから〈心清らかさ=ちむ・じゅらさ〉は、試験の時にも大事なのですよ」
私は長年、琉球空手をやっています。
試合の前には目を閉じて息をゆっくり吐き、心清らかにして臨みます。試合後もそうです。
「空手に先手なし」という教えがありますが、それは邪悪な心を排除するという「心きよらかさ=ちむ・じゅらさ」を大切に含んだ文化の一つです。
わたしは琉球・沖縄で育ったことを、いつもありがたく思っています。
この沖縄の青い海や青い空も、「美しい海・美しい空」というより「清らかな海・清らかな空」という様に私には写ります。
たのしい言葉の授業「おきなわ・琉球編」でした。
楽しい授業の領域はいろいろなところに広がって
ますます快進中の「たのしい教育研究所」です