板倉聖宣は仮説実験授業を生み出した人物ですが、仮説実験授業そのものが〈授業書〉という形で模倣できる教材を創り出しています。その板倉聖宣が語った〈模倣すること、まねることの重要性〉について紹介しましょう。前回からの続きになります。
板倉聖宣 日本の学校教育と創造性
「教育と医学」1989. 4月号から抜粋模倣の創造性に注目を
私はもともと、科学史の研究者である。そういう立場からすると、これまでの創造性議論には理解しえないとことがいくつかある。まず、普通の創造性議論では、「模倣は卑しく創造のみが尊い」とされていたりするが、「模倣を卑しいとしてきた考えが人々の創造的な活動を抑圧してきたことも少なくない」ということも気になるのである。
じつは、日本の歴史でも創造性よりも模倣の重要性の方が強く訴えられた時期が何度かある。しかも、皮肉なことにそういう時期こそ、日本人がもっとも創造性に富んでいた時代でもあった。幕末から明治維新頃の蘭学・洋学の時代がそうであったし、第一次世界大戦の後のいわゆる「大正デモクラシー」の時期がそうであった。蘭学・洋学はもちろんのこと、デモクラシーも民主化も欧米に学んだことである。
日本人は、外国を学ぶことにもっとも創造性を発揮してきたのである。
その時代、国粋主義というか民族主義の人々は、日本国有の文化の重要性を訴え、それを自分たち自身で創造的に発震させることを強調したのであった。よく「日本人は創造性はないが模倣は上手だ」などというが、「日本人は、その模倣性においてもっとも創造性を発揮してきた」といったほうがいいのである。科学の歴史を研究すると、そういうことによく出会う。近代ヨーロッパの科学者たちは、古代ギリシャの学問の成果を模倣することによってはじめて近代科学を打ち立てるごとができたのであって、それとは無縁に実験することによって近代科学を作りあげていったのではない。少し考えてみるとそんなごとは当たり前なのに、とくに教育の世界では創造と模倣との関係が対立的にのみ捉えられるのでわからなくなってしまうのである。
日本人は欧米の文化をまるごと真似ることによって、豊かな日本を築きあげることに成功した。しかし、中国人たちはそうではなかった。幕末から明治初期のころ、日本人は西洋の科学を全面的に取り入れようとして、自分たちの子で西洋の多くの科学書を訳した。しかし、中国人たちはそうではなかった。同じごろ、中国でも多くの西洋の科学書が訳されはしたが、それはみな西洋の宣教師たちの子によるものであった。中国でも西洋の科学書に対する需要があったのに、中国のインテリたちは、自らそれらを訳すごとを快しとしなかったのである。
つまり、日本人の創造性は、まず西洋文化を自らの手で積極的に学びとることにおいて発揮されたのである。多くの人々がまだ学ぶに値しないと思っているときに西洋科学を積極的に学ぼうということは、我を張って自分たちだけで思索し実験することよりも創造的だったのである。
だからこそ、江戸時代の蘭学者・洋学者たちは先駆者でありえたのである。
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