たのしい教育研究所のサイトはおかげさまでいろいろな方達の興味関心を引き、いろいろな質問も届きます。今回は、ある熱心な読者の方からいただいた質問について答えさせていただきます。
今年初めに質問していただいたのに、答えるのが月の終わりになってしまいました。個人的に返信するより、このサイトでお答えできたらと考えていたことと、簡単に答えられる内容ではなかったからです。
固有名詞もいろいろ出てくるので、そのまま紹介することはできませんが、質問者はこのサイトに出会って「たのしい教育に大きな魅力を感じた」というAさんです。小学生と中学生の保護者でもあります。
Aさんは〈たのしい教育メールマガジン〉も購読してくれていて、ますますその魅力を感じて行く中で「どうして、こんなにいい〈 たのしい教育〉が、全部とは言わないまでも、せめて半分くらいの学校で実践される様になっていないのか」という疑問が出てきたというのです。
〈たのしい教育〉に興味関心のある読者のみなさんはどう考えるでしょうか?
ゆっくり議論を返しながらすすめていきたいところですけど、そうやっているうちに今回の様に時間が流れていくでしょうから、私の考えを書かせていただきたいと思います。
まず「〈たのしい教育〉そのものが大したものではないから」ではないか?
という選択肢があります。
そういう方はなかなかこのサイトを読むことは無いと思いますし、たのしい教育研究所のメンバーは誰一人といって、そう考えている人はいません。
しかし、そういう選択肢をゼロにしてしまっては宗教と同じで〈これが正しいに決まっているのです〉ということになります。
さて〈たのしい教育〉というのは、それ自体が〈大したものではない〉〈取るに足らないものだから広まらない〉のでしょうか。
もしそうだとしたら、この沖縄の地でスタートした〈たのしい教育研究所〉の活動は五年も経つうちにどんどん先細りになっていくのではないかと思うのですがどうでしょうか。
おかげさまで〈たのしい教育研究所〉の活動はしっかり地に足をつけて着々と成果をあげてきています。
第一次の活動から、第二次の活動にステージをすすめ、そのステージでも着実に成果が出てきています。すでに第三ステージの構想ができつつある状況です。
Aさんの疑問は〈全部とはいわないまでもせめて半分くらいの学校で〉ということでした。
半分くらいの学校で実践される様になるにはどうしたらよいのでしょう。
思考実験として、たとえば研究所の代表の喜友名が教育長になって、隅々の学校まで支持して〈たのしい教育〉を実践してもらう、と早く広がるのでしょうか?
NOです。
もしそうやって広まっていったとしたら、それは〈たのしい教育〉と似て非なるものです。
〈強制〉は〈たのしい教育〉の大いなる敵でもあるのです。授業の中で強制を排除しようと考えている〈たのしい教育〉が、それを展開する中で〈強制〉という手法をとることはありません。
たのしい教育が広まっていくために重要なのは、それを進める人たちの〈熱意〉を元にした〈実践力〉です。
仮説実験授業を創った板倉聖宣は文部科学省の教育研究所に籍を置いていましたが、〈指導要領に仮説実験授業が入りそうな動きがあったら最も強く反対するのは私です〉と話していました。それと同じ気持ちです。
〈たのしい教育〉はゆっくりと〈熱意と実力〉を伴った人たち、そしてそれを周りで〈支えてくれる・応援してくれる人たち〉を育てていくことで、広めていきたいと考えています。
それは〈大量生産的〉になし得るものではありません。
地味にこつこつ、丁寧に育てていく必要があるのです。
たのしい教育研究所が〈熱意と実力〉の伴った先生たちを育てようと活動しはじめてまだ三年です。たのしい教育を実践できる知恵と熱意を持った先生たちを育てる活動は一年くらいかかります。一〜二回の講座で芽を開く方も居ないわけではありません。しかし、そういう特別な先生たちを求めつつも、毎週毎週のトレーニングでたのしい教育の刺激を受けていく先生たちを学校現場に送る、そういうとても地道な活動がなくてはいけません。
ですから時間がかかるのです。
とはいえ、その重要性に気づけたのは、とても幸いなことでした。気づかずに、講座やカウンセリングのみで活動をすすめていたら、たとえばAさんの問いかける〈沖縄の半数の学校でたのしい教育を実践する人たちがいる〉という未来を、もっとずっと先に想定しなくてはならなかったでしょう。
今のこの活動が、未来を拓く大きなカギになってくるに違いありません。
沖縄県教育委員会のサイトによると、2017年度の実数として県内に国公立の小学校が271校、中学校が156校あります。合わせて427校です。
その半分でたのしい教育が実践されるとしても、その学校に一人の〈たのしい教育の力をもった教師〉がいただけでは難しいでしょう。
教師の数は小学校で5480人、中学校で3244人、合計8724人です。
その半数4362人が、たのしい教育を実践する。
その日が来るのはいつのことでしょう?
一次方程式のグラフの様な単調な伸びではなく、ある点で急激に変化が訪れることがあると思います。それがいつやってくるのか、それはわかりません。少なくとも今年でも来年でもないことは確かです。
まだ先のことです。
ではその長い道のりは〈苦難〉なのでしょうか。
いえいえ全く違います。
たとえば二月の講座を企画している仲間たちにとって、講座は〈クリスマス〉の様なたのしいイベントです。その会議や準備もワクワクしながらすすめています。
たくさんの人たちが〈たのしい教育〉を志して実践する様になった頃は、いま私たち〈たのしい教育研究所〉が味わっているのような、たのしさを感じることはできないでしょう。
新しい時代を切り拓いていくことは、たのしくてならないことなのです。
目の前に道がなくて、どこをどんな具合に行けばよいのか、わからない。
でも〈頂上〉は見えています。
そして頂上に向けて進んでいるかどうかは、たくさんの人たちの笑顔を感じていくことで確認することができます。
そういうたのしさを実感しながら、着実に〈たのしい教育〉を広めていく。それが今の〈たのしい教育研究所〉の活動です。
この季節は〈蕾見:つぼみみ〉のことを時々書いています。
この手前の桜の木は、花も葉も見ることはできません。枯れ木にすら見えてしまうほどです。
しかし近づいてみるとそこには蕾がたくさん見えています。
たのしい教育研究所の活動も、まさにこういう蕾の時期にきていると思えてなりません。
その蕾たちが、たとえば、この写真に写っている方達であったり、講座に参加してくれる方達であったり、研究所で自分の可能性をどんどん伸ばしてきている、より深く学んでいる人たちであったり、県外からはるばる研究所に学びに来てくれる人たちであったりするのです。
こういう、熱意と実力を持った人たちがたとえば沖縄の地に100人育つ頃、その頃が大きな転換点になると思います。
8723人の小中学校の教師の中のわずか100人。
その100人で何がどう変わるのか?
大きく何かが突然変わることはないでしょう。
しかし、一つの県で〈たのしい教育〉を目指す実力ある教師が100人いると、これは大きな変化の〈蕾:つぼみ〉になると思っています。
まずその100人が育つためにどうするか。
大切なことがあります。
〈和をもって貴しとなす〉ということです。
数々の歴史をたどると、〈これが正しい〉と思った人たちが、そうでない人たちと対立してしまう例を探す苦労は要りません。いくらでもあげられます。
今でも思想信条の違いで悲惨な対立が起こっています。
真理は闘いで勝ち得るものではありません。
約400年前、天動説と地動説の対立でガリレオは死刑になるところでした。正しいことを言っていたガリレオは、罪人として裁かれ、結果的に幽閉されてしまいました。
教会がガリレオに謝ったのはつい最近2008年のことです。
〈教育〉は〈真理〉を求める営みです。真理を求める過程で、考えが違う相手を力で相手を押さえてしまうことがあってはならないと考えています。
研究所で学び育つ人たちは、周りの人たちとたとえ考えが違っていても、〈闘争〉するのではなく、ゆっくり地道にコツコツと、周りの人たちの笑顔を増やしていく。
分かり合えない人たちも必ずいることでしょう。
そういう人たちとできるだけ対立しないようにしていたい。
全ての人と分り合えるというのは不可能です。しかし分かり合えないまでも、〈たのしい教育〉に一目置いて見てくれる様になるかもしれません。
研ぎ澄まされた刃はいくら厚い袋に入れておいても、動いているうちに刃先が外に出て行くものです。たのしい教育の力ある教師は、そういう力ある教師として伸びていって欲しいと思っています。
Aさんの質問に戻りましょう。
〈たのしい教育〉を実践する学校が半数もないのはどうしてか。
それは、そういう活動が本格的にスタートしてまだ歴史が浅いからです。
そして当然〈たのしい教育研究所〉自体が、まだ伸びていく過程にあるからです。
沖縄県の半分くらいの学校で〈たのしい教育〉が実践される。
その日がくるのは、まだまだ先のことでしょう。
だからこそ、たのしく元気に大切に、頂上を見据えて進んでいかなくてはいけません。
このサイトを読んでくださっているみなさんが、それを応援してくださることをたのしみにしています。
かなり長い文章になってしまいました。
最後まで読んでくださってありがとうございます。この文章で、一人また応援してくれる人が増えてくれることをたのしみにしています。1日一回の「いいね」クリックで応援をよろしく!