2018年2月7日早朝、板倉先生が永眠してから数日経ちました。いろいろな方から問い合わせもありますので、その後のことを書かせていただきます。
訃報を聞いてからあえて1日置き、奥様の玲子さんに電話を入れてみました。玲子さんはいつものご様子で、板倉先生のことや自分のことをいろいろお話してくださいました。その平常さは、自分が頑張らなくては、という思いであることは間違いないでしょう。
板倉先生を亡くした直後で、お会いすることは難しいとわかりつつも、直接お会いして玲子さんへの感謝の気持ちなどを含めたたくさんの想いをお伝えできたらと思い、都合をお尋ねしてみました。すると、時間をつくって下さるという返事だったので、仲間たちから預かった玲子さんへのメッセージなども携えて東京に向かいました。そのメッセージの中には、研究所で学びつつも板倉先生と直接会ったことの無い人達からの言葉もたくさん寄せられています。
玲子さんは、今はもうそこにいない板倉先生の最後の様子をお話ししながら、いつも語り合っていた部屋の中を案内して、いろいろお話ししてくださいました。
玲子さんの許可をもらいお部屋の写真を撮らせて頂きました。
板倉先生を見舞いに行き、玲子さんも一緒に長い時間語り合ってきた部屋です。
窓辺には、お花や鶴やメッセージが書かれた掛物が飾られていました。
入院し、まだ比較的お元気だった頃の板倉先生の写真が飾られています。
見舞いにいく都度に、次第に細くなっていった板倉先生でしたが、その身体の中に蓄えられた命の炎の最後のエネルギーの一滴までも燃え尽くして、がんばっていったのだと思います。見ていると、これまでお見舞いさせていただいた時のことが数々想い出されてなりません。
これまでこの部屋に招いて頂いて、板倉先生や玲子さんとたくさんのことをお話しさせてもらいましたが、その時に持参したみやげもそのまま掲げられていました。
玲子さんは喪主としての挨拶文を書いているところで「何を書こうかあれこれ考えております」というお話でしたので、「かつて玲子さんが〈夫 板倉聖宣は革命家なのだと思う〉と話していた言葉がとても印象的でしたよ」と話すと、「そういう話もしていたのですね」と思い出して下さって、二人で「板倉聖宣は《人間の認識》における真の革命家であったのだ」という話になりました。
玲子さんから板倉先生の数々のエピソードをお聞きし、私は沖縄に板倉先生が来てくださった時のことをお話しし、あっというまに長い時間がすぎていきました。この部屋にいくといつもそうです。
板倉聖宣はたくさんの財産を手にしました。
仮説実験授業であり、その研究会であり、授業書がそれです。しかしあまり語られることはありませんが、板倉聖宣が手にした大いなる財産は、その奥様の玲子さんであったことを、ここにはっきりと記しておかなくてはと思っています。
私がいくと帰る時には必ずその事を板倉先生にお話ししていましたが、毎回のこと、そばにいる玲子さんは、そんなことはありませんと謙遜し、逆に板倉先生自身は、大きく声を上げて賛同して下さっていました。
師 板倉聖宣が研究のみに没頭することができる状況を作り出した偉大なる人物が玲子さんです。
板倉聖宣から教えられたことは、沖縄のたのしい教育研究所でたくさんの実りを見ることになると思います。そして、板倉聖宣を支え尽くした偉大なる人物、玲子さんがこれからも長生きしていただける様、応援させていただきたいと思っています。
告別式は今週の木曜日です。私はすぐにお会いしたく飛び出た関係で、たのしい教育研究所からは別の先生が代表して骨上げの儀式から告別式まで参加してくれます。また後日、この続きの話を書かせていただきたいと思います。