たのしい教育の思想/〈たのしさ〉が決定的であるという思想は古いのか新しいのか

 時々誤解する方もいるかもしれません、たのしい教育研究所は〈楽しくないより楽しい方がいい〉と考えているわけではありません。「〈たのしさ〉を加えることで子ども達が少しでも教育に乗って来てくれたらよい」と考えているわけでもありません。
「教育にとって〈たのしいこと〉が決定的である」と考えているのです。

 

 たとえば〈折り染め〉のたのしさを伝えたり、〈絵画〉の講座を開催したり、〈出会いと別れのたのしい授業の講座〉を開催しているのですけど、全て「たのしさが決定的だ」という考えの元に組み立てています。

 計算して正しい答えを出せる子どもより〈計算することがたのしくてならない〉という子どもたちを育てたいと考えています。
 筆を持って教科書と同じ様な文字を綴ることができる子どもたちより、〈毛筆が大好きだ〉〈墨の匂いがたまらない〉という子どもたちを育てたいと考えています。

 この考え方は〈できれば楽しく〉という類とは根本的に違いがあります。

 こういう見方・考え方は沖縄に何度も足を運んでくれた、仮説実験授業の生みの親である板倉聖宣から学び取って来たものです。
 このことに関連して最近のメールマガジンに書いたところいろいろな反響がありました。少し引用してみましょう。

 わたし、いっきゅうの関心事の一つは「そもそも板倉聖宣が〈教育にはたのしさが決定的に重要だ〉と考える様になったのはいつのころからか」ということです。
 それと同時に、長い歴史を持つ教育の営みの中で、いったい誰が〈たのしさの重要性〉を主張し始めたのか、ということも関心事です。

 教員試験合格ワークショップでは〈教育史〉も取り上げています。
 文字が生まれるより前は〈伝聞・言い伝え〉による教育が主流でした。その系統として成熟していったのがソクラテスなど古代ギリシャ(紀元前5世紀前後500年くらい)の哲学者たちで有名な「対話」による教育方法です。

 私たちにとってごく普通の〈同一年齢集団への一斉授業〉による教育は1600年代のコメニウスにその構想をたどることができます。それほど長い間一斉授業がなかったと考えられませんが、「世界図絵」という具体的方法も提唱しながら、一斉授業の重要性を提唱したのが〈コメニウス〉でした。
 現在はI.T.による教育方法も提唱される新しい段階に入っています。

 しかしそういう教育の歴史のどこをたどっても〈たのしさ〉の重要性は出て来ません。
 〈たのしさ〉の視点で〈教育の歴史〉を問い直す作業無しに、その答えは得られないでしょう。
 教育全体の歴史の中で〈たのしさ〉の位置を明らかにしていくことそのものが〈たのしい試み〉になりそうです。

 さてわたしが学んで来た板倉聖宣は、いったいいつから「たのしさの重要性」を語り始めたのでしょう。

 1983年に創刊した「月刊たのしい授業」の筆頭に板倉聖宣は「いまなぜ〈たのしい授業〉か-創刊の言葉-」という文章を綴りました。
 こうあります。

 

 人類が長い年月の聞に築きあげてきた文化、それは人類が大きな感動をもって自分たちのものとしてきたものばかりです。そういう文化を子どもたちに伝えようという授業、それは本来たのしいものになるはずです。その授業がたのしいものになりえないとしたら、そのような教育はどこかまちがっているのです。
 子どもたちが自らの手で新しい社会と自然をつくっていく、そういう創造の力を育てようというのなら、なおさら、その授業はたのしいものでなければならないはずです。たのしい創造のよろこびを味わうことなしには創造性など発揮できないからです。
 だから私たちは「今なによりも大切なのは、たのしい授業を実現するよう、あらゆる知恵と経験と力とをよせ集めることだ」と考えるのです。

 

 そこには
・教育は本来たのしいものになるはずである
・教育がたのしいものになりえないとしたら、それはどこかが間違っている
・今なにより大切なのは、たのしい授業の実現である
ということが迫力を持って語られています。

 ところで、わたしの手元でたどることができる古い資料によれば、上記の文章の17年前、1966年の9月に板倉聖宣が「仮説実験授業の覚書き」として書いた文章に「たのしい」という言葉を発見することができます。
 サブタイトが〈勉強はたのしいことか、くるしいことか、いやなことか〉です。

 実はこの中から〈勉強にとってたのしさが決定的だと〉という考えを読み取ることはできません。
 お読みください。

============================================
仮説実験授業についての覚え書(3)
勉強はたのしいことか---くるしいことか、いやなことか
           板倉聖宣 1966.9.19
============================================

引用ここまで

 

 発見学習のブルーナーが板倉聖宣の発想に近いことを以前書きましたが、ブルーナーも〈楽しさ〉を強調しているわけではありません。

 たのしい教育の講座でも取り上げて来たモラルジレンマのコールバーグはどうか?
 彼は〈道徳性の発達〉という概念とモラルジレンマによる道徳の授業を組み合わせて来たのであって、たのしさが決定的だと考えていたわけではありません。

 もしかすると私が見落としている教育者の中に、その意義と重要性を投げかけた人物がいるのかもしれません。しかしそれを考え合わせても〈たのしい教育〉はかなり新しい思想であるといってよいと思っています。

 おそらくその思想を初めて世に送り出したであろう〈板倉聖宣〉自身、仮説実験授業を提唱したあたり1966年時点で〈楽しさが決定的である〉とは考えていなかった、ということは、私自身にとって大きな発見でした。それはつまり、〈たのしい教育〉は何十年というくらいの歴史しかない若い思想であるということでもあります。

 若く新しい思想・概念である〈たのしい教育・楽しい教育〉が、着実に伸びて行く様に、今後とも全力を投じていくつもりです。みなさんの応援をよろしくお願いいたします。この〈いいねライン〉をクリックすることで〈たのしい教育研究所〉を応援することができます !

珈琲の味わい/珈琲豆は豆ではない/たのしい教育Cafeの〈cafe〉も本格的-日常の予想チャレンジ

 月に一度〈たのしい教育cafe〉を開催しているたのしい教育研究所ですが〈cafe〉という名称も本格的です。今回は、いろいろなよいことが重なってイタリア製の珈琲メーカーが研究所にやってきました。

 そこでさっそく珈琲メーカーの味わいの研究をしています。

 わたしいっきゅうは学生時代に喫茶店でバイトをしていた経験があって、珈琲の味にはかなりこだわりがあります。

 まず豆の種類、量、落とす水の量を違えて味わっています。

 こういう時にも予想チャレンジです。

 ・この方が美味しいだろう
 ・これはあまり違いがないだろう
というように〈予想〉をたてて味わっていくことで、その結果がハッキリします。

 たのしい教育Cafeに限らず、研究所に来てくれる皆さんも、いろいろかえて味わってみてください。もちろんお客さんには無料で提供しています。学びに来たりする方たちには〈何杯でも100円〉で味わってもらっています。ちなみに、代表のいっきゅうはことの他コーヒーを好むので〈いっきゅう先生は150円〉という但し書きが加わりました。

 珈琲の話のついでに〈珈琲の豆は豆ではない〉というお話を・・・

 〈珈琲豆〉というのは正しくは〈豆〉ではありません。
 しかし会話でもお店でも〈珈琲:コーヒー豆〉という方は普通です。こんな風に〈コーヒー豆は10%off 〉という様な使い方はよく目にするでしょう。

 豆というのは、植物分類で正式に使われている言葉で、マメ目−マメ科の植物の実です。

 珈琲は〈アカネ目—アカネ科—コーヒーノキ属〉の植物の実です。

 見た目が似ているというので、ニックネーム的に利用されているわけです。

 マメ科の植物は〈さや〉に入っています。
 では〈珈琲のマメ〉と呼ばれているコーヒーの木の実は、どうやって実るのでしょう? 興味のある方は調べてみてください。

この〈いいねライン〉をクリックすることで〈たのしい教育研究所〉を応援することができます !

 

森友問題の本当の問題と解決方法/政治の見方・考え方入門/重層三権分立というアイディア

 たのしい教育研究所は政治的な活動から最も遠い位置に身を置いています。たのしい教育研究所は、批判をする集団ではなく提案する集団ですから、森友問題についてコメントすることは無いだろう、ともいえますが、いろいろな方達から〈森友問題は何がどうなっているのか整理できない〉というお話や「いっきゅう先生がよく話す〈科学的な見方・考え方〉からすると、どういう様に見て考えていけばよいのか、少しで良いので聞きたい」という話が来ています。
 〈政治の見方・考え方〉としてそういう方達の要望にお応えすることと、もしかすると、もやもやと見ている方達のひとつの示唆になるかもしれないということで書いてみたいと思います。興味のある方はお付き合いください。

 わたし いっきゅうに近い方たちには有名ですが、わたしはテレビをほとんど見ませんし、ラジオも聞きません。さすがに車に乗っている時くらいはラジオを聞くだろうと思うかもしれませんが、あまりにも車好きな私が運転中に耳にしているのはエンジンの音とタイヤが道路をとらえる音と風の音くらいです。
 新聞もほとんど手にしません。
 世の中の流れに関しては、ネット上のニュース見出しを目にすることと、友人たちから来るメールに添付された記事を読んだりすることがメインです。なのでこれを読んでくださっている皆さんよりずっと森友問題に関する情報は少ないと思っていてください。ですから、もしかすると、みなさんが持っている新しい情報と食い違うところが出て来る可能性があります。と言いつつも、これから書きたいのは、そういう細かいことで左右されるものではなく、根本的な見方・考え方についてなので、その危険は少ないでしょう。

 いろいろな方たちから耳にするのは〈誰は犯人か〉〈誰が指示したのか〉〈森友の籠池氏や佐川元局長は騙されただけではないか〉〈佐川氏の前の迫田局長が問題ではないか〉〈契約に関わった人物たちの証人喚問が必要ではないか〉〈○○︎などを守るためにみんなが動いたのではないか〉という話です。
 迫田局長という名前すら初めて耳にする名前くらいですから、それらに関して答える知識を私は持っていません。

 

科学の世界での改ざん・捏造

 ところで、政治の世界ではなく、科学の歴史の中でも、とてもたくさんの改ざん、捏造が行われて来ました。

 記憶に新しいところでいえば、数年前2014年には〈STAP/スタップ細胞〉問題がありました。

 数十年のスパンでみるとDNAの二重螺旋構造をめぐる〈疑惑〉もあります。
 福岡伸一の名著『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)には、DNAの構造でノーベル賞を受賞したワトソンとクリックが〈ロザリンド・フランクリン〉という女性科学者の二重螺旋のDNA構造というアイディアを盗んだのであろうことが記されています。
 真実はどこにあるのか、推理小説並みにおもしろく読めると思います。

 1世紀を遡るあたりで有名なところでは〈ピルトダウン人事件〉も起こっています。
 サルからヒトへ進化した証拠の人類化石として約100年前に英国で発表され、約40年後に偽造の骨とわかりました。
 左巻健男さんの〈面白くて眠れなくなる人類進化〉という本にこうあります。

 一八五六年にネアンデルタール人の化石が発見されて以来、人類と類人訟は共通の姐先から由来しているという進化論にもとづいて、現在の人類と、類人猿との共通の祖先との闘を結ぶ「猿人・原人」の存在が予測されていました。当時、猿人と原人は区別されていませんでした。

 しかし、それを証明する化石がなかなか発見されず、進化の過程がわからない期間は“ミッシングリンク”と呼ばれていました。

 とくにイギリスの古生物学者たちは、イギリス本土でその化石が発見されることを熱望していたのです。

 センセーショナルな大発見

 一九0八年、ロンドンの南およそ六0キロメートル、イースト・サセックス州ピルトダウンの砂利採石場で、作業員が一つの頭がい骨(頭がい冠)片を発見しました。頭がい骨片は、弁護士でありアマチュアの考古学者でもあったチャールズ・ド-ソンに渡されました。ド-ソンは調査を続け、一九一二年に、いくつかの骨片を大英博物館の地質学部門の主管であったア-サ--スミス・ウッドワ-ドのところへ持ち込みます。

 この顕がい骨は、ネアンデルタ-ル人やジャワ原人の頭がい骨に比べて大きかったことから、現代人の直系の祖先とされました。ピルトダウン人と名づけられ、学界に一大センセーションを巻き起こしました。

 しかし時がたち、北京原人などの頭骨の研究が進むにつれて、人類進化史におけるピルトダウン人の位置が疑問視されるようになります。

 現代人のように脳が大きく発達したのはもっと後世であることがわかり、人類進化史のなかで、ピルトダウン人だけが例外的な存在になっていました。

 再検証が行われた結果、一九五三年、問題の化石は、現生人類の頭がい骨とオランウータンの下顎骨に加Lと着色を加えた偽造化石であったことが判明したのでした。

 

 こういうことは、2014年の〈スタップ細胞〉から100年前の〈ピルトダウン人〉で止まるわけはなく、そのもっと以前はもっとたくさんの書き換え、捏造が起こっていたに違いありません。そしてその時にも〈犯人は誰か〉〈もっとも悪いのは誰か〉が問題になったに違いありません。

 STAP細胞事件を見ても〈現在の科学の世界では、そういう事件を完全に克服できるわけでは無い〉ということはわかるのですが、それでも科学は〈そういう事が起こらない仕組み〉を具体的に組み立て続けていることは間違いありません。チェック体制もどんどん厳しく正確になってきています。

 たとえば病院で処方してもらう抗生剤をインチキでは無いかと疑う人はいないでしょう。インフルエンザに効く薬は劇的に症状を緩和するといいますから、自分の身体でもそれを確かめることができるでしょう。
 アインシュタインの相対性理論(特殊・一般)を詳しく知らない人も、それ疑う人もいるかもしれませんが、カーナビやGPSの情報は相対性理論の効果分を補正して〈一兆分の445〉を補正して正確な位置に近づけています。
 もしも相対性理論その効果がアインシュタインの捏造なら、すでにその捏造は明らかにされて捨てられていたのです。

今回の問題でもっとも憂慮されること

 森友の問題に戻りましょう。

 誰が犯人か、誰が最も悪いのか、そういうことを問うことは必要な作業だと思います。
 しかし今回の問題でもっとも憂慮されることは〈誰かの意図で書きかえができてしまい、それがわからない様に隠すことができ状況である〉こと、それを克服できずに〈まだそういうことができる状態であること〉が最も憂慮すべきことなのです。
 そして〈その仕組みをどう改善していくか〉が最も大切なことで、そこに最も高い叡智を注がなくてはいけないのです。

 残念な事に、恥ずかしいことに、悲しいことに、こういう事が起こってしまった。自ら命を絶ってしまった方もいるということですから、その中枢に居た人たちにとっても惨劇だったのです。
 法に照らして罰を受ける人たちが出て来るでしょう。
 しかし、圧力をかけた人が誰なのかがはっきりして、その人、その人たちを罰することができたからOK、というものではありません。
 繰り返しになりますが
「こういう事ができない様にするためのシステムの構築」が最も大切な事なのです。

 国の根幹に関わる重要な書類でも捏造・改ざんができてしまう、という実態を、悲しい事件の連鎖や、内部告発的なものによって、やっと気づくことができるという今のシステムではなく、その初期で発見できるシステム。そして重要なデータを扱う人々が、改ざんという犯罪に手を染めることができないシステムの構築をどうするか、そのことにどう取り組んでいくか、それがカギなのです。

 私にもいくつかの具体的なアイディアがあります。
 一つはA.I.の導入です。

 もう一つはモンテスキューによって体系的に提唱された行政・司法・立法という〈三権分立〉の仕組みを、それぞれの中にも構築してしまうことです。〈行政〉の中にも三権が分立して成り立っている〈重層三権分立〉です。

 例えば今問題となっている〈行政〉についていえば、その行政システムの中に〈純粋に行政を司る部門〉と〈行政内で法に基づいた政令の仕組みを構築する部門〉と〈不正・迷惑行為等を訴え法令に照らし合わせて判断することのできる部門〉がある。もちろん、それらの上に国全体の司法と立法の仕組みもある。

 今回の森友問題の発端について、わたしのつたない知識での誤認もあるかもしれませんが、ある区議会議員の方が、現在問題になっている森友の土地について近畿財務局に文書の公開を求めたところ、それはできないということであったので、おかしいということで裁判所に訴えて文書を入手したところから始まったと聞いています。
 そういうことまでしないと、私たちの税金の使い方を私たち国民が知ることができないような今のシステムではなく、行政の中にも国民主権による三権分立システム、もっとシンプルな形での枠組みを作って〈これはおかしいのではないか〉と訴えることができる仕組みをつくるのです。それを三権それぞれの中につくる。
 おかしなアイディアだと思われるかもしれませんが、将来的に有望な仕組みだと思っています。
  A.I.と組み合わせることで、それがさらに強化されることでしょう。

 これについて詳しく書くと、このサイトの読者の興味関心を超えたところに進むと思いますので、ここまでにしておきます。興味のある方は御要請いただければ、さらに詳しくお話しできると思います。
 この〈いいねライン〉をクリックすることで〈たのしい教育研究所〉を応援することができます !

楽しい毛筆・習字〈折り染め毛筆 習字〉/拡がるプリンタインク折染め

 プリンタインクが〈折染め・折り染め〉の画期的な染料となることを広くいろいろな方達に伝えて何年にもなります。若い先生たちを中心に次第に学校でも実施される様になり、教室掲示や習字、ものづくりなど、いろいろな場面で笑顔が広がっています。

 はじめて挑戦した子ども達は、みんなのりのりで毛筆に挑戦してくれたそうです。

 

 柿沼康二という書家が、web上に迫力ある文章を載せています。引用します。

誰が「書」を殺した? 書家 柿沼康二

■習字が書を殺す

 先生から配られた「お手本」通りに何度も何度も書き直したり、二度書きして先生に叱られたり……と。

 時間内に必死に仕上げた渾身の一作は、お手本と違う箇所があろうものなら、直ちに朱墨で駄目だし添削。

 お手本と似ているか似てないかの競争のような授業であった。

 本人にとっては、その日その時の自分の存在そのものとも言える表現に違いないのだが、「○」の一つももらえなければ罪悪感と敗北感が色濃く残り、心からの満足感を得た思い出はほとんどない。

 一部の書道愛好家を除けば、学校で書が嫌いになったり、書への関心が無くなったりと……。

 この世に生まれ20年も経たないうち、教育の中での「書」のイメージが後味の悪い形で定着したまま今に至っているのではないか、と私は思う。

https://style.nikkei.com/article/DGXBZO48498340W2A111C1000000

 

 習字嫌いの代表の様なわたしも、子どもの頃、この先生が試みてくれた様な書道の時間があれば、こんなに嫌いにならずにすんだことでしょう。「たのしい教育」をリードする私には〈かつての自分の様な子ども達が出ない様に〉という想いもあるのです。

 気軽にいろいろな方達が〈折り染め毛筆〉に挑戦してくれたらと思っています。応援してくださいる方は この〈いいね〉ライン を軽やかにクリック!