教員採用試験口利き疑惑問題から〈テストと民主主義〉について考える

 今回発生した沖縄県副知事の教員採用試験に関する口利き疑惑について、いろいろな方達から質面や意見が届いています。これまで、わたしの授業を取材に来てくれたマスコミ関係の方達と数々、名刺交換をしてきましたから、コメントを求める問い合わせもあります。たのしい教育研究所は〈たのしい教育を提案する組織〉ですから、政治的なものから遠合格い位置に身を置いていますし、問題点を指摘して改善を迫る組織ではありません。従って「申し訳ありません」という言葉を前置きして、コメントなどはお断りしています。
 ここに書いた文面は、沖縄タイムス紙が1/18に、この問題を取り上げた翌日に書いたものです。ただし掲載はしばらく日を置いてからにしようと思いました。
 このサイトは沖縄の教育関係のサイトの中ではトップの人気といえる位置に来ましたから、この記事の表層的なものを見ていろいろな問い合わせがくることも懸念されるからです。一週間ほど後の掲載にしたいとおもいます。

 教育行政や教員採用試験のシステム的については、おそらく普通の教師や管理職の方達よりも詳しい方だと思います。テレビや新聞などもほとんど見ない生活をしていますから、口利きがあったのかどうか、わたしはわかりません。しかし2007年に沖縄県で発生した〈得点計算のミスの問題〉以来、受験生の得点は明らかにされるシステムになっていますし、誰か一人の意図で順位を上下できる様なことはできません。
 ここでは「試験・テスト」というものについて根本的なところが考えてみたいと思います。

 今回は〈口利きで合格させようとしたのかどうか〉が問題になっていますが、歴史を学べば「過去に戻るほど、そういうことは茶飯事だった」ことがわかると思います。
 口利きどころか〈殿様の子どもは殿様で農家の子どもは農家〉という様な時代は、おじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃんの時代くらいですから、大昔のことではありません。
 もっと遡れば、「氏姓(しせい・うじかばね)制度」といって、特権や役所の仕事は、その一族で独占していった時代もありました。
 力の強いものが王となって、自分の思うままに命じていた時代もありました。
 裏側で口利きして、どころの話ではなかったのです。

 まだまだその途上とはいえ、わたし達の社会は〈口利き〉などで人の人生を左右するのではなく〈広く平等に一人ひとりを大切にする方向〉に向かって進んでいます。

 わたしが学校現場で教師をしていた頃、学期末のテストが続いている中、六年生の子から質問されたことがありました。

「先生、どうして勉強しなくてはいけないの?」

 その子はクラス役員もするくらいで、みんなにも慕われている子でしたし、混乱させるために意見をいう様な子でもありません。その子の質問をきっけに、クラス全員にこういう趣旨のお話をしたことがありました。

「いろいろな答えがあるとおもうけど、大きな答えの一つは〈自由にたのしく暮らしていくことができるから〉ということだと思います。
 社会でも勉強してきたけれど、昔は〈力が強いかどうか〉で、幸せを左右していた時代がありました。戦争の強い国の王様は隣の国と戦争をして、その国の人たちをどれいの様にすることもできたんです。
 時代が進むと、戦争などではなく、一族が特権をにぎる、という時代になりました。そのうちに、殿様の子どもは殿様で、お百姓さんの子どもはお百姓さんだ、という時代になりました。
 いろいろな見方はあっても、それぞれの時代は、前の時代より暮らしやすい時代になっていたと思います。だって江戸時代は大変な時代だという人たちもいるけれど、〈突然知らない人たちがやってきて村を焼き払い村人全員を奴隷としてさらっていく〉という様なことは許されない社会になったからです。戦争する力はない人たちも、一人の人間として暮らしていける様になっていたのです。
 ところで今の時代はどうでしょうか?
 殿様の子どもは殿様でしょうか?
 社長の子どもは社長でしょうか?
 沖縄県知事の子どもは沖縄県知事でしょうか?
そういうことはありません。
 力が高いものがその力で自分の進みたい道に進むことができる、という時代に着実に近づいていると思います。

 その高めた力を示す一つが〈テスト・試験〉です。
 試験なんてないほうがいいという人もいるかもしれないけど、希望者全員OKっていうのは困ることもあるんです。たとえば、希望者が全員お医者さんになって病院開いていいよ、ということになると大変でしょう。
 お医者さんになりたいという人たちは〈医師国家試験〉があります。
 それだけではなく、ある会社に入りたいという時には〈入社試験〉があります。
 先生になりたい時には〈教員採用試験〉があります。
 自分の力を評価してほしい、という時にその試験を受けることができるのです。
 つまり〈暴力が強いか〉とか〈お金持ちかどうか〉とか〈お父さんお母さんが両方揃っている家庭で育てられたかどうかか〉とか〈男か女か〉とか〈父親がどこかの社長かどうか〉とか〈結婚しているかいないか〉とか、そういうことではなく、たとえばこの人は「医者として人々を救う力をもっているかどうか」で勝負できるシステムです。
 試験が苦しいと思うと、ついつい「こんなものなくなってしまえ」と思うこともあるかもしれないけれど、試験は〈人間が平等に勝負できるシステム〉として人間が考えだした〈すばらしいシステムだ〉という見方もあってよいと思うのですけど、どうですか?

 

 シーンと聞いてくれた子ども達でしたけど、その顔は、テストを前にした苦しそうな表情ではありませんでした。

 テストというのは、民主主義を支える協力なシステムの一つでもあるのです。

 今わたしは教師を早期退職して「たのしい教育研究所」を設立しました。学校現場には身を置いていませんが、あの時、子ども達に語った想いは、今も全く同じです。
 賢く力のある子ども達をどんどん育てたいと思っています。
 そういう子ども達が、この社会をさらに平等に、たのしく豊かなものにしてくれると思います。

 教員採用試験を突破したいと頑張っている人たちが、この「試験システムのすばらしさ」に気づいて、自分のいろいろな夢を実現できる様な〈力ある子どもたち〉を育ててもらいたいと思っています。

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