前回の「霊界からのお告げ」はとても反響がありました。
今回は、少しその続きのような話になります。
宗教と科学が対立するのではなく、いつか、お互いを補完しあえる関係となることは、とても大切なことだと思っています。
では、「科学」では説明がつかなくて、「宗教あるいは心の持ちよう」の範疇ではないか、ということはどういうものなのか、少し書いてみます。
「科学ではすべてのことはわからない」という批判はありますが、そういうことを書きたいのではありません。
時代が経て、いつか科学的に説明がつくようになるというのはたくさんあるからです。
そういう中でも、これは科学的に説明がつくようなものではなく、心の問題・想いの問題、つまり宗教的なものと関わる様なものかと思えることはいくつかあります。
わたしは石が大好きで、旅したいろいろな場所の小石をたくさん持っています。
その場所に何千年何万年横たわっていたであろう小石が愛しくてならなくて、時々、たとえば穂高で拾った石を取り出して頬につけたり香りをしたりして、うっとりすることがあります。
見る人からすると「へん」ですね。
けれど、そういう想いは、洋の東西を問わず、わたし達 人間が大切にしてきた不思議さなのだとおもいます。
万葉集に大好きな歌があります。
信濃なる 千曲の川の さざれ石(し)も
君し踏みてば 玉と拾はむ
詠み人知らず
川にたくさん横たわっている、ただの小石だけれど、大切なあの人が踏んだ小石なのだから、わたしにとっては宝物です。
そうやって、小石を拾って両手で包む様に大切に握っている姿が目に浮かんできませんか。
そういう心は、きっと、科学がいくらすすんで解明しようとしても、その範疇を超えている、人間のすばらしさだと思うのです。
西行という好きな詩人が詠んだ歌
願わくは 花の下にて春死なむ
そのきさらぎの もちつきのころ
この命を、そういう季節に終えたいものだなと感じる人の心の妙は、納得できる説明を超えていると思えます。
まだまだあります。
わたしのが好きな ザ・ブルー・ハーツ の
ドブネズミ みたいに 美しく生きたい
という心。
まど・みちお の詩
そらの しずく?
うたの つぼみ?
目でなら さわってもいい?
この震えるほどの言葉のつながりを、どうやって科学的に解明するのか。
そして、その詩にうち震えるほどの感動を覚えるわたし自身の心を、どうやって解明できるのか…
いくつか書いてきましたが、わたしが
「だから科学は不毛なのだ」といいたいのではないことは、丁寧に読んでいただければ、わかってくださるとおもいます。
人間は、高度に発達してきた、こころの妙によって、実体を超えたいろいろなイマジネーションを働かせることができる様になりました。そういう力で、たとえば天国や地獄を想像したのでしょうし、生まれ変わりという想像をし、それを信じる人も出てきたのでしょう。
「科学」は、人間のこころでは判断つかない、あるいは判断を間違ってしまうことを正しく私たちに見せてくれます。
東から昇って西に沈む太陽。
どこをどうみても、太陽が動いている様にしか見えないのに、この地球が動いているのだという、驚くべき姿をはっきりさせてきたのです。
人間の想像を超える姿を次々と明らかにし、私たちの生活を豊かにし、「大切なあの人の命を救いたい」という私たちの心を、実現する力を私たちの前に準備してくれる、それが「科学」です。
そういう「科学」のすばらしさについては、また章をあらためて、いつか書かせていただきます。