某年某月 ある団体から『会議の進め方』ということで話てほしいという要望があり、そこで語った内容です。
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提案する内容についての反論が出た時、会議の執行部やリーダー側が
「単に反対するのですなく、これが変だというのなら代案を出してください!」
「批判するなら対案をだしてください」
と反論する場面があります。
「それはそうだ、批判には責任をもたなくてはいけないのだから」
「たしかにそう言いたくなる場面もあるな」
と感じる人たちもたくさんいると思います。
あるいは議論が加熱してしまうと、ついつい過激な発言になり、まるでケンカのように、
「それらな対案を出せ」とか
「じゃあ、あなたがやってみなさい」という様な発言が交わされることもあります。
そして大抵は、そう言われた側が黙ってしまうことが多いようです。
その議論の進め方について、少し考えてみましょう。
私は授業のプロフェッショナルです。
私の授業を受けた人、あるいは授業入門講座に参加した人たちから「その授業は変だ!」とか「おかしいぞ」という言葉を投げかけられたことはありませんが、もしもそう言われたらどうするか?
「この授業が変だというのなら代案を出してください」とか
「では代わりにあなたがやってみてください」とは一切言いません。
そう考えたこともありません。
わたしのカウンセリングが、もしもクライエントさんから批判されることがあった時、
「ではあなたがカウンセリングしてみなさい」
なんて言える訳がありません。
わたしは映画が大好きです。
週に1本は映画館に行くのが平均的なペースですし、ほぼ毎日DVD1本くらいは観ているので、普通の人に比べて、かなりの量の作品を観ています。
これだけ観ていると、途中で映画館を立ってしまう作品もありますし、途中で止めてしまうDVDがいくつもあります。
途中で飽きられて席を立つ観客に対して、それを作った映画監督が
「つまらないというなら自分で映画を作ってみなさい」
と言えるでしょうか?
わたしはできた映画について批判することができますが、映画をつくることはおそらくできません。
映画をつくることができない人間は、それを批判してはいけないのでしょうか?
何かおかしくありませんか?
そういう映画監督が、世の中に受け入れられていくことがあるでしょうか?
画期的だという鳴り物入りで「炊飯器」を作った家電メーカーが、予想に反して、ほとんど売れなかった。
それを買ってくれないお客さんに
「じゃあ、あなたが炊飯器を作ってみせてください」
というでしょうか?
そんな議論は聞いたことがありません。
また、そういう論理の展開をすすめる企業が生き残っていくとは思えないのですが、どうでしょうか。
なのに、私たちの議論の中で、「ではあなたが対案をだしなさい」という様な議論が交わされることが少なくありません。
会議は別物なのでしょうか?
身近な例で、クラスの会議の場面で考えてみましょう。
たとえば
「遠足に行く場所を決めよう」という議題で、提案役の執行部が、
「○○ビーチにいきましょう」
と提案したとします。
クラスの大半がその提案に対して「この時期、ビーチは暑すぎるから勘弁してくれ」と答えた。
すると執行部が「そんなに反対するなら対案をだしてください」と反論する。
それはいいのではないか、と考える人もいるかもしれまれせん。
しかしこうは考えられないでしょうか。
「みんなで議論しながら決めましょう」
という会議なら、執行部側の提案が却下されたにしても、会議をリードする側は
「じゃあキミたちがいいアイディアをだしてみなさいよ」
という様な議論をするのではなく、みんなの意見を丁寧に集約しながら、よりよい形で丁寧にすすめていく力を持ちたいものです。
それが会議をすすめるものの役割であり、責任であるという見方はできないでしょうか。
それから執行部やリーダーは、提案に対する反論が大きかった場合を想定して、対案を準備しておく、選択肢を準備しておく、という力が必要だと思います。
場合によっては、時間を置いて再提案、ということであったり、クラスのアンケートで選択肢をだして全体の投票で決定する、という流れであったりするかもしれません。それが提案するものの役割ではないでしょうか。
そして、間違いなく、そういうリーダーが増えていくことが、より成熟した社会をつくっていくことになると思うのですが、どうでしょうか。
そうではなく、自分たちの意見に反対する人たちをどう抑え込もうかということに力を注ぐ人たちが増えていくことは、やはり民主的に成熟した世の中から遠い世界に進むのではないかと思います。
より豊かな、よりたのしい社会のために、実力ある人たちが育つことはとても重要なことだと思えてなりません。
より力のある人たちを育てる活動に
全力を注ぐ「たのしい教育研究所」です