板倉聖宣が「文学より科学の方が〈優しい〉」と語った文章を読んだ時、文学好きな私は疑問を感じたものですが、次第に〈それは確かに言えている〉という気持ちになりました。数学教育協議会で1973年に語った内容です。以前〈たのしい教育メールマガジン〉で紹介したものですけど、前半分をここにも掲載します。
科学についていくつかの間題を出して考えていただきましたが、子どもたちの気持ち、子どもたちが教室ですわっているときどういう授業がたのしい授業になり得るか、ということを考えていただきたいと思います。
もしいま、私がだした問題がうんとやさしい問題だったとします。みなさんの95%ができていて、5%だけができないような問題だったとするんです。すると、ほとんどの人たちができるわけですから、そういう授業はたのしい授業になるでしょうか?
「他のヤツよりオレが上だ」と思うことが授業の楽しさであったとすれば、95%の人間にとって楽しい授業で、5%の人間にとってはたいくつな授業ということになりますが、実はそんなことにはなりません。仮説実験授業でとりあげる問題は、ほとんどすべてのみなさんが知らない、あやふやな説明しかできないという問題です。おそらく、ここにいるみなさんは大学を出ていると思うのですが、大学を出てもなおかつ知らない問題がけっこうあります。私たちは、そういう問題を小学校で教えるわけです。
教師であるみなさんでもできないんだから、子どもたちにもできないのがあたり前です。そういう問題ですから〈優等生はできる〉ということはありません。優等生が他の子どもをだしぬくことができないのです。みんなができない、つまりみんな同ーの地盤にたっています。
予習をしておいて、自分は知っているということを発表する授業でもありません。自分の頭で考える、自分の直感で考える授業です。
それが正しいかどうかということについては、多数決でもきまりません。議論をして、議論で勝った方が正しいともかぎらない。これは精神衛生上たいへん良いことです(笑)。
よく「科学というものは冷酷で文学は優しいものだ」というのですが、私にはそうは考えられません。文学よりも科学の方がずっと優しいのです。
文学には文才が必要ですね、普通の人間では太刀打ちできません。
科学の方は〈少数派〉であっても〈口下手〉であっても〈文章下手〉であってもよいのです。ポツリと真実をいえばいい(爆笑)。
そして実験をすれば勝てるんです。
客観的な、つまり多数決でも教師のいい分で決まる様なものでもなくて客観的に決まるような授業です。
私は今ここで実験をするような形をとりましたが、ここで実験をしなくても「科学者が得たデータから、こういうことがわかっています」といってもかまわないのです。
子どもたちが自分たちで実験できそうなことは、実験する。そして子どもたちが容易に実験できないことについては、「科学者の実験の結果、こうこうこういう様になりました」と説明してあげる。
そういう時に科学者の結論を疑うようなことはほとんどありません。たとえば「水素原子には電子が1つあるんだよ」といったとき「あやしいなあー」とは思わないですね(笑)。
こういうわけで、いわゆる実験ができない場合でも、たのしい授業が可能です。こういう授業のおもしろさというのは、「ああそうか」とわかっただけにとどまらず、そこで教わったことを利用して、また違う問題を解いていくことにあります。「ああそうか」とわかったあと、次に似た問題があると、たいがいできちゃう。
「ああそうか」で終わらないで「ああそうか、確かにオレはわかったな」というところまでいかないとおもしろくないのです。これがたのしい授業の構造です。
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