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今回はこの中から板倉聖宣が1990年に語った「観念論と実験論」の一部を紹介しましょう。
若き日の私いっきゅうが、とても影響を受けた一つです。
メルマガのこの章は、板倉聖宣の講演資料を何度も読み、私いっきゅうがわかりやすく編集していて紹介しています。
読者の方たちからも「以前読んだことがあるのですけど、いっきゅうさんの文章で、やっと腑に落ちました」という様な嬉しいたよりがいくつも届く人気の内容です。
※編集に関しては生前、板倉先生から許可をいただいています。
板倉聖宣1990
「観念論と実験論」
近代科学は天文学から生まれました。
近代科学が天文学から生まれたというのは不思議ではありませんか?
だって天文学ではいわゆる「実験」ができませんからね。「手を動かすことが実験だ」などと考える人は、天文学では実験できないと思ってしまいます。
しかし天文学は真理を実験的に見つけていったのですよ。
それは仮説実験的な実験論です。
自分で実験道具を操作してなくても実験できるのです。たとえば〈彗星が何年後に来る〉という予想をたてて彗星を見るのは実験なのです。実験を通して真理をみつけていくことで自分たちの財産が増えていきます。
私は〈科学的というのは実験的だ〉ということに決まっていると思っているのですけど、どうもそうではないと考えている人がいるらしい。
「正しいことは決まっている。学問的に敏密に考えをすすめればわかる」と考えて実験をしないのですね。
しかし撤密に考えたってだめなのです。たとえば医者が患者を良くしてやろうと思って治療しても、その逆に患者を悪くしていることだってあり得るのです。
そんなとき「俺は患者を直そうと思ってやっているんだ。そんな医者が患者を悪くするわけないではないか」といったってだめです。
「自分たちが患者を直そうとしているから、患者は必ず良くなる」なんていうことはありません、そういうのは観念論です。ところがそういう観念論が学校では常に起こっている。
教師は、子どもをかしこくいい子にしたいと思っているわけです。それは校長であろうと誰であろうと同じです。
しかし客観的に見れば、そういう教育的な情熱を持てば持つほど、子どもを悪くしているということがあるのです。
そんなとき「教師が子どもを悪くすることなどあり得ない」なんて主張してもダメなのです。
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