たのしい教育の発想法 「運のよい人・わるい人」① 

研究所にはいろいろな考え方の人たちがやってきます。
そういう人たちとの会話の中で時々
「運がよい・わるい」
という言葉が出てくることがあります。
わたしの考える「運のよし悪し」について、ある人たちに語った時、とても感心してくれたので、このサイトにUPさせていただきます。長くなるかと思うので二回か三回に分けて書きます。

「私は運がいい」とか「運が悪かった」という話は普段よく耳にします。

スクリーンショット 2015-01-07 19.46.17 そういう「運のよし悪し」が本当にあるのでしょうか。
あるとしたら、それはどういうことを意味するのか、について考えてみたいのです。

まず、どういう時に人は「運がいい」と感じるのか考えてみたいと思います。
典型的な例では「宝くじ」など、抽選に当たった時でしょう。
「どうかな」と思いながら入ったら、そこが「美味しいレストラン」だったという様な時にも「運がよかったね」というかもしれません。

かつてわたしがアラスカでキャンプをしていた時、毎日というほどオーロラが出ていました。
これも運がよい、という表現をする人もいるかもしれません。
試験に受かって「運が良かった」という言葉を耳にすることもあります。

そういえば、最近「向こうの宝くじの売り場は当選者がたくさん出ているから、そこで買おう! 」といっていた人がいました。

それも、ある人たちがすると「運の良い売り場」ということになるかと思います。

そのほかにもいろいろあることでしょう。

さて、本当にそういう「運の良さ」ということが存在するのでしょうか。

みなさんはどう思いますか?

「運のいい人」は存在するのでしょうか。
「運の良い売り場」とか、「◯月生まれの人は運がよい」という様なことも本当にあるのでしょうか。

みなさんはどう思いますか?

考えてみていただけますか。

みなさんが考えた頃、また次の項をアップします。

 

たのしい教育、たのしい発想、たのしい人生がテーマのたのしい教育研究所です

進化のダイナミズム

ダーウィンが提唱した頃と違って、進化は科学上の事実であり、いろいろな研究が進むとともに、進化の揺るがしがたい証拠がどんどんあがっています。
進化は事実ではあっても、哺乳類の祖先が、恐竜時代に生きながらえたネズミに似た生き物にいきつくことは、感覚的に納得しがたいものがあります。
しかし納得しがたいからといってそれが間違っているとはいえません。
人間の感覚というのは、えてして間違うものなのです。
だって、誰がどう眺めても、この地球が動いているなんて感覚的にはなっとくできないでしょう。
どう見ても太陽が地球の周りを回っている様にしかみえないじゃないですか。

ですから納得しがたいものであっても、これだけ証拠が連なる進化という事実は否定できないのです。

とはいいつつも、何かこども達が感覚的に納得できる例が見つからないだろうか、と探している時に、獣医さんのところにはられたポスターが目につきました。

オオカミからいろいろな種類の犬が分かれてきた図です。

これが使えないかと思ってこども達に投げ出すと、かなりいい評価でした。
わずか数千年の歴史の中で、これだけたくさんの種類の犬が生まれてきたのです。
チワワとセントバーナードが同じ種だなんて、驚きですけど、同じ犬族なのです。
そして、それをこども達は違和感なく受け入れてくれました。
試してみたいかたは、ぜひどうぞ。
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たのしい研究の日々/ストローを長くして吹き矢をつくる

前回「吹き矢で科学」を紹介させていただきました。

61YEXXXV2lL._SX371_BO1,204,203,200_吹き矢で科学―ものを動かす力 (いたずら博士の科学だいすき1)

 わたしの好きな授業の一つで、研究所を立ち上げてから何度も授業にかけたことがあります。

ストローで吹き矢を作って飛ばしながら「加速」「力積」をたのしく学んでいく授業です。

これはわたしが研究所で予備実験をしているところです。
見えにくいかもしれませんが、手にしているのはストロー4本でつくった吹き矢です。
これに綿棒を入れて玄関先まで飛ばしているところです。
的のボードにパチンと勢いよく当たります。

スクリーンショット 2015-07-24 14.40.51  大人でもたのしく実験をすすめることができます。
おすすめですよ。

たのしい教育活動は子ども達だけのものではありません
たくさんの人たちの夢と希望と元気を育てる「たのしい教育研究所」です授業・講座の問い合わせは ⇨ office⭐︎tanoken.com (⭐︎を@へ)

 

一部の人だけが学んでいるだけのものなら役に立つ/学力論②

前回の板倉聖宣の学力論の反響が届いています。
板倉聖宣の発想は科学史に裏付けられた迫力があります。
板倉聖宣は、理論・哲学だけでなく、じっさいにたのしい授業を保証する教材をいくつも開発しています。
興味のある方は、ぜひインターネットで著作物を入手して読んでみてください。
どれも読み応えがあると思います。

何か一冊、ということなら理論と実践が重なった一冊、この本をお勧めします。
わたしも時々利用しています。

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 さて、反響に答えて前回の講演の中で板倉が語っていることを切り抜いてみます。
30年近く「たのしい教育」に関する資料を集めてきていますが、その中のペーパーに残されていたものです。そのペーパーを読みながら文字化しています。読みやすく最小限で手を加えています。文責はわたし喜友名にあります。

学校で教えるいろんな知識がありますね。
いろんな知識はあるけど、それはほとんど役立っていません。

 

江戸時代の知識は身分社会の上に立つための知識でありました。
そして明治以後、上級学校に行っている人たちもすごく勉強しました。

哲学も勉強しました。
哲学なんかすぐに役立たないけども、万物の根本を明らかにすることはすごくロマンチックなことだからです。

 

その時代の人は、なぜ勉強したのか?
上級学校に行った人たちは出世の当てがあったのですね。そして実際、明らかに出世しました。

 

ここには小・中・高と、いろんな段階の学校の先生がいるでしょうけども、明治時代だったら、同年輩でも中学校の先生は小学校の先生の2倍近い給料でした。

高等学校の先生であれば4倍近い給料でした。
そうであれば、少しは勉強したくなるでしょう。
やりたくなくてもやるでしょう。

 

明治の時代には「勉強をするな!」と言っても、勉強をする子どもはたくさんいたのです。

 

渡辺敏はあとで「明治の初めにはみんなが勉強して困った」と自己批判しています。
「勉強するなと言うことが大事だ」と言うのですが、勉強をしすぎて結核で死ぬ子どもがたくさんいたのです。だから学校の先生の仕事は勉強を教えることと同時に、「あまり勉強し過ぎるな!」と言わなければいけなかったのです。
今そういうことを言っている人はほとんどいませんね。
江戸時代から明治になった時は出世競争が激しくて、そのチャンスのある人たちは時間を惜しんで勉強しました。

自分にはよく分らなくても、いろんな知識を覚えたのです。

 

例えば英語の出来る人がほんの少ししかいなければ、その英語の能力は確実に役立ちます。

 

ローマ字が読める人がいれば、例えば塩尻という駅前に、SIOJIRIとローマ字を書くことができます。すると「あの人は中学校を出ているから塩尻という英語が書けるだろう」と言うことになる・・・その知識は使えたのです。

 

つまり、ごく一部の人だけが学んでいる時には、その知識は役立ちます。
だから、勉強しても無駄にならなかったのです。

 

みなさんは英語をずいぶん勉強しているし、第2外国語のドイツ語とか、フランス語とか、中国語を勉強しているけれども、その後ほとんど使ったことはないでしょう。

 

昔の大学の卒業生は2ヶ国語を確実に使えました。会社に入っても、今までイギリスとだけ取引をしていたけど、今度フランスと取引をやらなければならないという時には、フランス語の出来るのは大学出に決まっていたのです。
だから、大学を出てなくても、フランス語を勉強するという人たちがいたりしたのです。

 

ごく一部の人たちだけが勉強をしている時には、その知識は役立つのです。
しかし今や、全ての人が勉強するようになってしまいました。
ですから自分の学力を期待してくれる人が誰もいない。

 

時々社会問題に理科的な話があると、理科の先生はその理科の知識を聞かれることがあります。
例えば、白装束の集団が現れた時に、「電磁波って何だ?」と聞かれたりします。
本当は「電磁波は何だ?」というのは、理科以外の学校の先生もみんな教わっているはずなのだけど、みんな身についていない。
だから、理科の先生だけが電磁波について知っていることになっていて、そして理科の先生も、その電磁波についての知識は怪しかったりしますね。   続く

 

板倉聖宣の話は、ここで語られたような〈一部の人たちだけの知識・優等生的な学習〉が成り立たないからだめなのだ、という結論でありません。
「本質的な学習とはなにか」という話にすすんでいきます。
これについては日を改めて紹介させていただきます。

 

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