どう学ぶかがとても大切

〈割り箸〉は割って食べたら捨てるだけ、というのがほとんどです、でもその割り箸からも学ぶことができます。どうして途中でコースアウトして短く割れてしまったり、一方は太く一方は細くなったりするのか?

中学の頃、それが気になった私は、割り箸の割れ方の研究をすすめたことがあります。結果、割る前に「これはOK」「これはコースアウトする」ということを、まあまあの確率で当てることができました。あの頃は、今よりもコースアウトする割り箸が多かったので、今より実験をしやすい状況だったこともあって、たのしく研究をすすめることができました。

割り箸は枝打ちで払われ捨てられるものを利用して作られます。間伐材といって、捨てずに利用しているので、木を無駄にしているわけではなく、環境を有効に活用していることでもあります。

その打ち払われた枝は、そのまま一本まっすぐに伸びていたのではなく、2つに分かれ、3つに分かれと分岐しているものがたくさんあります。
枝が分岐すると、そこに〈くるぶし〉の様に硬い部分ができます。
分岐した枝にかかる重量、その枝の動きを支えるために、強くなっていくのです。
特に変な力のかけ方をしたわけではないのに割り方がコースアウトしてしまうのは、その強くなっているくるぶしの部分影響が大きい、というのが私の研究の結論でした。
見た目ではっきりわかるくるぶし部もありますけど、割れる部分を触ることでわかるものもあります。
割り箸にそのくるぶしの部分が含まれていると、途中まではまっすぐすすんでも、くるぶしの部分で歪んだり、折れたりしてしまうのです。

割り箸の研究の話が長くなりましたが、ここで語りたいのは、割り箸の割れ方のことではありません。

使ったら捨ててしまう割り箸も、手にとって研究することもできるという話です。

私は宇宙工学の泰斗 的川泰宣先生から教育にかける熱意、夢、組織づくりと、たくさんのことを学ぶことができました。
全国理科教育のトップ遠藤純夫先生からも書ききれないほどのものを学ばせていただきました。仮説実験授業の生みの親 板倉聖宣先生からも肌に染み入るほどのものを学ばせていただきました。
しかし例えば的川先生とたくさん顔を合わせていても、天気のあいさつくらいして過ぎ行く人もたくさんいるでしょう。
学ぶという時、学ぶ対象も重要とはいえ、もっと重要なことは、学ぶこちらがわの構えであり姿勢であり目的意識的な態度だと私は考えています。

たのしい教育に触れても「あぁ、そういうものもありますね」「あぁ、◯◯に似ていますね」くらいで過ぎ行く人たちもたくさんいるでしょう。それはそれで、しかたないことです。
そこを立ち止まって「こういう授業を子ども達にしたい」「もっと子ども達がたのしく賢くなる授業をしたい」という人たちが増えていくように、力を注いでいきたいと考えています。
このサイトを読んでくれる人たちが、そのきっかけになってもらえたらこんなに嬉しいことはありません。読者の中には教師でない方もたくさんいます。教育関係の方達に、こういう活動をしている集団が沖縄にあるよという話をしてもらえたら、それが強い応援です。毎日たのしく全力投球、たのしい教育研究所(RIDE)です。一緒にたのしい未来をつくりましょう。みなさんの応援クリックをお待ちしています➡︎この〈いいねライン〉をクリックすることで〈たのしい教育研究所〉への「応援の1票」が入ります☆いいね➡︎もっと深くたのしい教育を味わいたい方は〈有料メルマガ〉をどうぞ!

「のようなもの」/仮説実験授業研究会代表だった板倉聖宣から学んだこと

サイトは現在、不具合調整中で画像がUPできない状況です。たのしい教育の記事を読みたいという方たちからの要望もいろいろ届いているので数日ぶりに書いてみようと思います。文字のみの記事になります、ご了承ください。

 仮説実験授業研究会代表だった板倉聖宣から学んだことは数え切れません。
教師としても親としても、一人の大人としても、子ども達に話をする時の大切なことがたくさんあります。これもその1つです。
随分前に〈たのしい教育メールマガジン〉に書いた「どんぐりの分類」の中で板倉聖宣が述べていたことです。20年以上前の仮説実験授業研究会ニュースに載ったものを読みやすく構成しました。語った頃は古くても、中身はぜんぜん古くないと思います、どうぞ。

 板倉聖宣

 たとえば、「液体とは水のようなもののことをいいます」というでしょう。

しかし液体といういう言葉を知らない人に「液体というのは水のようなものだよ」といったら分かるのでしょうか?

忘れちゃってる人は思いだすでしょう、でも「そうか。水のようなものを液体というのか」と教わった人は〈水銀〉を液体と思うでしょうか?

怪しいですね。
水銀は全然〈水〉のようではない。

ある意味では水のようかもしれないけど水銀なんて水みたいじゃないですよ。

だから「~のようなもの」という場合ひとつの例だけではいけないんです。

「~のようなもの」というのは〈共通項〉なんです。
だから「~のようなもの」というときには「必ず3種類以上なければならない」と思ってます。

教科書には「~のようなものは~~」という記述がすごく多いんです。

それはほとんど全部落第です。

「石のようなものを固体という」なんて書いちゃったりする。
そのまま受け取ると「木は個体か?」・・・、分からなくなっちゃたりする。

だから「~のようなもの」という場合は少なくとも3つ。出来れば4つ5つ挙げなきゃいけないのです。

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(公式サイト)メンテナンス中

たのしい教育研究所(RIDE)の設立とともにサイトが立ち上がってこれまで何年間も毎日更新してきた公式サイトですけど、そろそろ整理整頓しつつメンテナンスを実施する段階になりました。
担当のいらはさんがかかりきりで調整中です。

しばらく文字のみの記事もつづくと思いますがご了承ください❗️

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たのしい教育の発想法〈真理は実験によってのみ決まる〉

 今回は〈たのしい教育メールマガジン〉の発想法の章から少し抜き出してみましょう。師の板倉聖宣が語った内容です。

 科学の啓蒙的な本を書く人が全部実験をしている と思ったらおおまちがいです、ほとんど実験してません。

 実験せず「そうなるに決まってる」と思って書いて いるんです。
 だから名倉さん(東京)みたいに生真面白な人が それを確かめようとするとボロが出て来ちゃう。

 ある本に「レモン7個を使うとレモン電池ができる」と書いてあったのを見た名倉さんは自分で実験してみたんです、でも電池はできない。

 みんなにレモンを配給してやってみてもらったけれど、やっぱりできないので、著者に電話すると「著者にいってこないで自分で研究しなさい」とい う返事だったらしい(笑) 
 あきれるね。

 どうしてもつかないのでもう一度電話すると「レ モン電池は100個使うとできるんです」という。
 家庭でレモンを100個も使ってやる人いますか ? (笑)
 そういう本が後を絶たないのです、それどころか優良図書として推薦されちゃったりしていま す。 

 自然科学者であっても、自分が絶対確かだと思っ てることはそうやって書いてしまうのです。

 子どもの実験の本だったら簡単に実験できるん だからやればいいのに、実験しないで書いちゃう。
 そういうことを体験すると社会の科学だって相当あやしいと思えてきます。 

 

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