雲をたのしもう 下に見える雲 秋をたのしむ/自由研究こそ本物の研究

 雲好きな方達からのメールも届いています。今回はわたしが子ども頃から空を見て感じていた不思議について書きたいと思います。このことは数年前新聞に連載していた時の記事のひとつにしたのですが、今回は写真つきですから、より丁寧に説明できると思います。

 空にある雲を見ていて、その美しさや形、ダイナミックさをたのしむだけでなく、いろいろな楽しみ方があります。

 この写真は最近、空港でとった雲の写真です。
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 次の写真はかなり高い位置で私がとった雲の写真です。
雲のモコモコとしたところも近くに見えています。
どこで撮った写真か想像できますか?

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  違います。

富士山で?
  それも違います。

 飛行機の中で撮りました。
翼も写っていたのですけど、それを外して少し写真に変化をつけてみました。元の写真はこれです。えー、と驚いて、さっきの写真と見比べている人も多いと思います。

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見ようと思えば、人間の目には、雲が上にある様にも下にある様にも見えるのです。

 公園などに寝転がっていると数十秒くらいあれば、グ〜っと大地と空が逆転して、ずっとずっと下の方に雲が見えて、私自身は地球という星に背中をピタリとはりつけている様に感じることができます。さっきの写真の様に、上にある様に見えたり、下にある様に見えたりする変化をたのしめるのです。
 とてもおもしろいのですよ。

 はじめのうちは、雲を見ている自分の目に、できるだけ建物などが映らない様にすると「逆転現象」を感じやすいと思います。慣れてくると、ビルディングが見えていても、それごと上下逆転して見えてきます。

 学校では「相手の立場になって考えましょう」という様に教えることがありますね。相手の立場になって考えるどころか、自分の立場・立ち位置がダイナミックに逆転してみることができるほどに、人間の思考・感覚は成熟しているのだと思います。

 海岸に足を浸してしばらく潮の流れを見ていると、止まっているはずの自分が動いているかの様に感じて平衡感覚がおかしくなることがあります。それも似た様な現象です。

 秋の空は高く穏やかでスラリとした雲が見えやすくなります。沖縄では蚊などの虫達も少なくなって、アウトドアにも親しみやすくなると思います。秋の日々、こういうたのしみかたもよいと思いますよ。

 ちなみにわたしは子どもの頃からそういう楽しみ方をしているので、普通に歩きながら空を見て、ずーっと下に空があるかの様に感じることも簡単にできます。上下逆に歩いている感じで、とても不思議な感覚をたのしむことができます。

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雲も楽しく
たのしい教育研究所です

自由研究こそ本物の研究/季節の変化と雲の変化 空を眺めてたのしもう

 先月のこと、県外の子から、夏休みの自由研究でお礼のメールが届きました。このサイトをヒントにして「雲の研究」をまとめたら、学校で表彰されたということです。さて、雲好きなわたしは、相変わらず、いい雲を見つけると写真を撮っています。
 この写真は二週間ほど前のものです。

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 こういう勢いのある雲は、そろそろ見ることが珍しくなってきます。沖縄の夏の強い陽の光がそろそろ勢いを弱めてくるからです。
 これからはおだやかな秋の雲の様子に変わっていきます。
 秋は秋でまた味わい深いものがあります。

 みなさんも、夏の雲、秋の雲を意識して、そらを眺めてみませんか。いい写真が撮れたら、ぜひ送ってくださいね。

 もう一つ、雲好きな私は、子どもの頃から公園などで寝転がって、よく空をみてたのしんでいました。次回、このサイトに、書かせていただきます。

 

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空を見るものたのしく
「たのしい教育研究所」です

模倣の時代は去った 仮説実験授業研究会代表 板倉聖宣が語ったこと

 最新号のたのしい教育メールマガジンの反響がいくつも届いています。多いのは、仮説実験授業研究会代表 板倉聖宣の「たのしい教育の思想」に関するものでした。

 きめられた一本道をつっぱしる教育,それは「できる授業」「わかる授業」だけでもすみます。しかし,自ら道を開くための教育となったら,道を開くたのしみを教える「たのしい授業」以外にはありません。

 板倉聖宣が「月刊 たのしい授業」の創刊号で、そう高らかに宣言したのは1983年、わたしが大学の4年次になった年です。翌年に教師となり、できたばかりのたのしい教育のサークルで、その内容を発表してから、もう何百回と読んできた内容です。メルマガから少し書き取ってみます。

 模倣の時代は去った
 いま私は,「昔のエリート教育の内容はいまの大衆教育の内容にはそぐわない」といいましたが,これは誤解をまねきやすい言葉です。「昔は中学校や高校には頭のいい生徒だけが入ってきたからよかったのだが,いまは素質の悪い学生まで入ってくるからいけないのだ」と考える人が少なくないからです。しかし,「いまでも一部の少数のエリートだけは昔ながらに熱心に勉強しているか」というと,それもそうとはいえないのです。出来のよい生徒もまた先駆者としての意識をもてず,昔のエリートのような学習意欲をもてないでいるのです。
 いまの劣等生のために程度の低い教育内容の準備だてをすることが必要なのではないのです。新しい社会の情況に合わせて根本的に教育内容を改める必要があるのです。
 日本のエリート教育が行きづまったのは,じつは,「日本の学校教育が量的に普及した」ということだけによって生じたわけではありません。これだけの教育の普及があってもなおかつ,日本が後進国で,依然として外国の文化をとり入れつづけることに大きな精力をついやす必要があるのだとしたら,これまでの日本の学校教育はいまのような問題点をかかえなくてすんだかも知れません。前の方に見習うべきたしかな文化があるのなら,学校教育が大衆化しても,その文化をとりいれることに情熱をもやしやすいからです。

「日本の学校教育は後進国型だったので,国をあげて外国を見習うことに情熱をそそいできたのが,今ではいつの問にか多くの面で世界の先進国並となったので目標を見失うことになったのだ」といってもよいと思うのです。
 明治以後の日本は,科学も技術も芸術も思想も民主主義も専制政治もみな外国を模範として,ほとんど全面的にそれをとり入れるために学校教育制度を充実させてきたのです。そしてそれが,敗戦後いちおういきつくところまで行きつき,GNPも世界の先進国並となるところまでに達し,世界一の公害国にまでもなったのです。
 もちろん外国にはまだ私たちの学ぶべきすぐれた文化はたくさん存在します。しかし,「何から何まで模倣すればよい」という時代はすぎさったのです。昔は舶来品といえばいいにきまっていたのが,いまでは一部のものを除いてそうではなくなっています。
 考えてみれば不幸なことではないはずです。
「外国に追いつき追いこせ」というスローガンの「追いつけ」が実現したら,後半の「追いこせ」を実現するように努めればよいわけです。

 自ら新しい道を切りひらく喜びを
 しかし,じつは「追いつけ」から「追いこせ」に頭を転換することは,そう簡単なことではありません。だから問題がおきているわけです。
 かけっこの場合なら,走るコースはきまっていますから,追いついてきたコースをそのまま走りつづければ追いこすことができて,安心して先頭を走ることができます。
 しかし,歴史のかけっこはそう簡単ではないのです。先頭をいく人びとはいばらの道をきり聞く仕事をしなければなりません。
 しかも道をどっちの方向に聞いていったらよいのかわかっていないのです。「いろんな人がそれぞれの思いどおりにいろんな方向に道をひらいていって,だれかが成功したら,また,みんなで手分けして新しい道をさがして切りひらく」という仕事をしなければならないのです。

すでに多くの人びとによって広く聞かれた道をまっしぐらに走るのとは勝手がちがうのです。一本道をまっしぐらに走るのなら,そこには序列がつきます。そして先頭の人も迷わずみんなをひきつれて走ることができます。しかし道がなくなったらどうしたらよいのでしょう。自分たちで道を開くのです。銘々各自のいいと思う方向に道を開いていくのです。
 「いばらの道」といい,「ほとんど先が見えない」というと,その道を開く仕事はとても苦しいだけのように思えるかも知れません。しかし,そこには開拓者の喜びがあり,創造のたのしみがあることを見落してはなりません。その道を開く意欲は,創造のたのしみ,開拓者の喜びを知っているものだけがいだきうるのです。
 きめられた一本道をつっぱしる教育,それは「できる授業」「わかる授業」だけでもすみます。しかし,自ら道を開くための教育となったら,道を開くたのしみを教える「たのしい授業」以外にはありません。
 こういうと,「そういうたのしい授業が必要なのは大学か大学院でのエリート教育だけで,小中学校などはいままでどおりのかけっこ教育でいいのではないか」という人がいるかも知れません。しかし,その考えのまちがっていることは,いまの日本の教育界の混乱をみてもわかります。一本道をまっしぐらに走ることになれてきただけの人は,いきなり「ここから自分で道を開け」といわれても,ただとまどうより他ないからです。すでに人の開いてきた道をすすむにも,たのしみながらすすむことができてはじめて,新しい道をみずから切り開く喜びもわいてくるのです。

 実は板倉聖宣が、こういう内容を語ったのは、その時が初めてではありません。仮説実験授業ができてしばらくして、たのしい授業の意義を語り始めていますから、もう50年くらい前にさかのぼることができるのです。

 教育の状況はなかなか大きくは変わりません。
 しかし、その少しずつの変わり方も、たのしい教育研究所にとって、まさに〈新しい道を切り開く活動〉ですから、たのしくてなりません。

 明日の休日は、またたくさんの若い先生達がやってきます。
 未来の教育を切り開くためにも、たのしく力を注いでいきます。

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沖縄県 教育 笑顔 そして 世界 がテーマです。

沖縄県 教育委員会「体罰防止ハンドブック」から体罰について考える

 子ども達への授業や若い先生達へのスーパーバイズ、そして保護者の方達からの相談など、たのしい教育研究所は沖縄県の教育をてテーマに関連して、いろいろな方達と関わっています。そんな中、最近、いくつかの似たタイプの相談が続いています。「体罰」に関わる問題です。
 沖縄県 教育 委員会が平成25年に「沖縄県 体罰防止ハンドブック」を出しています。その中には「体罰に該当する行為」「体罰に該当しない行為」として整理した表があります。

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 体罰に該当しない行為の中には
・授業中、教室内に起立させる
・立歩きの多い児童生徒を叱って席につかせる
・集会を妨害する児童生徒の腕を引っ張って外に出すという様な項目がいくつもあります。

 しかし注意しなくてはならないのは、「こう書かれているから体罰には該当しないではないか」と教師が主張しても、子どもがその行為をきっかけにして「先生が怖いから、もう学校に行かない」と訴えた時、教師側の〈お守り〉にはならない、ということです。

 保護者の方から、

朝、子どもが学校に行きたくない、と渋るので、ワケを聞いてみたら、「同じグループの子が先生にひどく怒られているのを毎日見ていて、それが恐怖で行きたいくない」と答えたので、とりあえず休んでもらったが、これからどうしたらよいでしょう。

という相談が来たことがありました。
 その子が罰を受けているのではなく近くにいるだけなのです。それですら、子どもにとっては自分が体罰を受けているかのように思えることもあるのです。
 おおごとになると、教師が追い込まれてしまうでしょう。
 この事例ではスーパーバイズがうまく進み、担任がクラスをたのしく変えていく努力をしてくれる方向に努力してくれたおかげで、いろいろな子ども達にとっても、担任の先生にとっても幸いな事例となりましたが、いろいろな学校から聞こえてくる話には、学級崩壊にすすむ数々の事例があります。

 子ども達と教師がたのしく豊かな日々を過ごし、賢く明るく元気な子ども達が育つことが本来の教育の姿だと思います。それを願わない人は誰もいないでしょう。教育がますます充実していくためにも、たのしい教育研究所の活動にますます力を注いでいこうと感じている今日このごろです。

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沖縄県 教育 賢さ 元気 がテーマです