板倉聖宣の発想法は仮説実験授業を生み出した人物だけあって、刺激に満ちています。
毎週発行している「たのしい教育メールマガジン=教師は辞めても たのしい教育&映画はやめられない!」にもほぼ毎回、板倉聖宣の発想法を載せています。貴重な板倉聖宣の資料は、講演などで板倉聖宣が語ったままを文字起こししているものが多いので、読みにくいところが多々あります。また話し言葉というのは整理しないと脈絡がずれてしまうことも多いのです。そこで私が前後を入れ替えたり、言葉を補ったりするなど、構成し直してまとめています。おかげさまでとても好評です。
メルマガの内容は刺激が大きすぎるので、そのまま掲載するのは控えて、そのうちのわずかな部分を今回の様に、公式サイトにも掲載しています。
今回は〈子ども主義〉について、お届けします。
〈子ども主義〉とは何か。
文学は教育に関わることが多いですね。ですからボクもある程度読んでいます。
文学というものは元もと読者主義です。〈強制的に読ませる〉というわけにはいかない。〈読んでもらわないといけない〉のです。ですから〈読者主義〉です。
思想や内容で「右だ」「左だ」という様に主義主張を分類して考える前に〈文学はもともと読者主義〉なんだということです。今、本が売れなくてあわてているでしょ。
みんなインターネットを見ていて、本なんか読まなくなってきた。
出版業界はあわててるのね。
ある意味で、インターネットの方が、本よりさらに読者主義だからです。相手が読んでくれないといけないという点では徹底している。
どこかの偉ぶった作家が書いている本より、友だちが書いている方が説得力があったりする。でもそんなときに「やっぱり友だちよりもあの作家の方がいい」と思えたら、本当にその作家は価値があるでしょ。
インターネット社会になると「文学者が書いたつまらない話より、どこのだれだか知らないけどインターネットにあった小説の方がいい」となるにちがいないのです。
それはどうしてか?
作家というのは、読者に対してすぐに偉くなってしまって読者主義でなくなっていくからです。
偉いから高飛車になって「今の読者はダメになった」と言ったりする人も出てくる。それは、とんでもない話です。
読者に直接語りかける、読者主義でないといけないのです。ぼくが科学読物がわりあい好きなのは、科学読み物が子どもに直接働きかけているところです。ですからほとんど全ての科学読み物は〈子ども主義〉なんです。
ところが教育の方は、子ども主義と言えるでしょうか。疑問です。
教育はいろいろなものを注入するための道具になってしまっているところがないか。「だからつまらなくなってしまう」ということがあるのではないか。そういうことを考えてみるとよいと思うのです。
たのしい教育は単なる技法やテクニックではありません。
子ども達の笑顔を求め力を伸ばす根本的な改革です。
たのしいこといっぱいの
「たのしい教育研究所」です