たのしい教育メールマガジンに紹介した板倉聖宣(仮説実験授業研究会代表・日本科学史学会会長)の〈教育を考えなおすための小事典〉「優等生と劣等生 」の反響がいくつも届いています。もう35年も前に月刊たのしい授業誌に載った内容ですけど、今読んでも新鮮な内容が詰まっています。興味のある方は〈月刊たのしい授業1983年10月号〉をたどってみてください。たのしい教育研究所にもあります。
少し抜粋して紹介しましょう。
読みやすくするために〈〉を利用したり、前後の脈絡を整えるために少しだけ手を入れてあります。
生徒はなぜこんなことを勉強しなければならないのかわからないままに、競争にあおられて無理やり勉強し、自分独自の価値観を自覚しようともしない。
教師もまた、自分の内面的な要求にもとづいて教えるのではなく、公けに教えることに決まっていることに従って教え、教頭や校長になるための競争にあくせくしている。
このようにして養成された優等生は、自分自身の独自な価値観をもたない主体性のない人間になってしまう。
これは人間そのものとして不幸なことである。また、そういう人間は〈公けの価値観をバックとして〉はじめて自己の優越性を主張できるので、ことさら〈その価値観を守ろうとして保守的な権力的な人間になりがち〉である。
そのような人間はまた社会状況に大きな変化がおこったとき、自ら新しい価値基準をさぐりあてる能力をもたない〈官僚的な人間〉となる。
そのような優等生は他人の上にたって人々を指導する立場に立つようにもなるので、他人の不幸をも生み出すことになる。
劣等生と呼ばれる人たちはどうなのか?
優等生が、自分なりの考えを捨てて社会に順応する生き方を選んだ人たちである、ということと対比させて、こう書いています。
優等生になるためには、〈自分なりの考え方をのばすこと〉を断念して〈社会順応しなければならない〉ことが少なくないのだが、あえてそれをしないために劣等生になってしまうことも少なくないわけである。
そこで、劣等生は優等生とちがって、自分自身の価値観というものを極端にそこなわずにすんでいることが少なくない。
そして板倉聖宣はこの項の最後にこうまとめています。
新しい時代の開拓者はたいてい古い時代の劣等性であったことを知ることによって勇気づけられるであろう。
教師が、あるいはもしかする親が目にする、いわゆる「劣等生」と呼ばれる子ども達の中に、新しい時代を開拓する人物が間違いなくいるのです。
そしてここからが肝心なところなのですけど、社会は優等生が作るわけではありません。そして劣等生が作るわけではありません。ある画一された価値観で切り分けられた〈優等生・劣等生〉という枠を超えて、たくさんの人たちが一緒になって、新しいよりよい社会を形作っていくのです。このことは以前のメールマガジンで、同じく板倉聖宣が語っている言葉として紹介した内容です。
いろいろな人たちがたのしく協力して活躍する社会、そのためにも、ますます「たのしい教育」の普及に力を注いでいきたいと思っています。それはたのしい教育のゆるぎない目標の一つです。