〈たのしい教育派〉は少数派ではあっても、その数がゆっくり増えつつあり、また高い実力を伴った先生たちが育っていく中で、もしかすると学校現場やその他のところで、〈たのしい教育派〉と〈そうでない派〉たとえば〈強制的な教育派〉との対立が生じないかと、心配になることがあります。
そのことについて、メルマガの最新号に綴っている言葉から抜粋してみます。要旨を抜粋しているので細かいところでつかみづらいところがあるかもしれませんが、全体としては伝わると思います。
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〈嫌だろうがなんだろうが続けなさい型〉中心の先生たちがいます。〈辛い中を乗り越えていくことを教えるのが教育なのだ〉と考えている方達です。そういう方達は〈たのしいから学ぶ〉という姿を見て、もしかすると「そういうことで勉強するのではなく、将来のためにがんばるのが教育の姿なのです」と語るかもしれません。
しかし本当はそういう先生たちも「子ども達が笑顔で学習してくれる姿」を求めているに違いありません。子ども達の苦しむ姿を見たいという様な人が教師になることは考えられないからです。
たのしさは心のずっと奥の方から湧き出てくるもので、DNAに刻み込まれている道しるべなのです。
〈たのしい教育派〉でない先生たちも、子ども達から「先生の授業たのしいから大好き! 休みの日より、先生との授業の日がいい」と言われたら、心から嬉しいと感じるに違いありません。
それでもなかなか「たのしい教育」に手を出さないのは、〈自分にはできない〉と考えたり〈大変な苦労や修行を経なければ実現できない〉と考えていることによるものが大きいのではないかというのが今の私の予想の一つです。
だからこそ「たのしい教育研究所」です。
研究所に集う先生かちがゆっくり増えていくことによって、たとえば〈嫌でも続けなさい型〉中心の先生たちも、次第にその方法を身につけていく可能性が高まります。
半分くらいの人たちが同じ教育目標で進んでいくというのは大変なことです。沖縄の教師の半分くらい、公立小中学校の半分くらいの教師だとして5000人くらいです。それくらいの教師が〈たのしい教育派〉になる日が来たら、その日が〈たのしい教育〉が大多数になった日だと言ってよいでしょう。
その数に至る道は、まだまだ遠い道のりです。
しかし、その遠い道のりを前に、「たのしい教育」を推進する中心にいるわたしがどういうことを感じているか?
「たのしさ」です。
眉間に皺を寄せて、歯を食いしばって、その目標を達成しようと決意しているのではないのです。
板倉聖宣がかつて私に贈ってくれた言葉があります。
ロバート・フックの〈ミクログラフィア〉に書いてくれた言葉です。
真理への道は長い
それはいばらの道であるかのように
言う人が少なくないが
私には とてもたのしい道の様に思えてならない。
フックさんもそう思っていたと思います。
板倉聖宣
先の長い道のりは、まさに〈あれもこれも〉とたのしめることに溢れています。
逆に、そうやって5000人が達成させる頃、今の私たちの様な深いたのしみが味わえるか?
疑問です。
今が一番たのしい時期なのでしょう。
たのしい教育研究所の活動方針は〈和を以って貴しとなす〉です。教育界にまだたくさんいる〈強圧的でなくては教育は成り立たない〉と考えている先生たちと争って勝ち負けを競う様なことをしてはいけません。
これはとても重要なことです。
対立構造を生んで突破するのは政治手法、権力闘争では功を奏して来たかもしれません。しかし私たちは〈教育〉というとても大切な動きの中にいるのです。
闘争ではなく、ゆっくりと仲間たちを増やす。
そして機会があれば、強圧的な教育を志向する方たちに「まず騙されたと思って〈たのしい教育〉を体験してみませんか」とすすめてみる。
それが「たのしい教育研究所」の重要なスキーム(枠組み・計画)です。
板倉聖宣が永眠し、その言葉をより深く感じる今日この頃です。 〈いいね〉の一票は、このラインのクリックで!