こういう問題を考えてみてください。
将棋の動きが完璧に読める究極のA.I.が開発され、そのA.I.同士が対局することになったとする。
じゃんけんで勝った方から刺すとすると、勝った方が一手刺した瞬間に、もう勝ち負けは決まってしまうのだろうか?
つまり将棋の勝負もじゃんけんの勝ち負けですでに決まってしまうのかどうかという話。
わたしなりの答えはあるのですけど、それはいずれチャンスがあれば書くことにしましょう。もしかするとこの中に答えを含めて書いてあるかもしれません。
子ども達は学校で学んでいくうちに「どんなものにも〈正しい答え〉がある」と考える様になっていきます。
先生たちの中にもそう考えてしまう人がいます。
数学や科学は公理や実験によって〈正しいもの〉や〈ほぼこう考えて間違いない〉という答えが決まってしまいます。
漢字でも「〈やま〉というのは〈山〉と書くこと」という決まりを教わり、「1868年は明治維新」という様に過去の事実を覚えなくてはならないことが多いので、そう考えてしまうことになるのでしょう。
しかし〈ほとんどのものは正しい答えが決まっている〉というのは幻想です。
私個人で考えてみても〈教師〉と〈トラックの運転手〉と〈カメラマン〉のどっちも魅力的な選択肢でした。今のたのしい教育研究所(RIDE)の活動はお陰様で大きな成果をあげていますから、その人生に満足しているとはいえ、車の運転が大好きですし、子どもの頃からカメラマンになって世界を旅したいという気持ちはまだ大切に持っています。文筆業で暮らしたい気持ちもあります。
もっと身近なものごとを考えても、正しい答えが決まっているというのは少ないのです。
Aという地点に行く道は〈この道がいいに決まっている〉わけではありませんし、このラーメン屋さんで食べるなら〈醤油ラーメンがいいに決まっている〉わけでもありません。
友達にプレゼントするなら〈この品物がいいに決まっている〉わけではありませんし、健康のためなら〈梅干しがいいに決まっている〉わけでもありません。
人間関係もそうです。以前も書いたとおもいます、文科省の学習指導要領もその部分で大きな変化を見せています。
次年度から改定される道徳の指導要領のはじめのところにこうあります。
特定の価値観を押し付けたり,主体性をもたず言われるままに行動するよう指導したりすることは,道徳教育が目指す方向の対極にあるものと言わなければならない」,「多様な価値観の,時に対立がある場合を含めて,誠実にそれらの価値に向き合い,道徳としての問題を考え続ける姿勢こそ道徳教育で養うべき基本的資質である」との答申を踏まえ,発達の段階に応じ,答えが一つではない道徳的な課題を一人一人の生徒が自分自身の問題と捉え,向き合う「考える道徳」,「議論する道徳」へと転換を図るものである。
その対極にあるのが「この漢字のここは〈止め〉ここは〈はね〉でなくては間違いです」という遥か昔の教育をそのまま続けていくことです。※〈そういう限定的な教育はしないように〉という政府の答申なども出ているほどです
今回はこれくらいにしましょう。