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ここまで。

子ども中心主義とは何か/授業の主権は教師ではなく子どもたちにあるということ

 前回のユヴァル・ノア・ハラリの〈21レッスンズ〉の話に心動かされた方達からの便りが届いています。具体的にどうすればよいのか、それを知りたい方はぜひRIDE(ライド)の講座を受講していただけたらと思っいます。
 今回は、授業全体に関わる見方・考え方をおとどけします。

 今回は魅力的な授業を準備するのは教師の仕事です、それは当然のことです、給料をもらっているのは子ども達ではありません、教師なのです。
 昼食をとろうとレストランに入って来た人たちに喜んでもらえる食事を提供するのは料理人の役割であることと同じです。

 残念ながら学校というシステムはそうではありません。江戸の藩校や寺子屋の時代から明治になり学校制度が始まった時から「提供するものを必死に学べ」という日本の学校のスタイルはかわらず、実はそしてそれは2020年現在も本質的には変わっていないのです。
 それを上からではなく草の根の活動として変えていこうというのが「RIDE( ライド:たのしい教育研究所 )」です。

 昨年の暮れ〈たのしい教育の中上級編〉として私の授業プランの構想「呼吸に目をつけよう」と、たのしい教育の根幹の一つである「仮説実験授業」を取り上げました。
 理論編で板倉聖宣(元仮説実験授業研究会代表)の次の話を紹介したのですけど、はじめてその発想に触れた先生たちには驚きだったようです。徹底的に子ども中心主義だからです。
 ほんの一部を紹介しましょう。

板倉聖宣 四條畷小学校にて1974.10

 仮説実験授業を「これからやってみょうかな」とはじめて思いたたれた方には、まず1つの授業書だけやってみることをお願いします。
 まだ何もやってないうちから「この授業書をやって、その次にこの授業書をやって…」と大変遠大な計画をたてる人がいますが、教育の主権は先生にはないので、仮説実験授業が子どもたちに拒否されたらやめてほしいのです。
 はじめてのことをやるときには、だれだってオッカナピックリやるのが本当なので、まず1つだけ、おっかなびっくりやることを志していただきたいと思います。それで途中で退却した方がよいと思ったら、ぜひ退却をしていただきたいのです。

 ただし、退却をするときには〈かならず子どもたちみんなの意見をもとにして退却する〉ようにしていただきたいと思います。先生が一人で「どうもこの授業はうまくいかない」「どうもザワザワして、そっぽを向くやつがいる」「いつもの授業とちがうから、よくないんじゃないか」と思ったりしてやめてしまうこともあるようですが、先生一人でそう判断せずに、必ず子どもたちの意見をきいてほしいのです。
 そのとき実際に子どもたちはどう思っているのか、〈普段の授業と比べて仮説実験授業はつまらない〉と思っているのかどうか、つまらないからザワザワするのか、おもしろいからザワザワするのか、表面だけを見ていたのではわからないです。

 授業の主権は教師ではなく子ども達にある、つまり徹底的に子ども中心主義だということです。

 教育内容が魅力的になり、たくさんの子ども達が「この先生の授業をうけたい」「学校に行くのが大好きだ」と感じてくれる様な時代がくれば、それは本質的に賢い子ども達がどんどん増えていくことになります。
 世の中に横たわるあるたくさんの問題は〈力〉〈暴力〉で解決できるものではありません、賢さで解決していくものです。本質的に賢い子ども達が増えていくことで、もっと豊かで安全で住みよい世の中に向かうのです。弱い立場にいる人たちにとっても住みよいものになるでしょう。

 徹底的に子ども中心主義、それはRIDE(ライド)にとっても変わらない指針です。

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名著「石はなにからできている?」の著者 西村寿雄先生RIDEに来たる

 名著「石はなにからできている?」の著者 西村寿雄先生が2020年1月、沖縄のたのしい教育研究所(RIDE)にやってきてくれました。

 RIDEの応援団の筆頭でもあった板倉聖宣先生と一緒に授業書「ふしぎな石じしゃく」を作成した功労者の一人でもあります。

 仮説実験授業の初期の頃の様子もたくさん教えていただき、ワークショップ「おきなわ石さんぽ」&「科学読み物をたのしもう」ではたっぷりと講師を勤めていただきます。

 RIDEに関わっているメンバーの実力がこれでまたグンと高まると思います。

 ワークショップの様子は後日紹介いたします、おたのしみに!

 

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桜の写真とどく/1月9日現在みなさんの周りでも桜が咲いていませんか

 たのしい教育を学んでいる人たちからたのしいメールが届きます、それを読むのはとても気持ちのよい時間です。先日乗せた〈一番桜が咲きました〉の記事に驚いたという話も多かったのですけど「もしやと思って学校で子どもたちと調べてみたら、こちらでも咲いていました」という便りがありました。
 嬉しいことに写真も添えられています。

 ある有名な随筆家が「桜が愛されるのはしっかり咲いてしっかり散るからだ」というようなことを書いてありました、いったい今の時代にそういうことを感じて桜が好きだという人がなん人くらいいるのでしょう。冬の季節の中、蕾を膨らませていき、寒い中で私たちに美しい彩りをたっぷりと見せてくれるから好きなのです、少なくとも私は。

 以前このサイトにも書いたのだろうか、桜の季節にニューヨークに行ったことがあって、花の大きさに驚いた。満開のソメイヨシノの比ではない。

 それはみごとでたのしませてもらったのだけど、慣れ親しんだ沖縄の桜は、格別な想いが重なる。きっとニューヨークの人たちはニューヨークの桜に同じような想いを重ねているのだろうな。

 みなさんの周りの桜はいつ咲くのでしょう、ぜひ近くの桜の蕾の様子を眺めてみてください、もしかすると開いている花が見つかるかもしれませんよ。毎日たのしい教育に
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ユヴァル・ノア・ハラリが教育を語る「情報を詰め込むことではなく、大量の情報の断片を結びつけて世の中の状況を幅広く捉える能力を」

 現代知識人の最高峰にいる一人だと、世界中で注目されているのがイスラエル出身の歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリです。新年号のメルマガの〈たのしい教育の哲学・発想法〉の章では、ハラリの最近作「21レッスンズ」を紹介しました。これはメルマガに折り込まれたその著書です。

 さっそくいくつも反響が届いています、現代最高峰の頭脳を持つ一人だといわれるハラリが教育についてどう語っているか、メルマガの一部を紹介しましょう。下線は私いっきゅうです。

 ハラリが語った教育の課題は〈たのしい教育研究所〉の問題意識と重なります。

 今から1000年前の1018年には、人々は未来についてわからないことはたくさんあったが、それでも人間社会の基本的特徴が変わることはないと確信していた。
 もしあなたが1018年に中国に住んでいたら、1050年までに宋王朝が崩壊したり、契丹が北から侵入してきたり、疫病で何百万もの人が亡くなったりしうることは承知していた。とはいえ、1050年にもほとんどの人が依然として農民や織工として働き、支配者たちが依然として軍隊や官僚制を人間で賄い、男性が依然として女性の上に立ち、平均寿命が依然としておよそ40年で、人間の体はまったく同じままであるだろうことは明白だった。
 したがって、1018年には中国の貧しい親は、子どもたちに田植えの仕方や絹織物の織り方を教え、豊かな親は、息子たちに儒教の古典の読み方や、書道、馬に乗っての戦い方を、娘たちには慎みのある従順な家庭婦人になることを教えた。こうした技能が1050年にも必要とされることは明らかだった。
 それに対して今日私たちは、2050年に中国や世界のその他の国々がどうなっているか、想像もつかない。人々が何をして暮らしを立てているかも、軍隊や官僚制がどのように機能するかも、ジェンダ-関係がどうなっているかも、まったくわからない。
 今よりもはるかに長く生きる人もおそらくいるだろうし、生物工学や、脳とコンピューターを直接つなぐブレイン・コンピューター・インターフェイスのおかげで、人間の体そのものが空前の革命を経ているかもしれない。
 したがって、今日子どもたちが学ぶことの多くは、2050年までに時代後れになっている可能性が高い。

現在、情報を詰め込むことに重点を置いている学校が多過ぎる
 過去にはそれは道理に適っていた。
 なぜなら、情報は乏しかったし、既存の情報の緩慢でか細い流れさえ、検閲によって繰り返し堰き止められたからだ。
 たとえばあなたが1800年にメキシコの田舎の小さな町に住んでいたら、広い世界について多くを知ることは難しかっただろう。ラジオもテレビも日刊紙も公共図書館もなかったからだ。
 仮にあなたは字が読め、個人の書庫に出入りできたとしても、小説と宗教の小冊子以外には、ほとんど読むものはなかっただろう。
 スペイン帝国は、各地で印刷される文書はすべて厳しく検閲し、外部からは念入りに検査した出版物がわずかに持ち込まれるのを許すだけだった。

 あなたがロシアやインド、トルコ、中国の田舎町に暮らしていても、状況はほとんど同じだった。近代的な学校が設立され、子どもたち全員に読み書きを教え、地理や歴史や生物学の基本的事実を知らせるようになったのは、途方もない進歩だった。それに対して21世紀の今、私たちは厖大な量の情報にさらされ、検閲官たちでさえそれを遮断しようとはしない。むしろ彼らは、せっせと偽情報を広めたり、無関係な情報で私たちの気を散らしたりしている。
 どんな政府も、気に入らない情報をすべて隠すことは望めない。その一方で、相容れない報道や、人の気を逸らす情報を世間に氾濫させるのは、驚くほど易しい。
 世界中の人が1回マウスをクリックするだけで、シリアのアレッポの爆撃や、北極圏の氷の融解について、最新情報を手に入れられるが、矛盾する話があまりに多いため、何を信じていいか困ってしまう。

 そのうえ、たった1回クリックするだけでアクセスできるものは他にも無数にあるので、的を絞るのが難しく、政治や科学があまりに複雑に見えるときには、愉快な猫の動画や、有名人のゴシップや、ポルノに、ついつい切り替えたくもなる。

 そのような世界では、教師が生徒にさらに情報を与えることほど無用な行為はない。生徒はすでに、とんでもないほどの情報を持っているからだ。人々が必要としているのは、情報ではなく、情報の意味を理解したり、重要なものとそうでないものを見分けたりする能力、そして何より、大量の情報の断片を結びつけて、世の中の状況を幅広く捉える能力だ

 実際には、それはこれまで何世紀にもわたって西洋の自由主義教育の理想だったが、今に至るまで西洋の多くの学校でさえ、その実現を怠ってきた。
 教師は生徒の頭にデータを詰め込んでおいて、「自分で考えるように」生徒を促すばかりで良しとしてきた。
 自由主義の学校は権威主義に陥るのを恐れていたので、単一の価値観に基づく包括的な「大きな物語」を特別に恐ろしがっていた。教師たちは、生徒に多くのデータと少しばかりの自由を与えておきさえすれば、生徒は自分なりの世界観を創り出すだろうし、たとえこの世代が、すべてのデータを総合して、この世界についての首尾一貫した有意義な物語に仕立て上げられなかったとしても、将来、真っ当な総合的物語を構築する時間はたっぷりあるだろうと思い込んでいた
 ところが今や、私たちはその時間を使い果たしてしまった。これからの数十年間に私たちが下す決定は、生命そのものの将来を方向づけるだろうが、そうした決定は、現在の世界観にだけ基づいて下すしかない。もしこの世代が、森羅万象の包括的な見方を持っていなければ、生命の将来はランダムに決まってしまうだろう。

 

 ハラリはおそらく「本質的な教育はたのしく、その具体的な方法がいくつも準備されている」ということを知らないと思います。それを知れば「だからこそこれからはたのしい教育なのだ」といってくれるだろうと感じられてなりません。ハラリのところまで〈たのしい教育の思想・哲学・方法〉が届くのはいつだろう。がんばらなくてはいけません。

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