「新明解国語辞典」について書いた記事が好評です、ありがとうございます。「自分用が欲しくて買いました」という方もいました。
辞書は改訂されていくので、私が尊敬する「山田忠雄」の責任編集版でなくなってから、しだいに柔らかくなっていきました。最新は〈第八版〉で、〈第四版〉あたりまでが、山田忠雄イズムが貫かれている様です。メルカリなどで古本を探すとよいと思います。
さて、いろいろなお便りが届いたこともあって、私自身の興味関心もますます高まり、新明解国語辞典を1ページから全て読んでいくことにしました。
やっと「あ」から「い」にはいったところです。
おもしろいですよ。
序章として山田忠雄が「辞書に求められるもの」と題した文章を載せています。
これが骨ある文章で「背筋をまっすぐにして読まなくては」と思わせます。前回書いた〈暮らしの手帖〉も
指摘した辞書界の孫引き体質を直球で指摘しています。少し書き抜いてみます。
朝起きて朝食の膳に新聞を見る、夜の帳の下りる頃は夕刊を手にする。その度毎にわれわれは現代社会の進む方向と思潮を各自のアンテナで捉えようと試みる。媒体は言葉である。 本を読む、手紙を書く。事務を執る、連絡を受ける、命令を伝える。旧友と久し振りに会う、会話を楽しむ。テレビを見る。社会生活において欠くべからざるものは言葉である。
生活は言語によって支えられ、われわれの思考と内省は言語によって深まる。
〈言葉〉は私たちになくてはならないものであることを刻んであと、辞書の重要度にすすみ、その後、辞書界の現状を綴っています。
しかしながら、辞書後進国の悲しさ、どの辞書を見ても満足を覚えることはめったに無い。そこに載せる用例は余りにも貧弱であり、当然の結果として語義の分析は十分でない。鋭さなど求むべくもない。語釈は十種一様であり、千篇一律である。付録の多さと本文の組み体裁に僅に自己主張をするのみ。既に団栗の背比べであって見れば、わが国においては、辞書の比較は無意義(ナンセンス)に近く、蒐集(しゅうしゅう)は多く好事(こうず)の域を出ない。
それを打破するために山田忠雄が中心となって世に送り出したのが「新明解国語辞典」でした。
もちろん辞書は山田忠雄一人で作ることができるわけではありません。けれど編集代表、主幹として彼がいなくてはこの辞書は完成しなかったことは間違いなく、その意味で〈山田忠雄がつくった〉といってよいと思います。
「あ」からはじまる言葉の一つを紹介しましょう。
〈あやまる/謝る〉自分が悪かったということを表明し、相手に許しをもとめる。
なるほど、その通りだ。
続いて用例が出てきます、みなさんならどういう例を挙げるでしょうか?
〈ちゃんと謝ってきなさい〉
〈心から謝ることが大切〉
という様な言葉をもってくる人もいるでしょう。
ところが山田忠雄が刻んだ用例は違います。
「謝れば済む問題では無い」!
笑いしました、他の辞書では真似できないでしょう。
辞書を「読書する」というのは、活字中毒だった私もはじめてのことです。
これからますますたのしみが広がります。
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