たのしい教育への疑問①/本を楽しむ為には漢字が分からないといけない様に、楽しい授業をするにも基礎基本をしっかり習得させる必要がある

〈たのしい教育研究所〉には批判的な話は届きません。たのしい教育と対立する様な見方・考え方が教育の世界に存在しないということかもしれませんが、それと敵対する考えの人たちは、そもそもこのサイトなどを読まないのでしょう。
 もしも〈教育にたのしいとか楽しくないということは関係ない〉という人がいても、自分の教育をより良くしたいという意図があるから、このサイトを読んでくれているので、子ども達の明るい未来に全力で取り組む姿を批判する気持ちにはならないのだと思います。

 もしも〈たのしい教育〉に疑問や批判を感じる人たちがいても〈子ども達の笑顔〉に反対する人はいないでしょう。

 そもそも、たのしい教育研究所には、その方法を学びに来る方達なので、必然的にその趣旨に賛同している皆さんが集う場になります。ですから、そういう方達から来る〈たのしい教育への疑問〉は、ありがたいことでもあります。

  今回は、その貴重な話を取り上げようと思います。

 某日、ある先生から「たのしい教育研究所の活動にとても関心を持っています。いろいろな組織と違って、教師をしていた喜友名先生が途中退職してまで立ち上げた組織である、ということが一人の教師として心をうちます」という挨拶から始まって、本題としてこういう内容が綴られたメールが届きました。

 子ども達が楽しんで授業に参加してくれることはいいことだと思うのですが、例えば読書を楽しむ時にも漢字や語句が分からないと楽しめないように、基本的なこと基礎的なことを習得することは欠かせないことだと思うのです。

 基礎的基本的なものをしっかり習得してこそ、喜友名先生のいう、たのしい教育も成り立つのではないでしょうか?

 この疑問はわたしにとって、とても嬉しい問いかけでもあります。

 みなさんなら、どう答えるでしょうか?

 特に〈たのしい教育〉に共感して下さっている皆さんが、どの様に答えるのか、それを聞かせていただけたら幸いです。

 ちなみに、その先生が心から賛同してくれたのかどうかまでは定かではありませんが、私とのやりとりはすでにいい形で終えています。

 みなさんの考えを聞かせてください。
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たのしい教育を影に日向に応援してくれる方々/おいしいジャガイモが届く&ジャガイモは根なの茎なの?

 春が来る頃にも寒さ振り返しているある日、たのしい教育研究所の玄関に大きな袋が置かれていました。開けてみると丸々としたジャガイモがたくさん入っています。今年になってジャガイモの美味しさを発見した私にとってとてもうれしいプレゼントになりました。

 さっそくスライスして油で炒め、塩コショウをかるくふって味わってみました。

 実においしいジャガイモです。
 たのしい教育Cafewで、みんなにご馳走しようと思います。

 ジャガイモといえば、以前「ジャガイモは根ではなく茎だといってよいのか」について板倉聖宣の文章を掲載しました➡︎こちら

 それを読んでくれた中学生から、さらに質問が来た時に、こういうメールを送りました。

Aくんへ

 Aくんも言う様に、ジャガイモもサツマイモも土に埋まっている部分なので〈根っこ〉だという見方や考え方は、ごく自然なことです。
 それをはなから否定しても納得いかないでしょう?
 私自身もそうでした。板倉聖宣もそうだったんです。

 辞書を調べると、こうあります。

 

〗 コン・ね

1.草木のね。地中にあって、水分や養分を吸収する働きをするところ。また、ねもと。物のつけね。「草根木皮・大根・舌根・球根・発根」

 

〈草木のね。地中にあって〉という書き出しですよね。

 

 しかし科学者たちが詳しく調べていくうちに「〈土の中にあるかないか〉が〈根〉かどうかの決定的な説明とはならない」ということがわかってきました。

 ちなみに〈科学者〉というのは、Aくんやわたしたちと別な存在ではなく〈納得がいかない〉〈もしかすると、こうなんじゃないかな〉ということがたくさんあって、それを予想しながら確かめていった人たち、確かめている人たちです。

 つまりAくんや私たちの味方なんです。

 

 科学者たちが、いろいろ調べていくうちに、根っことはいっても、土の中ではなく、空気中に出ている〈根〉があることもわかってきました。

 

 

 そうやって調べていくうちに、同じ〈いも〉と呼ばれていても、ジャガイモもサツマイモも、味や栄養以外に大きな違いがあることがわかってきました。

 

 その一つが、太陽にあてた時のジャガイモとサツマイモの違いです。

 サツマイモは、太陽にあてて干しているうちに美味しくなっていくというので〈天日干し〉をすることもあります。その時に特に表面の色が変わることはありません。

 

 しかしジャガイモは違います。
 左が太陽にあてていないジャガイモで、右は太陽にあてたジャガイモです。
 色が大きく違っています。

 

 こういうところからも「同じ〈地中〉にあるものでも、どうも違いがあるようだ」ということに気づいていった人たちが出てくるでしょう。

 こうやって、ジャガイモは地下にある〈茎:くき〉で、サツマイモは地下にある〈根:ね〉なのだということもわかってきたのです。
 「テストに出るから覚えておこう」的な知識ではなく、科学の歴史を丁寧にたどっていくうちに、こういうことも、腑に落ちていくことがあると思います。

 自分でもいろいろ関心をもって調べていってくださいね。

いっきゆう

 たのしい教育研究所には、応援してくださる方たちがたくさんいます。見えるところだけではなく、土の中で支えてくれるかの様に応援してくれる方たちもいます。ますます背筋を伸ばしてしっかり進んでいきたいと思う日々です。この〈いいね〉ラインのクリックも 着実な応援となります!

楽しい折り染め書道・折染め習字/広がるたのしい教育-折染めの楽しみ方はたくさん

 たのしい教育研究所の講座を受けた方たちから、その後、子ども達と楽しんでくれている様子が届きます。最近UPした〈折染め書道・折り染め習字〉ですけど、別の先生からも届きました。

 カラフルで愛らしい文字がたくさん並んでいます。

  折染めの楽しみ方はとてもたくさんあります。

 みんなで笑える教材を作ったり、プレゼントになるものを作ったり、卒業式・入学式で使えるものを作ったり etc.

 そのう中の一つが筆立てです。

 今月末(30日:金)の講座に向けての準備会で作って見たのですけど、これがなかなかいい感じです。

 講座では、他にもいろいろな楽しみ方を紹介します。
 希望する方は、あと1席空いています、お申し込みください。平日ですけど、新しい年度の新しい出会いをたのしくする〈研修〉としての価値はとても高いと思います。
     ➡︎こちら

 折り染めの染料は〈プリンタインク〉を利用します。
 このアイディアが画期的で、いろいろなみなさんからの評価がとても高いものがあります。

 30年ほど前に、わたしが学んだ折り染めは着物の染料を使っていました。染まり具合は確かに良いのですけど、費用的に高いのと、実際に染めるまでに何段階かの過程を経るので、講座などで積極的に他の先生たちに広めることに躊躇していたのですけど、このプリンタインクの利用のアイディアが出てからは、どんどん広めています。実際の染まり具合もとてもよく、いろいろな先生たちが学校現場でたのしんでくれています。

 たのしく賢い笑顔が広がることは、私たちの未来にとって決定的に重要なことだと思います。それと同時にわたし達自身の笑顔とかしこさが広がっていきます。先日は、ビュンビュンごまのことで研究所に相談に来た先生がいました。チャンスがあれば、それも紹介させていただきます。この〈いいねライン〉をクリックすることで〈たのしい教育研究所〉を応援することができます !

 

たのしい教育の思想/〈たのしさ〉が決定的であるという思想は古いのか新しいのか

 時々誤解する方もいるかもしれません、たのしい教育研究所は〈楽しくないより楽しい方がいい〉と考えているわけではありません。「〈たのしさ〉を加えることで子ども達が少しでも教育に乗って来てくれたらよい」と考えているわけでもありません。
「教育にとって〈たのしいこと〉が決定的である」と考えているのです。

 

 たとえば〈折り染め〉のたのしさを伝えたり、〈絵画〉の講座を開催したり、〈出会いと別れのたのしい授業の講座〉を開催しているのですけど、全て「たのしさが決定的だ」という考えの元に組み立てています。

 計算して正しい答えを出せる子どもより〈計算することがたのしくてならない〉という子どもたちを育てたいと考えています。
 筆を持って教科書と同じ様な文字を綴ることができる子どもたちより、〈毛筆が大好きだ〉〈墨の匂いがたまらない〉という子どもたちを育てたいと考えています。

 この考え方は〈できれば楽しく〉という類とは根本的に違いがあります。

 こういう見方・考え方は沖縄に何度も足を運んでくれた、仮説実験授業の生みの親である板倉聖宣から学び取って来たものです。
 このことに関連して最近のメールマガジンに書いたところいろいろな反響がありました。少し引用してみましょう。

 わたし、いっきゅうの関心事の一つは「そもそも板倉聖宣が〈教育にはたのしさが決定的に重要だ〉と考える様になったのはいつのころからか」ということです。
 それと同時に、長い歴史を持つ教育の営みの中で、いったい誰が〈たのしさの重要性〉を主張し始めたのか、ということも関心事です。

 教員試験合格ワークショップでは〈教育史〉も取り上げています。
 文字が生まれるより前は〈伝聞・言い伝え〉による教育が主流でした。その系統として成熟していったのがソクラテスなど古代ギリシャ(紀元前5世紀前後500年くらい)の哲学者たちで有名な「対話」による教育方法です。

 私たちにとってごく普通の〈同一年齢集団への一斉授業〉による教育は1600年代のコメニウスにその構想をたどることができます。それほど長い間一斉授業がなかったと考えられませんが、「世界図絵」という具体的方法も提唱しながら、一斉授業の重要性を提唱したのが〈コメニウス〉でした。
 現在はI.T.による教育方法も提唱される新しい段階に入っています。

 しかしそういう教育の歴史のどこをたどっても〈たのしさ〉の重要性は出て来ません。
 〈たのしさ〉の視点で〈教育の歴史〉を問い直す作業無しに、その答えは得られないでしょう。
 教育全体の歴史の中で〈たのしさ〉の位置を明らかにしていくことそのものが〈たのしい試み〉になりそうです。

 さてわたしが学んで来た板倉聖宣は、いったいいつから「たのしさの重要性」を語り始めたのでしょう。

 1983年に創刊した「月刊たのしい授業」の筆頭に板倉聖宣は「いまなぜ〈たのしい授業〉か-創刊の言葉-」という文章を綴りました。
 こうあります。

 

 人類が長い年月の聞に築きあげてきた文化、それは人類が大きな感動をもって自分たちのものとしてきたものばかりです。そういう文化を子どもたちに伝えようという授業、それは本来たのしいものになるはずです。その授業がたのしいものになりえないとしたら、そのような教育はどこかまちがっているのです。
 子どもたちが自らの手で新しい社会と自然をつくっていく、そういう創造の力を育てようというのなら、なおさら、その授業はたのしいものでなければならないはずです。たのしい創造のよろこびを味わうことなしには創造性など発揮できないからです。
 だから私たちは「今なによりも大切なのは、たのしい授業を実現するよう、あらゆる知恵と経験と力とをよせ集めることだ」と考えるのです。

 

 そこには
・教育は本来たのしいものになるはずである
・教育がたのしいものになりえないとしたら、それはどこかが間違っている
・今なにより大切なのは、たのしい授業の実現である
ということが迫力を持って語られています。

 ところで、わたしの手元でたどることができる古い資料によれば、上記の文章の17年前、1966年の9月に板倉聖宣が「仮説実験授業の覚書き」として書いた文章に「たのしい」という言葉を発見することができます。
 サブタイトが〈勉強はたのしいことか、くるしいことか、いやなことか〉です。

 実はこの中から〈勉強にとってたのしさが決定的だと〉という考えを読み取ることはできません。
 お読みください。

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仮説実験授業についての覚え書(3)
勉強はたのしいことか---くるしいことか、いやなことか
           板倉聖宣 1966.9.19
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引用ここまで

 

 発見学習のブルーナーが板倉聖宣の発想に近いことを以前書きましたが、ブルーナーも〈楽しさ〉を強調しているわけではありません。

 たのしい教育の講座でも取り上げて来たモラルジレンマのコールバーグはどうか?
 彼は〈道徳性の発達〉という概念とモラルジレンマによる道徳の授業を組み合わせて来たのであって、たのしさが決定的だと考えていたわけではありません。

 もしかすると私が見落としている教育者の中に、その意義と重要性を投げかけた人物がいるのかもしれません。しかしそれを考え合わせても〈たのしい教育〉はかなり新しい思想であるといってよいと思っています。

 おそらくその思想を初めて世に送り出したであろう〈板倉聖宣〉自身、仮説実験授業を提唱したあたり1966年時点で〈楽しさが決定的である〉とは考えていなかった、ということは、私自身にとって大きな発見でした。それはつまり、〈たのしい教育〉は何十年というくらいの歴史しかない若い思想であるということでもあります。

 若く新しい思想・概念である〈たのしい教育・楽しい教育〉が、着実に伸びて行く様に、今後とも全力を投じていくつもりです。みなさんの応援をよろしくお願いいたします。この〈いいねライン〉をクリックすることで〈たのしい教育研究所〉を応援することができます !