道徳の教科化とたのしい教育・楽しい道徳/道徳は本来楽しいはずだ①

 次年度からまず小学校で道徳が教科となることは、教育の流れに関心をもっている皆さんはご存知のことと思います。国語、算数などと違って数字による評価をしないこともあって〈特別の教科 道徳〉という名前になりました。今回は〈楽しい道徳〉について紹介したいと思います。

 道徳の教科化について、文科省のサイトにこう記載されています。

【1】道徳科の指導方法の改善に関する前提 (道徳の特別教科化の趣旨)
 平成27年3月27日に学校教育法施行規則を改正し、「道徳」を「特別の教科である道徳」とするとともに、小学校学習指導要領、中学校学習指導要領及び特別支援学校小学部・中学部学習指導要領の一部改正の告示を公示した。

 今回の改正は、いじめの問題への対応の充実や発達の段階をより一層踏まえた体系的なものとする観点からの内容の改善、問題解決的な学習を取り入れるなどの指導方法の工夫を図ることなどを示したものである。

 このことにより、「特定の価値観を押し付けたり、主体性をもたず言われるままに行動するよう指導したりすることは、道徳教育が目指す方向の対極にあるものと言わなければならない」、「多様な価値観の、時に対立がある場合を含めて、誠実にそれらの価値に向き合い、道徳としての問題を考え続ける姿勢こそ道徳教育で養うべき基本的資質である」との答申を踏まえ、発達の段階に応じ、答えが一つではない道徳的な課題を一人一人の児童が自分自身の問題と捉え、向き合う「考える道徳」、「議論する道徳」へと転換を図るものである。
小学校学習指導要領解説(特別の教科 道徳)

※下線は喜友名

こちら

 
〈これまでと対して違いはない〉と思う人もいるかもしれませんが、今回、文科省はとても思いきったことをはっきりと語っています。

・特定の価値観を押し付けたり、主体性をもたす言われるままに行動するよう指導したりすることは、道徳教育が目指す方向と対極である

・答えが一つではない道徳的な課題を一人一人の児童が自分自身の問題と捉え、向きあう〈考える道徳〉〈議論する道徳〉へ転換を測る

というのです。

 わたしたちはついつい「道徳的にこれが正しい」とか「道徳心がなっていない」という様な、一定の価値観からものをいうことがあります。しかし、それを見直そうということでもあるのです。

 わたしたち〈たのしい教育研究所〉が提唱している授業は、道徳に限らず、何しろ子ども達が「この授業たのしい・もっとこういう授業を受けたい」という教育です。
 価値観を押し付けない、そして答えが一つに決まらない、考えて議論する道徳を、子どもも大人もたのしく歓迎してくれます。ですから、今回の文科省の道徳の方向性は歓迎すべきことでもあります。

 科学も、いろいろな考えの中から〈この意見が正しいのかな、あの意見が正しいのかな〉という様に丁寧に一つずつ確かめて「これだけは確かだ」というものを明らかにしてきました。その科学上の問題を授業で丁寧にたどることによって、どの子もその授業を目を輝かせて歓迎してくれることは実験済みです。

 

 〈道徳〉は〈科学〉とは違います。しかし、その手法は科学的なものとして組み立てることができます。具体的には

1.〈解決する価値のある問題を発見する〉

2.〈それについて議論する〉

3.〈どれがより確かなものに近いのか、時間をかけて検証する〉

という流れです。

〈1〉は教師が準備することになるでしょう。
子ども達はその問題に触れ、考える価値があると感じたら、思い切り議論するわけです。それが〈2〉です。
 そこで出した自分の考え・アイディア、仲間たちが出してくれた考え・アイディアの中で心に残るものたちを、子どもたちは自分の人生の中で問題意識として持ち続けるのです。それが〈3〉です。

 研究所でとりあげる道徳について、これまでもいくつか紹介して来ましたが、〈モラルジレンマ授業〉という方式です。これの授業を子ども達はとても歓迎してくれます。

 春の講座でT先生が〈いくつずつ分ける?〉というテーマでモラルジレンマ授業プランを実施してくれました。反響が大きく、さっそくいろいろな先生がクラスで子ども達と授業してくれています。 つづく
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たのしい授業プラン〈空気の力〉で「たのしい水槽」づくり/メルマガで大人気の実験

 研究所で魚を飼っています。
 〈ベタ〉という種類の魚です。
 その名前ではどうもね、ということで「左衛門尉(さえもんのじょう)」という立派な名前をつけて可愛がっています。メスだったらごめんなさい。

べたとはもともと「そのまま」という意味で使われた言葉である。ここから「特別でない」「ありきたり」といった意味を持つようになる(ベタ記事のベタはこの意)。

更に「ありきたり」という意味から派生して「面白くない」といった意味でも使われる。ちなみに楽屋言葉の『べたネタ』とは特に面白みのないありきたりなネタ(関西芸人がツッコミで使う「ベタやなあ」はここからきている)。-俗語辞典-

http://zokugo-dict.com/29he/beta.htm

 


 左衛門尉はペットボトルで飼っています。そのペットボトル水槽を見て研究所に来る方たちが驚いています。

  こういうペットボトル(2リットル)水槽です。

 別に普通のペットボトルじゃないか、と思うかもしれません。

 でも真ん中あたりをよく見てください。
 カッターで切り込みを入れて、パカッと大きく空けてあるのです。

 左衛門尉(さえもんのじょう)は、その穴のところからエサを食べたり・・・

 ペットボトルの上の方でのんびりしたり・・・

 底のあたりでのんびりしたり・・・
 まさに四方八方、縦横無尽に泳ぎ回っています。

 

 どうして真ん中にこんなに大きな穴が開いているのに水はこぼれていかないのでしょう?

 え?
 穴に見えているけど、実は開いていない、ですか?
 いいえ、しっかり開いていて、指を突っ込むこともできます。

 ペットボトルの真ん中をカッターで横に切り、そこにプリンなどのスプーンの柄を切ってグッと開いてあるのです。簡単ですから、みなさんもやってみませんか。
 カッターを使う時には注意してくださいね。

 これまでいろいろな学校でも作ってきましたが、子どもたちだけでなく、先生たちもとてもびっくりしてくれます。

 

 どうしてこういうことが起こるのでしょう。

 どこで誰がやってもこうなりますから、これは科学的にしっかり確かめられた現象なのです。メルマガでは三週に渡って、このおもしろさやどういう原理なのかを授業プラン化してまとめてきました。読んでくれた方たちからの反響も上々です。

 どうしてこうなるのか?

 簡単にいうと〈大気はあらゆる向きから物体を押しているから!〉 です。
 大きく開いた穴から水が出ないように大気がぎゅっと押しているのです。

 これは私が紅茶のペットボトルの横を空けてここからストローでお茶を飲んでみせた実験で使った時の写真ですけど、この矢印の様に大気が水面を押しているのです。

 これは〈大気の力〉という授業プランのはじまりの実験です。
 大気があらゆる向きから押しているのなら、ひっくり返してもこぼれないの?
 そうやっていくつかの実験をしながら、地球上の大気がしっかりとした力で地上の物体をぎゅうぎゅうに押していることが感動的にイメージできるプランです。

 今月の〈たのしい教育Cafe〉でとりあげようと思っています。
 興味のある方はお申し込みください。
 ちなみに、この水槽自体は「月刊たのしい授業」の1994年8月号に〈ふれあい水槽〉として紹介されたものを簡単にできるよう、工夫したものです。
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たのしい教材の魅力 シャトル・キャッチは優れもの!

 たのしい教育には、たのしく学ぶことができる〈授業プラン〉だけでなく、すぐに手にしてたのしめるグッズ・おもちゃ類もあります。
 講座では、受付前から売り場は賑わいます。

 ある小学校の先生が、講座の売り場で〈シャトル・キャッチ〉を入手し、子ども達がとても喜んでくれたという嬉しいメールが届きました。

 シャトル・キャッチは狭い場所でも思い切り投げたり、キャッチしたりしてたのしめるすぐれものです。 ⇨ これまでのシャトル・キャッチの紹介記事

 シャトルキャッチは、力強く投げても教室の半分にも届きません。
 そして、なげたシャトルはくるくる回りながら落ちて来ます。


 

 今回のメールにも、子ども達が、たのしく工夫して、たのしんでいたということで、写真もいろいろと添付されていました。加工して掲載させていただきます。

 

 みなさんもチャンスがあればぜひおたのしみください。欲しい方へは、コップ無しでシャトルのみ1つ250円、シャトルのみ10個セット1100円(送料込み)で送らせていただいています。コップは学校などにある紙コップで対応してください。ご要望の方はどうぞ。〈いいね〉の一票は、このラインのクリックで!

 

〈たのしい教育派〉を〈そうでない派〉とを対立させない/たのしい教育が多数派になる日はまだまだ遠い。しかしそれはたのしい道のりに違いない。

 〈たのしい教育派〉は少数派ではあっても、その数がゆっくり増えつつあり、また高い実力を伴った先生たちが育っていく中で、もしかすると学校現場やその他のところで、〈たのしい教育派〉と〈そうでない派〉たとえば〈強制的な教育派〉との対立が生じないかと、心配になることがあります。
 そのことについて、メルマガの最新号に綴っている言葉から抜粋してみます。要旨を抜粋しているので細かいところでつかみづらいところがあるかもしれませんが、全体としては伝わると思います。

 〈嫌だろうがなんだろうが続けなさい型〉中心の先生たちがいます。〈辛い中を乗り越えていくことを教えるのが教育なのだ〉と考えている方達です。そういう方達は〈たのしいから学ぶ〉という姿を見て、もしかすると「そういうことで勉強するのではなく、将来のためにがんばるのが教育の姿なのです」と語るかもしれません。
 しかし本当はそういう先生たちも「子ども達が笑顔で学習してくれる姿」を求めているに違いありません。子ども達の苦しむ姿を見たいという様な人が教師になることは考えられないからです。
 たのしさは心のずっと奥の方から湧き出てくるもので、DNAに刻み込まれている道しるべなのです。

 〈たのしい教育派〉でない先生たちも、子ども達から「先生の授業たのしいから大好き! 休みの日より、先生との授業の日がいい」と言われたら、心から嬉しいと感じるに違いありません。

 それでもなかなか「たのしい教育」に手を出さないのは、〈自分にはできない〉と考えたり〈大変な苦労や修行を経なければ実現できない〉と考えていることによるものが大きいのではないかというのが今の私の予想の一つです。

 だからこそ「たのしい教育研究所」です。

 研究所に集う先生かちがゆっくり増えていくことによって、たとえば〈嫌でも続けなさい型〉中心の先生たちも、次第にその方法を身につけていく可能性が高まります。

 半分くらいの人たちが同じ教育目標で進んでいくというのは大変なことです。沖縄の教師の半分くらい、公立小中学校の半分くらいの教師だとして5000人くらいです。それくらいの教師が〈たのしい教育派〉になる日が来たら、その日が〈たのしい教育〉が大多数になった日だと言ってよいでしょう。

 その数に至る道は、まだまだ遠い道のりです。
 しかし、その遠い道のりを前に、「たのしい教育」を推進する中心にいるわたしがどういうことを感じているか?

 「たのしさ」です。

 眉間に皺を寄せて、歯を食いしばって、その目標を達成しようと決意しているのではないのです。

 板倉聖宣がかつて私に贈ってくれた言葉があります。

 ロバート・フックの〈ミクログラフィア〉に書いてくれた言葉です。

真理への道は長い
それはいばらの道であるかのように
言う人が少なくないが
私には とてもたのしい道の様に思えてならない。
フックさんもそう思っていたと思います。
             板倉聖宣

 

 先の長い道のりは、まさに〈あれもこれも〉とたのしめることに溢れています。
 逆に、そうやって5000人が達成させる頃、今の私たちの様な深いたのしみが味わえるか?
 疑問です。

 今が一番たのしい時期なのでしょう。

 たのしい教育研究所の活動方針は〈和を以って貴しとなす〉です。教育界にまだたくさんいる〈強圧的でなくては教育は成り立たない〉と考えている先生たちと争って勝ち負けを競う様なことをしてはいけません。
 これはとても重要なことです。

 対立構造を生んで突破するのは政治手法、権力闘争では功を奏して来たかもしれません。しかし私たちは〈教育〉というとても大切な動きの中にいるのです。
 闘争ではなく、ゆっくりと仲間たちを増やす。
 そして機会があれば、強圧的な教育を志向する方たちに「まず騙されたと思って〈たのしい教育〉を体験してみませんか」とすすめてみる。
 それが「たのしい教育研究所」の重要なスキーム(枠組み・計画)です。

 板倉聖宣が永眠し、その言葉をより深く感じる今日この頃です。 〈いいね〉の一票は、このラインのクリックで!