板倉聖宣(仮説実験授業研究会代表)アーカイブス 沖縄ファースト講演「人生を豊かにするために たのしく学ぶ(5)」

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1989仮説実験授業研究会代表 板倉聖宣 沖縄ファースト講演
「人生を豊かにするために たのしく学ぶ(5)」
会場 沖縄市 レストラン サザンパレス
文責 たのしい教育研究所 喜友名 一

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本来の教育の原理

「より豊かに生きるために学ぶ」というのが、本来の教育の原理なんです。

例えば日本なんかでは「学校では実験をやらんからけしからん」「実験を入れろ」なんていっています。実験というものは昔はなかったけどだんだんいれてきたんだ、なんていう話があるんですけど、それは真っ赤なウソですね。科学の教育のもとは何かというと、17世紀、あるいは18世紀の頃のヨーロッパの先進国イギリスやフランスで科学を研究する人たちです。その科学の研究をする人は、月給をもらうためにイヤイヤ科学を勉強していたんではないんです・・・科学がたのしいからやったんです。
「おもしろいなぁー、星ってこういうふうになってたのか」
「色ってこういうものかぁー」
「光ってこういうものだったのか」
というぐあいに研究していったんです。

面白いから研究していると、ついついそばの人が、「ねえねえ先生、その話おもしろそうだろから聞かせてよ」

「実験して見せてよ」

ってなっていったんです。それはわかる感じがするでしょう。

そうやって、見せると喜ぶ人がいるっていうことがわかってきた。それいうふうにやってると貧乏な人も科学を研究するという事がでてきます。科学者たちは望遠鏡(ぼうえんきょう)を作ったり、プリズム買ったりするのにいろいろお金がかかるでしょう。これ、もとを取りたいとおもうでしょう。

それで「お金くれれば望遠鏡みせてあげますよ」ってなった。そうするとお金持ちがね、
「望遠鏡のぞかせてよ・・・土星に輪があるそうだね、それ見せてよ」
ってやって来ることもある。

そうやっていろいろみせてあげる。そういうのってたのしいでしょう。そういうものを見たいという人がいて、見せたいという人がいて、それで科学の教育が始まったんです。

「一人一人やったらめんどうだから12人、一ダースあつまったら教えましょう」という人が出る。

一人でもいいですよ、12人分の授業料払ってくれたらやりますよっていう人たちなども現れてきたのです。

そうやってそういう人たちがだんだんと、いなかのお金持ちなどのところで科学の講演をするわけです。講演ったって「オイ、ちゃんと聞いてたか。試験するぞ」なんていいません(笑)。「感想文かかなきゃ観せてやんない」なんていう人もいません(笑)。

例えば芝居はたのしくて観るもんでしょう。「つまんなくて寝ちゃった」なんていうときにはその舞台が悪いんです、役者がいけないんですね。

科学の講演でもそうですよ。

寝てしまうような講演をする科学の先生がだめなんです。だって生徒は神様なんですから・・・お金を払ってくれる人でしょう。そういう人たちがたのしめるような実験を用意するわけです。

だから科学の話なんか始めから実験がつきものですよ。実験が一番面白いんだもんね。そうして実験を観て「おー、面白い」という人たちが増えてきたのです。そういう事がだんだんと広がって参ります。

そしてそういうたのしい科学の先生がいろんなところに現われてきた。馬車に実験器具を乗せた一流の先生たちです。

こちらの村に一週間、あちらの村に一週間、その向こうの村に一週間・・・。そうするとこちらの村の庄屋さんとあちらの村の庄屋さんはつながってますから、「オイオイこんどね、うちの村に面白い科学の話をしてくれる先生が馬車引きで来るんだよ。12人いたらやってくれるそうだから、おまえの村でもあつめてみないか? 面白いよ」っていうぐあいにだんだんと広まって行ったのです。

日本は男女差別は激しいけれど階級(かいきゅう)差別はあんまりありません。ヨーロッパっていうのは階級差別は激しいのだけれど男女差別は激しく無いのです。ですからそういう科学の講演会を聞きにいくのは旦那衆だけでは無くって貴婦人、レディーも来るわけですよ。そうするとレディーにもわかります、っていう話をしなきゃお客さん減っちゃうわけですから、そういうレディーにもたのしい話をする。

こういう形で科学の授業は広まっていったんです。

ところでレディーたち、女の人たちは、こういうたのしい話を聞くと、どう思うのでしょう?

「この話は面白い。うちの息子にも聞かせてあげたい。家の娘にも見せてあげたい」となるでしょう。

なかには有力な人もいますよ。「うちの息子が通っている○○カレッジで授業をしてください。一回でもいいですから、いや三時間だけでもいいですからやってください。子どもたちはたのしいとおもうだろうし、賢くなるから是非やってください」ってね。

その頃のヨーロッパの学校でも日本の漢文の塾のように「師のたまわく・・・」なんてことやってんです。

キケロとかプルタークとかをギリシャ語で読んだりラテン語で読んだりしていて、全然つまんないんですね。そういうところで科学の授業やったら、これはたのしいですね。

そのうちに「毎年必ずきて下さい」という事になって、「いや、一週間ぶっ通しでやって下さい」「いや、もうずーっとここに住み着いて下さい(笑)・・・」なんてことになるんです。

そうやって科学の授業は始まったんです。

これがたのしくないはずないでしょう。

試験をして「できない奴、はいダメ」なんてならないでしょう。

学校の科学の勉強が<テストをして、先生が監督して成り立ってる>というのは、「日本」の科学の伝統です。

日本は科学が立身出世の為に役立った。外国の文化を日本に持って来るわけですから、外国の科学、文化を全部勉強しなきゃならない・・・。だから歯を食いしばってでも勉強しなきゃならない。

「歯を食いしばって勉強した奴は給料たくさん出すよ」という話で、みんな歯を食いしばって勉強やっちゃったものだから、そういう習慣が身についてしまって「勉強というものはきびしいものなんだ」となっちゃったのです。

ヨーロッパはそうではない伝統がずーっとあった。「たのしいから」研究するという伝統がある。もちろん、芸術でもたのしいからやっているんです。

月給くれるからしかたなしにやっている人たちは、そうとう三流です。やっぱりちゃんとした人たちは、月給くれるからではなくて、たのしいから絵を描いているのです。そして周りには<たのしくなりたい>という人がたくさんいるもんだから、教えていこうというぐあいにやっているんです。

だから「より豊かに生きるため」勉強をしている。より豊かということはどういうことでしょうか?

「世界が観える」ということです。

「美」というものが観えるということです。

「真理」が観えるということです。

「未来」が観えるということです。

例えば<科学>というものが分かると、人々がみんな平等でなければいけないということがわかってきたり、社会正義というものが観えて来たり、そうすれば世の中がもっと分かってきて「さらにいい時代にしよう」となる。

社会についての科学が分かれば、ますますそういうことがわかる。そうすると、そういう事がわかってくればたのしいでしょう。

私どもの授業で例えば<べっこうアメ>の授業があります。

なめられるからたのしいのだけど、じゃあ、食べられるものは何でもたのしいかというと、そうじゃないんですよ。

べっこうアメというものは、ちょっと砂糖を熱してやると味が変わって固まって、不思議だなぁ、となる。

スライムというものがあります・・・べちゃべちゃして、私、気味わるくてしようがないんですけれど、そのスライムというものをつくらせると、みんなたのしみます。

新しい世界がなんか観えて来るからです。

ただ、食べられるからとかいうものではないんです。

食べられるからおもしろい、というのなら、べっこうアメをなめたことの無いような人がたのしいといいそうですよね。でもこれは、そうじゃないですね。学習院の子どもだって、うんとお金持ちの子どもだって、べっこうアメをつくってなめさせるとすごく喜ぶんです。

イヤ、学校で<塩>なめさせただけで、学習院の子どもだって喜ぶんですね(笑)。

なぜ学校で塩をなめさせただけでたのしいのか・・・学校は塩ですらなめてはいけないところだからね(大笑)。

「ろ紙を通った水は塩か、真水か」という問題で、実際になめさせてみると、子どもたちはとても喜ぶわけです。

学校というのはすごく体制的に考えているところがあります。私たちの授業書に「磁石を割ったらどうなるか」という問題があります。この授業をやると大変なんです・・・まあ最近はあまり聞かなくなりましたが・・・「先生、本当に磁石を割るの?」「校長先生にしかられない?」って子どもたちが言うんですよ。

「豆電球を割ったらどうなるか」という問題もあります。この時も大変だったんです・・・。

誰かに仕組まれて軌道に乗せられるのではなく、こういうふうに壊したりイロイロしながら、新しい世界が観える・・・世界が観えると、今まで観えなかった、気がつかなかったものが新しく役立つという世界が出て来るんです。

消費生活をするだけなら役立たないけれど、消費生活をちょっと越えて「新しい世界を開く」となると、これはちがってきます。

学校の理科の授業で例外的に唯一といっていいほど、みんながたのしいというのに「虫メガネでものを焼く」というのがあります。これ、きらいだという人はほとんどいないでしょう(笑)。いろいろなものを焼こうとする。

例えば私たちが開発致しました「光と虫めがね」という授業があります。
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以下しばらくは仮説実験授業の授業書「光と虫めがね」の内容が続きます。
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おわりに

結局「基礎学力とは何か」ということは、いろいろな解釈が存在して、よくわかりません。それは科学の対象ではありません。
私たちは「なにが基礎学力か」という論に振り回されるのではなく、「こういう授業で賢くなる」「こういう授業で新しい世界の開ける知識、原理を学ぶことができる」そういう研究をすすめています。
今、社会に求められている創造性も科学のたのしさを味わった人間が初めて発揮できると思っています。

ということで、本日のお話を終えさせていただきたいと思います。

以上

いかがだったでしょうか。
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