これは研究会向けのレポートとして以前から書かなくてはいけないと思っていた内容です。今まで何度か、そのタイトルについて語ったことがあるのですけど、早く読みたいという方たちがいるので、さわりを少し書いておきます。
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あまりそういうイメージはない、と言われるのですけど、わたしは随分長く空手を学んでいます。
琉球の伝統空手です。派手な見せ技はなく、地味ですがその地味さが好きです。
かれこれ40年以上で、段位は現在七段です。
三段くらいから道場を持つ人もいるので、この段位で教育者を続けている、というのは珍しいといえば珍しい部類です。
空手では組手といって実践の試合もありますが、自分一人で学ぶことができる「型」もあります。
そしてその「型」は100年ほどの歴史を持つ完成形です。
気に入りの型はいくつかありますが、例えば
「公相君(クーサンクー)」
「抜塞(バッサイ)」
「五十四歩(ゴジュッシホー)」
などの型の演舞をしていると
「なるほど、こういう斜めの受けから突きにもっていくのか」
「こういう形で懐に入って喉元へ技を入れられると自分でも避けられないな」
と毎回惚れ惚れします。
仮説実験授業はかれこれ30年学んできています。
理科の専科を長年担当していて、年度によって3〜6年生、4〜6年生などの違いはありますけど、どう少なくみても学年10種類以上の授業書を利用していましたから、一年間40種類を超す授業書をしていたと思います。
担任をしている時には減るかというと、教科が増えるので、それでも30種類くらいはやっていたと思います。
仮説実験授業の「授業書」は、空手の「型」の様な完成形です。
授業にかけるたびにほれぼれするくらいよくできていることを実感します。
この間の体験講座で授業した「にている親子・にてない親子」の授業書で、昆虫たちを眺めていったあと、「大根の赤ちゃんは、おとなと似ている形でしょうか?」という問いに流れていくところなど、そのダイナミックさに惚れ惚れします。
これまで仮説実験授業の授業書をいろいろアレンジして使う人たちをたくさんみてきました。
「空気と水」で、水そうの水を色付けして授業にかけたり、「自由電子が見えたなら」で、自分なりの解説をいろいろとくわえながら授業したりe.t.c.
驚いたことには、授業書の「お話」の部分を一つ一つ図を描いたり、別な言葉で説明したりして、自分の解説を加えている人もいました。
しかし、例えば空手の型に自分なりの受けを加えたり、あるいは、蹴りのひねりをアレンジしたものにするのは、試合でNGなだけでなく、長い歴史を経て完成された技の凄さを活かさない、ということにもなるのです。
わたしの仮説実験授業は
「何も足さない、そして何も引かない」授業です。
いくつになっても授業の修行に全力投球
たのしい教育研究所です