〈授業科学〉という言葉は一時期流行(はや)って今はあまり耳にしなくなりました。流行り廃(すた)りは教育界にもあります。〈流行る〉ということは一時的な現象です。「〈たのしい教育〉を流行にしない」ということは板倉聖宣から私が学んだ大切なことの一つです。〈たのしい教育〉は滔々(とうとう)とした太い水流にしなくてはいけません。
学生時代わたしが触れた「授業科学」という言葉は、結局得体(えたい)の知れないものでした。煙(けむ)にまく様なことを書いていて、読み返しても〈いわゆる授業とどう違うのか〉〈授業をどうすることが科学なのか〉ということが掴(つか)めなかったのです。わたしが教師となり、たのしい教育・仮説実験授業の実践家になって後、「結局、あの議論をしていた人たちも、自分自身で意味がわからずに、あるいはわかった様なふりをして話していた、あるいは本にしていたのだ」ということがわかりました。それは「〈授業科学〉というものが何か」ということを現象としても、実態としても、本質としても理解できる様になったからです。ということで、今回は授業科学について書かせていただきます。
新年早々〈お墓〉の話をするのも何ですが、今から25年ほど前、わたしは授業科学を共に学んでいる50名でお金を出し合ってお墓を建てました。いいかげんな気持ちではありません。そのお墓にはすでに私の名前も刻まれています。
お墓は新潟の湯之谷村(現 魚沼市)という場所にあって、生きているうちからそのお墓詣りに行くのがたのしみでならないほど、いい場所です。「尾瀬」も比較的近い場所で、ルート的に風光明媚な場所を通ることになるので尾瀬好きにとってもたまりません。地名からわかるとおもいますが、お米が美味しい、つまり水も美味しい処です。
みんなで建てたと書きましたが、50名分のお墓ですからけっこう立派です。
建設の構想段階から、みんなで「科学の碑」と呼ぶことにしました。
なんと今では〈記念館〉も建ち、観光名所の一つに掲げられることもあります。〈科学の森〉とも名付けられた散策地図も出来上がっていて、「わたしものちのちはこのお墓に入りたい」という人たちがたくさん出ているそうです。
〈科学の碑〉を設立した土地は仮説実験授業研究会の重鎮だった 故 細井心円さんが住職を務める東陽寺というお寺です。生前から何度も心円さんの元を訪ね〈授業科学〉についていろいろなことを教えていただきました。そして、科学の碑ができる以前から仮説実験授業研究会代表 板倉聖宣(月刊たのしい授業編集代表・科学史学会会長)も、この地で何度も講演をしています。
その中で〈授業科学とは何か〉ということに関するとてもわかりやすいお話もありました。授業科学という言葉は一言も使っていませんが、まさに〈授業科学〉そのものの答えの一つが出ています。その部分を編集して掲載しましょう。
こちらの「いいね」クリックで〈たのしい教育〉を広げませんか
➡︎いいねクリック=人気ブログ!=
いろいろな教育評論家がいろいろなことをいいますが、何しろ〈子どもがいい〉という方がいいのです。
指導主事が「いい授業だ」といった授業がいいんじゃないのです。ボクが「いい」というのがいいんじゃないのです。
指導主事が言ったりボクが言ったりして決まるんではない。
〈子どもがどっちがいいか〉というとで決まるのです。
どっちの授業で子どもが賢くなるかです。
それは〈実験〉すればすぐにわかります。「選択肢があるからいけない」といったりする人がいますが、選択肢があるから、みんな予想を立てる気がするんです。
指導主事だって善意の人だから「子どもに活躍させてやった方がいい」といいます。しかしその言葉は〈科学〉から来ているわけではないのです。〈善意〉から来ているんです。
〈善意〉と〈科学〉は違います。教師や指導主事や教育学者が「この方がよかれ」と善意で思えばよくなるわけではないのです。
子どもを大事にするといって「ハイ、今日は何を教えましょうか? みなさんは何をやりたいですか?」といってもダメです。子どもは何を勉強していいのかわからないから学校に来ているんです。
例えば、観光バスに乗るときに、その運転手が「お客さん、どちらに行きますか」なんて言ったら、観光バスに乗る意味はないですね。その土地を知っている人は観光バスに乗らなくてもいいわけで、自分でタクシーにでも乗ってそこいくことができます。先生はサービス業だから、生徒がたのしくなる、賢くなるような問題を持っていく。子どもが路線を引くのではないのです。
だから〈見かけ〉で考えてはいけない〈中身〉で考える必要があるのです。
抽象的に言えば「路線をしくのはいけない」というような雰囲気がありますが、教育というのは先生の教育的意図に従ってやるものですから、路線をしかなかったら成り立ちません。路線をしくことで子どもたちが「イヤだ」というのなら困るんですが、路線をしくことそのものがいけないということはないのです。
配慮しすぎて「スカートの丈は何cm」などということを決めてしまうからいけないんです。〈子どもたちが賢くなるようにするにはどうしたらいいか、楽しくなるためにはどうしたらいいか〉これは実験的に全部決まるんです。
「いろいろな子がいていい。しゃべる子もいていいし、しゃべらない子がいてもいい。理屈で考えるのもいいし、直感でいくのもいい」と思いますが、〈実験〉で決まったことはきちっとする必要があります。
板倉聖宣1987.9.19湯之谷村
科学は「予想を立てて実験する」ことによって成立します。誰かがいったからよいとか、昔からそう言われているからよい、という様なものは科学ではありません。
授業の良し悪しが実験で決まるものであってはじめて〈授業科学〉なのです。はじめに〈確かな予想〉があって、それをもとに〈授業〉として試みること、それが「実験」です。
もちろん「授業で実験を見せてあげる」という様なものが〈授業科学〉ではありません。この授業の流れで子ども達は〈分数のわり算〉がたのしく身につくだろう、ということを、たとえば〈たのしいと感じた子ども達、わかったと感じた子ども達が85パーセント以上でる〉という様に数字でも見えるようにすること。それだけに終わらず終末のテストでもクラスの平均点が平均90パーセントに至ること、たとえばそれが「実験」です。
沖縄は東京から離れた場所にありますが、そういう積み重ねの元に残されてきた授業プランや授業書は〈たのしい教育研究所〉の講座でいくらでも学ぶことができます。
新年早々、いろいろな方達がたのしい教育研究所に相談や問い合わせをしてくれています。今年もたのしく盛り上がっている、たのしい教育研究所です。