星野道夫の文章も写真も生き方も好きで、彼の作品を見かけたら全て買って研究所の本棚に収めています。チェックしたわけではありませんが、国内で出版されてものなら雑誌も含めて全て持っているはずです。海外でたまたま見つけた彼の本もありますから、しっかりしたボリュームです。
作品を持っているとはいえ、たのしい教育の広がりにともなって、それらを手にする時間はなくなってきました。
都会での仕事の時間調整で本屋さんに入ることがあって、星野さんの本を本屋さんの書棚から抜きとって読みはじめるという読書生活、〈本の居住地を持たない〉という意味でいえば正にホームレス的な本読み暮らしをしています。
星野道夫は既に他界し、彼の新しい文章が紡がれることはありません。雑誌などに特集されるものたちの中には、何度も引用されているフレーズが出て来ます。しかしそれも、読むたび身体にしみいってくるようです。
この文章はわたしが最も好きなエッセイ集「旅をする木 (文春文庫)」の中にある一節です。
ぼくたちが毎日を生きている同じ瞬間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。
日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは、天と地の差ほど大きい。
公立学校の教師を辞めて早6年目、仕事をしなかったという日は1日もありません。かなり先まで予定が入り、結婚式すら行くゆとりもない日々の中で、彼のその言葉は、いつもわたしの中に生きています。
彼が他界した翌年だったか、その次だったか、彼が暮らしたアラスカに旅立ったことがありました。
テントを背にデナリの山々を眺めながら歩く日々の中で、オオカミに出会い、クマに出会い、ムースに出会い、地リスたちに出会い、白頭鷲や渡り鳥たちを眺めながら日々を過ごしました。
日本に居ても、あの時に出逢えた世界はわたしの中に根を下ろしています。都会で珈琲を味わいながら “フー” と息を吐きながら、ベリーだらけのアラスカの大地に座って珈琲をたて、大空と山なみとをバックに味わった時の味を想い出すことができます。そのかわいた冷たい空気の肌ざわりもしっかりと想い出すことができます。
出逢ったのは若いクマで、もう彼・彼女もずいぶん大きくなって、きっと子どももいる頃だろう。
あの頃とてもおいしそうに頬張っていたベリーを、今もたっぷりと味わっていることだろう。
同じ地球という星の中で、彼らが悠久の時を生き続けていることが嬉しくてなりません。
夏休みも始まります。
まだ読んだことがない方は、星野道夫のエッセイ集「旅をする木」を手にしてみませんか。装丁が驚くほど地味なので見過ごしてしまうかもしれませんから注意して探してみてください。
写真集をという方は、縮小版ではなく、もと版の大きなサイズを手にしてください。わたしのおすすめは〈風のようなものがたり 小学館〉です。
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