「沖縄の子ども達は学力が低い」とか「沖縄の小学生の学力テ
ストの順位が昨年急上昇した」という言葉を耳にします。
あるいは「沖縄の子ども達の学力低下の原因は、親が夜型の生活をしているからだ」という様に、「学力」という言葉はいろいろなところで使われています。
たのしい教育研究所のサイトにはあえて
「活きた学力・生きた学力」
という様にしていますが、単に「学力」と言い換えてもよいと思っています。
言葉を添えたのは、「学力」という言葉を「テストの結果」という様に考える人がいるかもしれないと考えてのことです。
テストの結果・テストの得点は「学力」の一部を説明することではあっても、「学力」そのものを説明するものではありません。
いろいろな考え方があって当然だと思いますが、たのしい教育研究所は「学力」をこういう公式で表しています。
重要な知識・技能 × 意欲 = 学力
学力方程式 by たのしい教育研究所
たとえば、算数の図形の問題をテストで正確に解ける子がいる。
しかしその子は、図形のごちゃごちゃした計算が嫌いである。
そういう子どもは、何か自分の人生の中で起こる課題を、図形的な力を利用して解こうとするでしょうか?
はなはだ疑問です。
自らの人生を切り開く力となるものが「学力」であるはずです。
テストでは解ける、ということだけでは、まだ学力がついたとは判断できないのです。
個人的なことでも、その例を幾つもあげることができますが、その一つ。
わたしは子どもの頃、習字のコンクールで金賞とか銀賞とかをよくもらっていました。
わたしの先生の書道の指導は
「とにかくこう書け、こう払え、ここで1秒止めてから…」
の連続でした。
結果として賞状は増えていっても、わたしは、その書道の時間が苦痛で苦痛でなりません。
ですから悲しいことに、わたしは墨汁のフタを開けた時の、その匂いすら嫌いなまま成長していったのです。
そういうわけですから、何か大きな文字を書くというときにも、筆を持とうという気持ちは全く起こりません。逆に、書道をする場面に直面するのをいかに避けるか、ということが目標であったりします。
つまり「書道」はわたしにとって、何かの課題に立ち向かうための力になりませんでした。
「賞/ほうびを与えればそのうちに好きになる」と考える人もいますが、それは、一部の人たちに当てはまるもので、一般化して考えて良いものとは思えません。
わたしが教師を始めた頃
「できるようになれば、そのうちに好きになるんだ」
と語る教育関係の方達がとてもたくさんいました。
しかし、現実はどうでしょう?
国際的な科学力・数学力を測るテストで、日本はトップクラスです。
しかし、私たちの周りに「理科はかんべんしてほしい」という人たちがどれだけ多いことでしょう。
科学の魅力を伝える活動を展開していると、そういう人たちがとても多いことを肌身で感じます。
勉強してきたであろう教師仲間でさえ、理科嫌いが多いのです。
たとえば「NHKオンラインサイト」にこうあります。
勉強への自信のなさも突出しています。「数学に自信がある」という割合はわずかに2%にとどまり、タイと並んで世界で最も低くなっています。楽しくも、好きでもなく、自信もないのに成績はよいというのは不思議な感じがします。
http://www.nhk.or.jp/school-blog/500/141363.html
テストに書きなさい、といえば書けるけれど、それは嫌いなのだ、という子どもたちを育てることは、学力向上にならないのではないか?
逆に、「図形の問題が好きだ」という子どもたちを育てることが、学力向上につながるのではないか? その子は、もしかすると、今はまだテストの得点がふるわないかもしれない。しかしそのうちに上昇してくる可能性は高い。
そして、何か自分の前に出てきた課題を解こうとするとき、きっと図形処理の力をどんどん発揮してくれるのだと思います。
ですから「たのしい教育」は、ゆっくりとではあっても、学力を根底から上げていくことになるだと思っています。
沖縄県の学力の問題は、日本全体の学力の問題とつながっていると思います。
沖縄の子ども達が「算数が好き」「国語が好き」「理科が好き」そういうようになっていくことで、じわじわと、生きた学力・活きた学力がつき、それがいろいろな問題や課題を突破していく力となる。
もちろん、沖縄が抱えている問題、沖縄だけでなく世界が抱える問題を解く力のある人間も、そこから間違いなく育っていくのだと、そう考えています。
Kiraku記
沖縄県の学力向上に全力投球の「たのしい教育研究所」です。