算数・数学の見方・考え方

科学や数学、社会や国語など、いろいろな教科を学ぶのはなぜか?
豊かに生きていくためであったり、わくわくドキドキするたのしさがあるから、であったり、いろいろな答えがあると思います。
たのしい教育研究所では、その一つとして
「隠された姿、ものごとの本質を突き止めることができるから」という点を重視しています。

算数・数学は、その本質をつきとめる手順を機能的に提供してくれます。
たとえばこういう問題を考えてみてください。

もんだい
13歳で血液型A型の女の子が、お菓子を買いに行きました。
家には縦25cmと横40cmのキレイな箱があって、それはちょうど20の部屋に分けられているので、それにぴたりと収まる数のお菓子を買おうと思います。
お菓子屋さんに行くと、ちょうどよい大きさのケーキとクッキーが見つかりました。
身長147cmで、3000円のシャツを着たその女の子は、いろいろ考えた末、120円のケーキと70円のクッキーに決めました。女の子は、お祭りの時に500円で買った赤い小さめの財布を持っています。そしてその中には2000円入っています。ケーキとクッキーをそれぞれ何個ずつ買えばよいでしょうか。

 

この中で、問われていることの本質に迫るためには、どういう数字を扱えばよいのでしょうか?

文章の中には
13、25、40、20、147、3000、120、70、500、2000 と
いろいろな数があげられます。

その数字を全部利用するのでしょうか?

「本質をつきとめる」という意味で算数・数学を学んでいない人は、目の前に提示された数字を全部使ってしまうことがあります。
「ひきざん」の単元なら、提示された数字の大きいものから小さなものを引いてしまえばよい、「わり算」なら、大きい数字を小さな数字でわってしまえばよい、という形です。

私はよく、算数の教科書とは違う問題を出していたので、そう考えてしまうタイプの子がはっきりとわかります。その一つがたとえば、この問題です。
これだけ数字が出てくると、「問題の本質」を意識していないと解けません。

算数・数学では、どういう本質を明らかにしたいのかをハッキリさせて、それに至るために必要なデータを収集し、計算する、のです。

では一緒に解いてみましょう。
もう一度問題を載せます。

 

 もんだい
13 歳で血液型A型の女の子が、お菓子を買いに行きました。
家には縦 25 cmと横 40 cmのキレイな箱があって、それはちょうど 20 の部屋に分けられているので、それにぴたりと収まる数のお菓子を買おうと思います。
お菓子屋さんに行くと、ちょうどよい大きさのケーキとクッキーが見つかりました。
身長 147 cmで、3000 円のシャツを着たその女の子は、いろいろ考えた末、120 円のケーキと 70 円のクッキーに決めました。女の子は、お祭りの時に 500 円で買った赤い小さめの財布を持っています。そしてその中には 2000 円入っています。ケーキとクッキーをそれぞれ何個ずつ買えばよいでしょうか。

 

しつもん1 この問題では、何をどうしたいのでしょうか?
これだと思うあなたの考えをみつけて、上のもんだいに下線を引いてください。

 

お話
たくさんの数字が出てくるので、困った人もいると思います。
問題文には、13、25、40、20、147、3000、120、70、500、2000 という数字が並んでいますね。年齢から、箱の大きさ、身長やシャツの値段まで、いろいろあります。
問題をよく読むと、問題になっているのは、シャツの値段でも、年齢でもなく、
「ケーキとクッキーをそれぞれ何個買えばよいか」ということがわかります。
よくわからないという人は、問題文を何度も読んでみてください。

 

しつもん2
では「ケーキとクッキーをそれぞれ何個買えばよいか」をつきとめるために、どういう数字を問題にすればよいか考えてください。
上の問題にある数字の中から、必要な数字をみつけて、( )で囲いましょう。
いくつつけてもよいです。

 

お話
「ケーキとクッキーを何個買えばよいか」が問題になっていますから、それに必要な数字は何か、考えてみましょう。
まず、箱の部屋にぴったり合うように
・( 20 ) 個買う
ということですね。

それから、買うためにはお金を払う必要があります。
お店の人にお金を払う時に、財布の値段が高いのか安いのは問題ではなく、そこに入っているお金が問題となります。
財布に入っているお金は( 2000 )円だと書いてあります。

これでOKでしょうか?
買うためには、そのものの値段がわからないといけません。
シャツを買うわけでもサイフを買うわけでもないので、それらの値段は問題ではありません。
( 120 ) 円のケーキと( 70 ) 円のクッキーを買うことに決めたのですから、その数字が必要になります。

20、2000、120、70、この四つの数字だけでよいのです。

ここからは連立方程式で解いていくことになります。
方程式の解き方ができるできない、というよりも、ここに書いた見方・考え方がとても重要になります。

そろそろ、学び方コースが始まります。

算数の見方・考え方編はここまでにしておきます。

またお会いしましょう!

 

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議論の作法「代案を出してください」について|ものの見方・考え方入門

某年某月 ある団体から『会議の進め方』ということで話てほしいという要望があり、そこで語った内容です。

 提案する内容についての反論が出た時、会議の執行部やリーダー側が
「単に反対するのですなく、これが変だというのなら代案を出してください!」
「批判するなら対案をだしてください」
と反論する場面があります。

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「それはそうだ、批判には責任をもたなくてはいけないのだから」
「たしかにそう言いたくなる場面もあるな」
と感じる人たちもたくさんいると思います。

 あるいは議論が加熱してしまうと、ついつい過激な発言になり、まるでケンカのように、
「それらな対案を出せ」とか
「じゃあ、あなたがやってみなさい」という様な発言が交わされることもあります。

 そして大抵は、そう言われた側が黙ってしまうことが多いようです。

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 その議論の進め方について、少し考えてみましょう。

 私は授業のプロフェッショナルです。
 私の授業を受けた人、あるいは授業入門講座に参加した人たちから「その授業は変だ!」とか「おかしいぞ」という言葉を投げかけられたことはありませんが、もしもそう言われたらどうするか?

「この授業が変だというのなら代案を出してください」とか
「では代わりにあなたがやってみてください」とは一切言いません。
そう考えたこともありません。

わたしのカウンセリングが、もしもクライエントさんから批判されることがあった時、
「ではあなたがカウンセリングしてみなさい」
なんて言える訳がありません。

 わたしは映画が大好きです。
 週に1本は映画館に行くのが平均的なペースですし、ほぼ毎日DVD1本くらいは観ているので、普通の人に比べて、かなりの量の作品を観ています。
これだけ観ていると、途中で映画館を立ってしまう作品もありますし、途中で止めてしまうDVDがいくつもあります。

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 途中で飽きられて席を立つ観客に対して、それを作った映画監督が
「つまらないというなら自分で映画を作ってみなさい」
と言えるでしょうか?
 わたしはできた映画について批判することができますが、映画をつくることはおそらくできません。
 映画をつくることができない人間は、それを批判してはいけないのでしょうか?
 何かおかしくありませんか?
 そういう映画監督が、世の中に受け入れられていくことがあるでしょうか?

 画期的だという鳴り物入りで「炊飯器」を作った家電メーカーが、予想に反して、ほとんど売れなかった。
それを買ってくれないお客さんに
「じゃあ、あなたが炊飯器を作ってみせてください」
というでしょうか?
そんな議論は聞いたことがありません。
また、そういう論理の展開をすすめる企業が生き残っていくとは思えないのですが、どうでしょうか。

 なのに、私たちの議論の中で、「ではあなたが対案をだしなさい」という様な議論が交わされることが少なくありません。
 会議は別物なのでしょうか?

 身近な例で、クラスの会議の場面で考えてみましょう。

たとえば
「遠足に行く場所を決めよう」という議題で、提案役の執行部が、
「○○ビーチにいきましょう」
と提案したとします。
 クラスの大半がその提案に対して「この時期、ビーチは暑すぎるから勘弁してくれ」と答えた。
 すると執行部が「そんなに反対するなら対案をだしてください」と反論する。

 それはいいのではないか、と考える人もいるかもしれまれせん。

 しかしこうは考えられないでしょうか。
「みんなで議論しながら決めましょう」
という会議なら、執行部側の提案が却下されたにしても、会議をリードする側は
「じゃあキミたちがいいアイディアをだしてみなさいよ」
という様な議論をするのではなく、みんなの意見を丁寧に集約しながら、よりよい形で丁寧にすすめていく力を持ちたいものです。
 それが会議をすすめるものの役割であり、責任であるという見方はできないでしょうか。

 それから執行部やリーダーは、提案に対する反論が大きかった場合を想定して、対案を準備しておく、選択肢を準備しておく、という力が必要だと思います。
 場合によっては、時間を置いて再提案、ということであったり、クラスのアンケートで選択肢をだして全体の投票で決定する、という流れであったりするかもしれません。それが提案するものの役割ではないでしょうか。

 そして、間違いなく、そういうリーダーが増えていくことが、より成熟した社会をつくっていくことになると思うのですが、どうでしょうか。

 そうではなく、自分たちの意見に反対する人たちをどう抑え込もうかということに力を注ぐ人たちが増えていくことは、やはり民主的に成熟した世の中から遠い世界に進むのではないかと思います。

より豊かな、よりたのしい社会のために、実力ある人たちが育つことはとても重要なことだと思えてなりません。

 

より力のある人たちを育てる活動に
全力を注ぐ「たのしい教育研究所」です

哲学とは何か?|大切な事を自分の頭で考える

来月の講座を前に「古代ギリシャ」について学び直しています。
その中で、板倉聖宣が「原子論の誕生」の中で『哲学』をいきいきと定義した文章を読みました。
この本はすでに数回読んでいるのですけど、何度読んでも新しい発見があります。

原子論の歴史―誕生・勝利・追放

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 古代ギリシアの学者たちは、いろいろな経験事実をもとにして「万物の根源は何か」を考えました。その話を読んでみると、みな全くの想像で、そんなことをいくら考えても仕方がないようにも思えます。
 しかし必ずしもそうとはいえません。
 じつは、これ以前の人びとは、ふだん経験しない自然現象が起きると、それをみな「神様のしわざ」と考えて恐れるばかりだったのです。ところが、それらの学者たちは、自然現象を神様のしわざとは考えませんでした。
 どんな出来事でも、神様のせいにすると、それ以上の説明をしなくていいことになります。しかし、古代ギリシアには、どんな現象も人間に理解できるものと考えて、その原因をさぐろうとする人びとが現れはじめたのです。「〈自然や社会の現象〉のうち最も根源的な問題」を、やたらに神様のせいにしないで理解しようとする学問」のことを「哲学」といいます。
 そこで、上に名をあげたような学者たちのことを「哲学者」といいます。 哲学という学聞は、世界で最初に古代ギリシアで生まれたのです。

 じつは「科学」というのは、こういう「哲学」があってはじめて生まれることができたのです。だって、そうでしょう。「何でも裁神様のしわざ」とすることをやめてはじめて、自然現象の本当の姿や原因と結果を調ベることが始まるからです。

 「万物の根源は何か」というような問題は、確かめようもありませんが、もう少し具体的な問題なら、確かなことを知ることができるかもしれないのです。いや、哲学が生まれると間もなく、これまで「分かりっこない」と思われていたこども、次つぎと明らかにされるようになりました。
 大昔の人びとは、どこの人びとも、「雷や日食、月食などの恐ろしい自然現象はみな、神様が起こすものだ」と考えていました、しかし、そういう現象も「雲と雲がまさつして起きるのではないか」と考えられるようになりました。「日食や月食は、ふいに起きるので、これも神様が起こすものだ」と考えられていましたが、ターレスは「日食も規則的に起きる」ということを明らかにすることに成功しました。

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