普通は有料メルマガに書く様な内容なのですけど,今回は、ここに載せてみようと思います。
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パソコン遠隔操作ウィルス事件がまた騒がれ始めています。
これまで「片山という人物の逮捕は警察によるでっちあげだ、えん罪だ」と騒がれ続けましたが,最近になって,その人物が自供したというのです。
事件についてよく知らない方もいるかもしれませんので,時系列で簡単にまとめてみます。
① 2012年の夏、大阪市に脅迫メールが届き。その発信メールをたどって三人が逮捕され,彼らの全員だったか一部だったのかは「私がやりました」と犯行を認めます
②その後、そのメールは遠隔操作ウィルスに感染したパソコンを中継しただけで,別の人物がその三人のパソコンから発信したようにみせていたものだと判明します…その時点で警察の行き過ぎた取り調べがかなり問題となりました。だって,犯人でもない人物たちが犯人になって自供までさせられたわれですから
③警察は三人を釈放した後、片山という人物を逮捕します。しばらくすると,またもや警察の誤認逮捕だと騒がれます。いろいろな人達が警察を避難すると共に、続々と支援者が名乗りを上げ,片山が無罪かという様な様相を呈してきます
④ 今年2014年の3月に片山被告は保釈され,ますます警察を避難する声は力をましてきました。その中、片山被告の新たな証拠(携帯)が見つかり,片山被告が,「全て自分がやりました」と全面自供しました。数日前の出来事です
この事件は,科学的な見方や考え方の,とても重要な内容を含んでいると思います。
2.ものごとを正しく認識するために
私がウィルス操作がどうだこうだとか,パソコンの仕組みがどうだというのを詳しく知っているから書いてみたい,という事では全くありません。私が知っている事もここにあげた四点くらいです。
そういう事ではなく「ものごとを正しく認識するにはどうすればよいのか」という事,つまりそれは「科学的な見方・考え方とは何か」について,とても重要だと考えているです。
科学的な見方・考え方は、何も,薬や実験器具を目の前にしている時に必要なのではありません。
いや,逆に社会的なものを見る時にこそ,より重要になってくるのだと思うのです。
それは「予想」と「解釈」という話でもあります。
片山という人物が自供した後、web上で「やっぱりか…あやしいと思っていた」というコメントがたくさん出ています。
ちなみに「やっぱり(スペース)片山」検索すると2014.5.27現在で 3,870,000 件ヒットします。
それらを開くと、「やっぱりそうだった」「あの顔を見た時から怪しいと思っていた」というようなコメントがたくさん出て来ます。
実は私は「片山被告が犯人だろう」という予想を立て,それを近い仲間に語っていました。
「一度誤認逮捕した上に偽の自供まで引き出してしまった警察が,二度も誤認逮捕するとは思えない」という考えを元にしたからです。
たまたま私の予想が当たっただけという事もあるかもしれません。しかし,それは,かつてのオーム真理教事件の時,私がハッキリと間違った予想,つまり「サリン事件の解決をあせった警察が間違って宗教団体を逮捕してしまったのだ」を予想した事が影響していると思います。
3.〈はっきりこうだ〉と予想する事の重要さ
オーム事件の時には,私だけでなく、たくさんの人達も同じように考えていた事を覚えてします。著名人もたくさん名乗りを上げて警察を避難していました。
しかし,結果は裁判が明らかにしてくれたように,サリンをまいたのもオーム真理教の信者たち,でした。
つまり私の予想ははっきりと間違っていたのです。
その時に、私は自分の予想の間違いをハッキリと自覚しましたが,まわりの人達の多くは「やっぱりね、怪しいと思っていたよ」という論調が多数を占めました。今回の様に、あの姿形からして怪しい、という様な人々も多かったと覚えています。
賢くなるために決定的に重要な事は、科学の手法に則って「これはこうなのだろう」と,自分の中でハッキリと予想を立てるという事です。
片山という人物が「えん罪だ」と予想したなら、
「はっきりと自分はそう予想している」と認識する事です。
それが間違っていたら,そこで確実に賢くなります。
もちろんその予想が当たっていても賢くなれます。
ところが大抵の人達は、事実が明らかになる前にはっきりと自分はこうだと「予想を立てる」ことをせず、いろいろな物事がハッキリして後に「解釈」してしまいます。
例えばオームの事件の時の多くの人たちの反応の様に、「あ〜、やっぱりね」という形です。
物事がはっきりして後に解釈するのではなく,まず私たちのまわりにあふれる情報や事実を材料として「予想する事から出発する」のです。
そしてその後のカギを握る事実によってそれを確かめる、実験結果を出すのです。
4.「予想」から出発するという事
それは,私たちのまわりの事実や情報を無視して考えましょう、ということではありません。私たちのまわりに情報や事実があふれているのは当たり前です。今回の事件で言えば、片山被告が犯人ではないと思われる事実も情報もたくさんあふれています。逆に、片山被告が犯人だと思われる事実もたくさんあるのです。それを無視する事などできません。
私たちは,まわりの事実や情報から独立して全く独自に考える事などできないのですから,「事実を元に考えましょう」というのは,あまり意味のある事だとは言えません。
周りの情報の整理や解釈ではなく,まずそれらの中で自分が拠り所としたい情報や、見方・考え方を元にして「自分はこう考える」という様にハッキリと予想を立てる事が科学的な出発点だということです。
そして実は、それが真実に至る道なのです。
もちろん途中の、予想変更もありです。
まわりにあふれる事実・情報は,自分が立てた予想を確かめるための材料なのです。結果として、たくさん間違った予想を立てる事にもなるでしょう。しかし間違いなく、その過程の中で認識の仕方が研ぎすまされていきます。
逆に,そういう科学的な認識の仕方ではなく,例えば、今回の片山被告の自供という事実や情報から出発して「やはりそうなんだ。そうだと思ったよ」という事を繰り返しているうちは,なかなか自分で正しく物事を判断する事は難しいのです。
だって,出て来る情報を拠り所にしていたのでは,例えば、今後の裁判で片山被告が「実は、あれは酔った勢いで言った言葉で、実はわたしはやっていません」と言ったら、またその情報を元にして判断を変えなくてはいけなくなりますね。そういう事を繰り返していては,なかなか認識は深まらず、正しい答えに至るのは難しいのです。
今回の事件で,そういう事を考えています。
「たのしい教育」とは関係のないような事かもしれません。しかし「人間の認識の仕方」という事では,十分に関わるものだと思って載せてみました。
私は仮説実験授業を提唱した板倉聖宣から,この見方考え方を強く学びました。興味ある方は、ぜひ板倉聖宣の本を手にしていただければと思っています。
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