今週発行の〈たのしい教育メールマガジン〉からおとどけします。今回とても反響が大きかったのは発想法・哲学の章に書いた「死ぬということ」でした。たのしい教育を進める人もそうでない人も、生きることと同じ様に死ぬことから逃れることはできません。インパクトの大きな章になった様です、少し紹介しましょう。
はじめに
古くからの友人の大切な家族が亡くなったという連絡 を受けました。
友人の悲しみを想うと辛くなります。
命を閉じることはその人だけでなく、その周りの人たち にとっても大きな出来事です。
もちろん、たのしい教育を 目指していていても、そうでなくても誰一人、避けることができ ません。
今回は私が息子たちへ書いた「生きるということ死ぬということ」の一部を紹介させてください。読み物の授業 として全国いろいろなところで先生方が使ってくれている 教材です。
たのしい教育の発想法
いっきゅう
死ぬということ
(手紙半略略)
この手紙のはじめに書いたように「死ぬ」ということはそれはどういう人にとっても避けられないことです・・・それはすごく自然なことで、逆に「死なない」というのがおかしなことなんです。
一つ目の話で『あなたは自分の命を豊かに選んでいきていってください』という話をしました、人は幸せになるために生まれてきたのですから。
そしてその生の終わり、つまり死はあまりにとつぜんやってきたりします。「とつぜんだからいい」というカンジもあります。
相手が死んでいくことをどうにかして止められるものなら、それはがんばってみることもいいかもしれない。でも“無理やり”というのはダメだよ…ちゃんとその人の気持ちも大切にしてあげてください。ちなみに父さんは意識もなく病院でパイプに繋がれて、ただ生き続けるというのはノーテンキューです。大抵の場合、他の人の生死を医療を超えたところでどうにかする、というのは無理なことです。
たとえば以前、アラスカの地をテントをかついで一人旅していた時、実際にグリズリーに出会ったのだけど、そのときの父さんの命をあなたが防いだり守ったりできただろうか?
風向きが幸いしたのか、近くにいる父さんにグリズリーは気づかないままで、写真を数枚撮ることができたのだけど、逆向きの風で向こうが「おいしそうな奴がやってきた」と感じていたら、今頃こういう文章を書くことはできなかったでしょう。
相手が父さんの時だけではありません、あなたの周りの人たちは、それぞれいつ突然に生を終えるかもしれないのです。
そうなった時あなたは、死んでしまったその人のことを思い出しては悔やんで悲しんでばかりで生きていくのだろうか?
そういうことではいけないと父さんは思います。
そのために、つまりここからが大切なのだけど、大切な人だなと感じている人と『今、豊かにつきあっていく』必要があるんです。
あなたには大切な人は何人いますか?
数えてみてください。
(手紙後半略)
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