デカルトの哲学については学生時代に学んだ知識くらいなので心もとないところがあるけれど、デカルトが「あらゆる存在を疑い、幻想ではないかと否定することはできるけれど、それを考えている自分自身が今ここにあることはどうあがいても否定できない、だから自分がここに存在していることだけは確かである」という存在論を確立したのは、今でもいいセンスだと思っている。
けれど彼の〈神の存在証明〉については今も自己矛盾だと思っている、こんな証明。
デカルト
1. 人間は『不完全』な存在である。ゆえに、『不完全』な認識しか持たず『不完全なもの』しか知りえない
2. しかし、人間は『神』という概念を知っている。不完全な人間が、完全な存在である神を知っているのはおかしい
3. この矛盾を解決するには、人間は神から『神の存在』を何らかの方法で教えてもらったと考えるしかなく、ゆえに、神は存在する以上、神の存在証明終わり
自分の考えの中で組み立てた〈完全なる神〉は存在することになるというのなら〈完全なる悪・悪魔〉を想像したら、それも存在することになるし〈完全なる宇宙〉を想像したら、それも存在することになる。
デカルトB
1. 人間は『不完全』な存在である。ゆえに『不完全』な認識しか持たず『不完全なもの』しか知りえない
2. しかし、人間は『完璧なる悪魔』という概念を知っている。不完全な人間が、完全な存在である悪魔を知っているのはおかしい
3. この矛盾を解決するには、人間は悪魔から『悪魔の存在』を何らかの方法で教えてもらったと考えるしかなく、ゆえに、悪魔は存在する以上、悪魔の存在証明終わり
これは「あらゆるものを疑って疑い尽くしていったけれど、この疑っているという変なことをしている私という存在がここにあるというのは疑いようがないな」という帰納的な帰結とは向きが違って、どんどん〈完全なる○○〉が増えていくではないか、センスがないな。
その後、師の板倉聖宣に出会って「哲学や論理ではなく〈予想・実験〉によってのみ真理に至る」ということを感動的に学んで以来、論理だけで結論に至った様に主張する人たちには「それは一つの予想ですね」という見方をする様になったのだけど、その予想、考え方には〈おもしろい〉というものがいくつもあります。
PEALカウンセリングを提唱するあたりに〈これはいいセンスだ〉と感じたデカルトの言葉があって、それがタイトルの
困難は分割せよ!
です。
〈なんでこんなに不幸な人生なんだ〉とか〈私は勉強が苦手だ〉とか〈何をやってもうまくいかな〉という様な時に、まずその困難を分割して小さな部分にして考えていこうというのはPEALカウンセリングの基本前提です。
私たちの脳が漠然と結論付ける〈全体〉を細かく分割して考える、それは解決方法を探す時のルーティーンです、おすすめします。
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