「仮説実験授業の評価」/卒論で仮説実験授業をテーマに取り組んでいる大学生からの質問に答えて/おすすめ本「仮説実験授業のABC」

 某日、大学の卒業論文で仮説実験授業をテーマにしているAさんが、たのしい教育研究所を訪ねて来ました。「仮説実験授業の社会的評価」「今日的課題」「授業書と教科単元との関連」など、いろいろな質問をうけていました。

「仮説実験授業に対する評価のまとめ方」についてという質問にを受けた時の話。

 仮説実験授業を受けた子ども達の評価が最も基本的なものになるでしょう。
 もしも仮説実験授業を実施する先生達の側からの評価を取り上げたいという時には、熱心に取り組んでいる先生と、否定的な先生達のどちらをどの程度取り上げればよいか、というのはとても難しいことになります。
 熱心な先生たちは何しろ仮説実験授業が好きなのだから、「仮説実験授業はいい」という評価がいくらでも出て来るでしょう。逆に、仮説実験授業に否定的な先生達の側からは「はじめから否定したくて仮説実験授業を実施した」という立場の人もいるので、それらを評価の対象として良いのかどうかも含めて、「評価」というものはとても難しいのです。

 

 仮説実験授業だけに関わらず、たとえば〈薬が効く・効かない〉〈熱がよく伝わる・伝わりにくい〉という様なことまで、《実験》のみで判断するしかないのです。議論で判断しようとしたり、人数の多さで判断することはできません。それは長い科学の歴史の中から人類がやっと掴み取った真理です。

 仮説実験授業の問題もしかりです。
〈仮説実験授業によって授業が“たのしく”なったか〉
〈“ふりこの等時性”を確かに理解したか〉
〈仮説実験授業の授業書など使わず、“教科書”をそのまま実施した方が良かったのではないか〉
などについても、仮説実験授業を実施する・しないことによる《実験》によってのみ、比較判断できることなのです。

 初めて仮説実験授業を実施すると、子ども達から

「先生、他の授業もこんなふうにやってほしいです」

という評価・感想が出て来ることがあります。そしてそういう趣旨の評価・感想は稀なことではありません。

 かつて〈授業の神様〉と呼ばれ全国でも有名なある人物が仮説実験授業の授業参観をし、その後の授業研究会で
「子ども達が発する明らかに間違った意見や予想などに対して、教師はもっと正しい方向にリードすべきで、それが教師の大切な役割ではないか」
という趣旨の意見を出したことがありました。
 仮説実験授業を創った板倉聖宣は
「教師が、子ども達の意見や予想をリードしていくとどうなるのか、わたし達はすでにそのことに対して実験済みなのです。
 ぜひ今度、斎藤先生がこうあるべきだという流れの先生に来てもらい、私たちの流れで授業する先生と2クラスで平行授業してみて、子どもたちがそれをどう評価するか、また大切な科学的な原理を子どもたちがどれだけ自分のものとしたか、比較実験してみませんか」
 と答え、提案しました。それに対して授業の神様は黙してしまいました。

 そういうように、すでに歴史の中で滅び去っていった批判というものはいくつでもあるでしょう。今日的課題を出していく時に、そういった評価・批判の取り上げ方を正しくみていかなくては、時間の無駄になってしまうでしょう。

 そういったやりとりをしつつ、わたしからも質問。

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「それで、仮説実験授業のABCは何度くらい読みましたか?」

ピクンと動き、一呼吸経て後

「はい、2度ほど」
「それは少ないんじゃないのかな」
「はい、もっと読み込んできます」

 

 書籍「仮説実験授業のABC(仮説社)」には、仮説実験授業に関わる大抵の質問には答えられる様な内容が網羅されています。それらは初歩的なもの、というわけではなく、わたしの様に仮説実験授業を30年以上続けていた人間にとっても大切なことがたくさん含まれています。

 何度も改定されていますが、わたしが何度も読み込んで来たのは1984年改定《第3版》です。
 こういう状態ですから、乱暴に扱ったと思うかもしれませんけど、何百回というくらい開いて読んできたので、ずいぶん丁寧に扱っている方だと思います。

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 内容を書き抜いてみましょう。

仮説実験授業のABC 第四版 もくじ
はしがき
第1話仮説実験授業の授業運営法
「授業書」を使う
 援業書を読むことから授業がはじまる
 予想の選択肢
 予想分布を黒板上に集計
 理由の発表
 討論
 実験一その前に予想変更
 次の問題に
 読み物の役割
 カリキュラムは作らない
 まず一つの授業書だけやってみること
 感想文を書いてもらう(17)

第2話仮説実験授業の発想と理論
 仮説実験授業の原則的な考え方
 「授業」と「学習」
 「予想」と「仮説」
 授業の法則性の追求と「授業書」
 みんなの共有財産としての「授業書」
 仮説実験授業の骨組み
 教育の民主性と「Ox」式
 問題の意図を明確に
 頭のよさは着想の豊かさ
 まちがえ方の教育を
 成功・失敗の基準をきめておく
 近代科学の成立に学ぶ

第3話評価
 一なぜ,何を教育するかの原理論一
1誰が何を評価するのか
 目標があれば評価もある
 教師の目標・子どもの目標一目的職に合わせt二自己評価
2相対評価の根源と効用
 相対評価の根源一ホンネとクテマエ
 強引な相対評価批判の誤り一点数のたし算のできる根拠
 選択があれば競争がおこる一合理的な相対評価もある
 「できる」と思われたいから「できる」一優等生的学習意欲
3教育内容の改変を
「みんながやらなければならないこと」は何か
 実用的価値と哲学的価値
 知らなくてもよいが,知っていると楽しいこと
4絶対評価の基本
 合格と不合格の2段階一目漂がはっきりしていること-
 自分のすばらしさがわかる評価一できないことがわかってから教える
 学びたいものを学ぶ一テストされたいことをテストする
5いろいろな場面での評価
 評価は絶えず行なわれている
 感想文一おたがいに評価しあっている内容を知る
 孤立して孤立しない論理一自信をもって生きるために
 見えない心の動きを見る
 態度や探究心一大切だからこそ評価してはいけない

 

第4話 最近3年間における研究運動の成果
 一たのしい絵の授業や歴史の授業書など一
 仮説実験授業とは何であったのか
 松本キミ子方式の絵の授業の特長
 音楽と体育の授業のことなど
 歴史の授業書の成立
 自然科学関係授業書の新作・改訂
 その他の授業書作成運動の進行
 入門講座,サークル,合宿研究会,仮説会館など

 

第5話どんな授業書があるか
一授業書と実験器具・教材映画・参考文献の案内一
 授業書の作成は力学分野からはじまった
 統一カリキュラムは作らないのが原則
 検定教科書にヒントを求めるのも一便法
 授業書は途中をとばさないで用いること
 A.小学校低学年でもできる授業書
  足はなんぼん?
  背骨のある動勧たち
  にている親子・にてない親子
  空気と水
  かげと光
  砂鉄
  ベッコウあめづくり
  折り染め
  ちぢむプラパンその他
 B.自然界の多様性をとりあげた授業書
  磁石
  電池と回路
  虫めがね
  宇宙への道
  月と太陽と地球
  花と実
  30倍の世界
  お天気しらべ
  土と虫
  まかぬ種子は生えぬ
 C.物性(物質の一般的な性質,つまり原子・分子にもとづく性質)
  に関する授業書
  ものとその重さ
  空気の重さ
  水の表面
  温度と沸とう
  溶解
  結晶
  三態変化
  もしも原子が見えたなら
  いろいろな気体
  燃焼
 D.力学関係の授業書
  ばねと力
  磁石と力
  まさつ力と仕事量
  滑車と仕事量
  てことりんじく
  重心と物体のつりあい
  天びんとさおばかり
  重さと力
  浮力と密度
 E.物理学・化学・生物学・地学関係の授業書
  連さと時間と距離
  ふりこと振動
  力と運動
  慣性の法則と放物運動
  電流
  電流と磁石
  ものとその電気
  熱はどこにたくわえられるか
  電気を通すもの通さないもの
  金属原子の世界への招待
  錬金術入門
  動物の分類と進化
  植物の分類と進化
  地球
  ケプラーまでの天文学史
 F.公害・道徳・社会科学の授業書
  たべものとうんこ
  たべもの飲みもの同の色?
  ゴミドン
  洗剤を洗う
  生頬憐みの令
  禁酒法と民主主義
  日本歴史入門
  お金と社会
  自給率
  ゆうびん番号
 G.算数・数学・国語・外国語などの授業書
  つるかめ算
  量の分数
  かけざん
  広さと面積
  統計と法則
  漢字の素粒子と原子
  漢宇と漢和辞典
  よみ方
  英語のこそあど
 H.体操・迷信・美術・その他の授業書
  小久保式開脚跳び
  コックリさん
  あなたは裁判官、それとも科学者?
  ほんとかな,うそかな
  キミ子方式の絵
  たのレく学びつづけるために

 

自然科学関係授業書系統表

 

実験器具についての解説
 ばね
 フェライト磁石とRE磁石
 気球
 イリュ一ジョンとミラクルボウル
 カラースライド〈花と実〉
 分子槙型発光ダイオード
 水池
 原子の立体周期表

 

教材映画の紹介
 ものとその重さ
 空気の重さ
 溶解
 物質の融点
 物質の構造
 動きまわる粒
 力のおよぼしあい
 力のたし算
 磁石と力
 まさつ力
 機関車の引っぱる力
 滑車と仕事量
 浮力
 空気の圧力
 磁場一電流と磁石
 磁場の桓互作用

 

参考文献の紹介

 

トピックス論文・記事一覧

 

仮説実験授業研究会会則・趣旨説明

 

あとがき

 仮説実験授業のABCを読めば、仮説実験授業に関わることはおおよそわかる、といってよいでしょう。

 大学生のAくんと語りながら発見したことがありました。
 わたしがいつも手にする「仮説実験授業のABC 第3版」のあと、消えた一覧表があります。「仮説実験授業の自然科学関係授業書系統表」です。授業書がどんどん増えてきたので対応しきれなくなったのでしょう。

 今では手に入らない貴重な一覧表になります。
 Aくんだけでなく、仮説実験授業に興味関心のある方達が利用できるかもしれませんから、ここに載せておきましょう。

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沖縄県 教育  学力 笑顔をテーマに世界へ羽ばたくたのしい教育研究所です。

板倉聖宣(いたくらきよのぶ)略伝

板倉聖宣アーカイブスが人気です。
「これまで板倉聖宣の講演全体を読んだことはありませんでした。かなり前の講演とはいえ、とても興味深かったです」という趣旨のお便りがいくつも届いています。

板倉先生のことを知らないまま読んでも読み応えがあると思いますが、知っていると深みも増すと思います。これまでも何度か紹介してきましたが、アーカイブスを読んでくれた方達向けに、また少し紹介したいと思います。

板倉聖宣はとてもたくさんの画期的な仕事をしてきたので、略伝で一冊の本になるのではないかと思うほどですが、あえてその中からピックアップします。

板倉 聖宣 (いたくら きよのぶ)
1930年 東京の下町で職人の息子として誕生(9人きょうだいの6番目)
1958年 東京大学で科学史を専攻
1959年 国立教育研究所(現国立教育政策研究所)に勤務
1963年 アメリカのPSSC物理に触発され、科学教育を根本から改革する「仮説実験授業」を提唱。「仮説実験授業研究会」を組織し、会の代表をつとめる
1983年 月刊誌『たのしい授業 (仮説社)」を創刊、編集代表
1995年 国立教育研究所を定年退職し板倉研究所を設立
2013年 日本科学史学会の会長に就任

板倉先生は、科学の本の執筆数でも日本トップクラスの人物です。
絵本から一般向けの本まで、たのしくよくわかる作品にあふれています。

板倉聖宣 ぼくが歩くと月もあるく 編集代表を務める雑誌「月刊 たのしい授業」は教育関係の雑誌の中でトップクラスの売れ行きをしめしています。

わたし喜友名が教師になった頃とほぼ同時期に創刊されました。そして〈仮説実験授業〉や〈たのしい授業の哲学・発想〉をたくさん学ばせてもらった雑誌です。

月刊たのしい授業

大きな成果を数々生み出した板倉先生ですから、近寄りがたい、というイメージを持つ方もいますが、実はとてもフレンドリーな人物です。
この写真は2010年に沖縄で開催した仮説実験授業冬の大会で、私たちの質問にニコニコとした表情で答えてくれているところです。

板倉聖宣

これだけの人物が、わたし達の希望に答えて、沖縄に10回以上足を運んできてくれました。毎回、とても刺激的なお話を聞かせてくれました。その内容は今でもいろいろな方達に深い影響を与えることと思います。

読者の皆さんの反応をしばらく確かめて、出す価値が大きいと判断した段階で、また次の講演をアーカイブスに加えたいと思っています。ご期待ください。

たのしい教育が未来を創る
「たのしい教育研究所」です
 

 

板倉聖宣(仮説実験授業研究会代表)アーカイブス 沖縄ファースト講演「人生を豊かにするために たのしく学ぶ(5)」

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1989仮説実験授業研究会代表 板倉聖宣 沖縄ファースト講演
「人生を豊かにするために たのしく学ぶ(5)」
会場 沖縄市 レストラン サザンパレス
文責 たのしい教育研究所 喜友名 一

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本来の教育の原理

「より豊かに生きるために学ぶ」というのが、本来の教育の原理なんです。

例えば日本なんかでは「学校では実験をやらんからけしからん」「実験を入れろ」なんていっています。実験というものは昔はなかったけどだんだんいれてきたんだ、なんていう話があるんですけど、それは真っ赤なウソですね。科学の教育のもとは何かというと、17世紀、あるいは18世紀の頃のヨーロッパの先進国イギリスやフランスで科学を研究する人たちです。その科学の研究をする人は、月給をもらうためにイヤイヤ科学を勉強していたんではないんです・・・科学がたのしいからやったんです。
「おもしろいなぁー、星ってこういうふうになってたのか」
「色ってこういうものかぁー」
「光ってこういうものだったのか」
というぐあいに研究していったんです。

面白いから研究していると、ついついそばの人が、「ねえねえ先生、その話おもしろそうだろから聞かせてよ」

「実験して見せてよ」

ってなっていったんです。それはわかる感じがするでしょう。

そうやって、見せると喜ぶ人がいるっていうことがわかってきた。それいうふうにやってると貧乏な人も科学を研究するという事がでてきます。科学者たちは望遠鏡(ぼうえんきょう)を作ったり、プリズム買ったりするのにいろいろお金がかかるでしょう。これ、もとを取りたいとおもうでしょう。

それで「お金くれれば望遠鏡みせてあげますよ」ってなった。そうするとお金持ちがね、
「望遠鏡のぞかせてよ・・・土星に輪があるそうだね、それ見せてよ」
ってやって来ることもある。

そうやっていろいろみせてあげる。そういうのってたのしいでしょう。そういうものを見たいという人がいて、見せたいという人がいて、それで科学の教育が始まったんです。

「一人一人やったらめんどうだから12人、一ダースあつまったら教えましょう」という人が出る。

一人でもいいですよ、12人分の授業料払ってくれたらやりますよっていう人たちなども現れてきたのです。

そうやってそういう人たちがだんだんと、いなかのお金持ちなどのところで科学の講演をするわけです。講演ったって「オイ、ちゃんと聞いてたか。試験するぞ」なんていいません(笑)。「感想文かかなきゃ観せてやんない」なんていう人もいません(笑)。

例えば芝居はたのしくて観るもんでしょう。「つまんなくて寝ちゃった」なんていうときにはその舞台が悪いんです、役者がいけないんですね。

科学の講演でもそうですよ。

寝てしまうような講演をする科学の先生がだめなんです。だって生徒は神様なんですから・・・お金を払ってくれる人でしょう。そういう人たちがたのしめるような実験を用意するわけです。

だから科学の話なんか始めから実験がつきものですよ。実験が一番面白いんだもんね。そうして実験を観て「おー、面白い」という人たちが増えてきたのです。そういう事がだんだんと広がって参ります。

そしてそういうたのしい科学の先生がいろんなところに現われてきた。馬車に実験器具を乗せた一流の先生たちです。

こちらの村に一週間、あちらの村に一週間、その向こうの村に一週間・・・。そうするとこちらの村の庄屋さんとあちらの村の庄屋さんはつながってますから、「オイオイこんどね、うちの村に面白い科学の話をしてくれる先生が馬車引きで来るんだよ。12人いたらやってくれるそうだから、おまえの村でもあつめてみないか? 面白いよ」っていうぐあいにだんだんと広まって行ったのです。

日本は男女差別は激しいけれど階級(かいきゅう)差別はあんまりありません。ヨーロッパっていうのは階級差別は激しいのだけれど男女差別は激しく無いのです。ですからそういう科学の講演会を聞きにいくのは旦那衆だけでは無くって貴婦人、レディーも来るわけですよ。そうするとレディーにもわかります、っていう話をしなきゃお客さん減っちゃうわけですから、そういうレディーにもたのしい話をする。

こういう形で科学の授業は広まっていったんです。

ところでレディーたち、女の人たちは、こういうたのしい話を聞くと、どう思うのでしょう?

「この話は面白い。うちの息子にも聞かせてあげたい。家の娘にも見せてあげたい」となるでしょう。

なかには有力な人もいますよ。「うちの息子が通っている○○カレッジで授業をしてください。一回でもいいですから、いや三時間だけでもいいですからやってください。子どもたちはたのしいとおもうだろうし、賢くなるから是非やってください」ってね。

その頃のヨーロッパの学校でも日本の漢文の塾のように「師のたまわく・・・」なんてことやってんです。

キケロとかプルタークとかをギリシャ語で読んだりラテン語で読んだりしていて、全然つまんないんですね。そういうところで科学の授業やったら、これはたのしいですね。

そのうちに「毎年必ずきて下さい」という事になって、「いや、一週間ぶっ通しでやって下さい」「いや、もうずーっとここに住み着いて下さい(笑)・・・」なんてことになるんです。

そうやって科学の授業は始まったんです。

これがたのしくないはずないでしょう。

試験をして「できない奴、はいダメ」なんてならないでしょう。

学校の科学の勉強が<テストをして、先生が監督して成り立ってる>というのは、「日本」の科学の伝統です。

日本は科学が立身出世の為に役立った。外国の文化を日本に持って来るわけですから、外国の科学、文化を全部勉強しなきゃならない・・・。だから歯を食いしばってでも勉強しなきゃならない。

「歯を食いしばって勉強した奴は給料たくさん出すよ」という話で、みんな歯を食いしばって勉強やっちゃったものだから、そういう習慣が身についてしまって「勉強というものはきびしいものなんだ」となっちゃったのです。

ヨーロッパはそうではない伝統がずーっとあった。「たのしいから」研究するという伝統がある。もちろん、芸術でもたのしいからやっているんです。

月給くれるからしかたなしにやっている人たちは、そうとう三流です。やっぱりちゃんとした人たちは、月給くれるからではなくて、たのしいから絵を描いているのです。そして周りには<たのしくなりたい>という人がたくさんいるもんだから、教えていこうというぐあいにやっているんです。

だから「より豊かに生きるため」勉強をしている。より豊かということはどういうことでしょうか?

「世界が観える」ということです。

「美」というものが観えるということです。

「真理」が観えるということです。

「未来」が観えるということです。

例えば<科学>というものが分かると、人々がみんな平等でなければいけないということがわかってきたり、社会正義というものが観えて来たり、そうすれば世の中がもっと分かってきて「さらにいい時代にしよう」となる。

社会についての科学が分かれば、ますますそういうことがわかる。そうすると、そういう事がわかってくればたのしいでしょう。

私どもの授業で例えば<べっこうアメ>の授業があります。

なめられるからたのしいのだけど、じゃあ、食べられるものは何でもたのしいかというと、そうじゃないんですよ。

べっこうアメというものは、ちょっと砂糖を熱してやると味が変わって固まって、不思議だなぁ、となる。

スライムというものがあります・・・べちゃべちゃして、私、気味わるくてしようがないんですけれど、そのスライムというものをつくらせると、みんなたのしみます。

新しい世界がなんか観えて来るからです。

ただ、食べられるからとかいうものではないんです。

食べられるからおもしろい、というのなら、べっこうアメをなめたことの無いような人がたのしいといいそうですよね。でもこれは、そうじゃないですね。学習院の子どもだって、うんとお金持ちの子どもだって、べっこうアメをつくってなめさせるとすごく喜ぶんです。

イヤ、学校で<塩>なめさせただけで、学習院の子どもだって喜ぶんですね(笑)。

なぜ学校で塩をなめさせただけでたのしいのか・・・学校は塩ですらなめてはいけないところだからね(大笑)。

「ろ紙を通った水は塩か、真水か」という問題で、実際になめさせてみると、子どもたちはとても喜ぶわけです。

学校というのはすごく体制的に考えているところがあります。私たちの授業書に「磁石を割ったらどうなるか」という問題があります。この授業をやると大変なんです・・・まあ最近はあまり聞かなくなりましたが・・・「先生、本当に磁石を割るの?」「校長先生にしかられない?」って子どもたちが言うんですよ。

「豆電球を割ったらどうなるか」という問題もあります。この時も大変だったんです・・・。

誰かに仕組まれて軌道に乗せられるのではなく、こういうふうに壊したりイロイロしながら、新しい世界が観える・・・世界が観えると、今まで観えなかった、気がつかなかったものが新しく役立つという世界が出て来るんです。

消費生活をするだけなら役立たないけれど、消費生活をちょっと越えて「新しい世界を開く」となると、これはちがってきます。

学校の理科の授業で例外的に唯一といっていいほど、みんながたのしいというのに「虫メガネでものを焼く」というのがあります。これ、きらいだという人はほとんどいないでしょう(笑)。いろいろなものを焼こうとする。

例えば私たちが開発致しました「光と虫めがね」という授業があります。
・・・・

以下しばらくは仮説実験授業の授業書「光と虫めがね」の内容が続きます。
興味のある方は、こちら➡︎ 光と虫めがね (授業書研究双書)

 

おわりに

結局「基礎学力とは何か」ということは、いろいろな解釈が存在して、よくわかりません。それは科学の対象ではありません。
私たちは「なにが基礎学力か」という論に振り回されるのではなく、「こういう授業で賢くなる」「こういう授業で新しい世界の開ける知識、原理を学ぶことができる」そういう研究をすすめています。
今、社会に求められている創造性も科学のたのしさを味わった人間が初めて発揮できると思っています。

ということで、本日のお話を終えさせていただきたいと思います。

以上

いかがだったでしょうか。
たっぷり1時間半の内容を5回に分けてお届けいたしました。
たのしい教育メールマガジンには毎週、板倉聖宣の発想を中心とした、どっしりとした内容が入っています。興味を持ってくださった方は、ぜひお申し込みください。
➡︎こちら          きゆな筆

板倉聖宣(仮説実験授業研究会代表)アーカイブス 沖縄ファースト講演「人生を豊かにするために たのしく学ぶ(4)」

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1989仮説実験授業研究会代表 板倉聖宣 沖縄ファースト講演
「人生を豊かにするために たのしく学ぶ(4)」
会場 沖縄市 レストラン サザンパレス
文責 たのしい教育研究所 喜友名 一

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役立たない知識を出世のために学ぶ

それ以上になると何をやっているのかというと、一つは「出世のためです」。

例えば東大法学部を出て大蔵官僚(おおくらかんりょう)になる。主計官(しゅけいかん)あるいは税務所長(ぜいむしょちょう)になる。

国会予算を審査(しんさ)するなんていうとどういうことになるか。ある主計官は遺伝子(いでんし)研究費を審査したりコンピュータの予算を審査したりなんかするものだから、もうこれは、まんべんなく知ってなきゃならない。ですから、大蔵省の役人はまんべんなくしってなきゃならないのです。とすると、東大法学部ではまんべんなくしってなきゃならない、そういう事です。出世するためにはまんべんなく知ってなきゃならない人がいるんです。

不思議に思うかもしれませんが、日本の教育っていうのは、だいたいが東大法学部を見本としているところがあります。東大法学部をみんなが目指すという事を考えてできているところがあります。「あらゆることを薄く、浅く知っている」ということです。そんなに浅いわけではありませんが、そんなに深くでもありません。それがモデルです。

だけど東大法学部に入る人間なんて毎年何百人かでしょう。京大法学部もなんとか法学部もいれてもそんなにたくさんいるわけじゃないですね。

昔は義務教育は小学校三年生か四年生まででした。ですから<読み書きそろばん>で卒業できた。

それでもその時、つまり明治のはじめの時代の小学校三年生か四年生の教科書を皆さんに見せたら、きっとびっくりしますよ。なにせ小学校三年生、四年生で卒業して社会に出るわけですから、ほんとうにびっくりするような内容がある。何が必要になるかというと例えば<役場に届け出る書類を読み書きできる能力>を扱うのです。

結婚したときの「婚姻証明書」を書いて提出する学力がある。家族が死亡したときの「死亡通知」を書いて届け出る能力があるのです。

「私の実父、どこのだれ邊ベエは、何月何日、どのような理由により死去いたしました。ここにおいてご通知いたします」というようなものを書いた教科書があって、それをまねして自分で書けるようになるわけです。小学校三年生か四年生でですよ。

みなさんが、もしそれを見たら、おそらく読むことが出来ないとおもいます。それを小学校三年か四年でやるわけですね。官制教育だから、どうしてもそういう事を考えてやっている。すごく役立つ事を、明治の始めには実感をこめてやっていた。

今はそういうことはなくなっちゃたですね。

私、あきれたんですけれど、大学の頃、買ったばかりの自転車を盗まれまして警察署にいったんです。そしたら警察署の人が何といったかというと「そういうことなら代書屋へいって書いてもらいなさい」というのです。めんどうくさいですね、向こうは。それから代書屋を儲(もう)けさせたいんのでしょう。

私は「何でだよ、それくらいの学力は俺有るよ」って思うわけです。それで「俺が書く」って言ったんです。そしたら「その書式が無い」っていうわけです(笑)。で、また「代書屋へいけ」っていうわけです。それで押し問答になりましてね・・・まぁ結局、自分で書いて出したんですけれども(笑)。

つまり今やそういう事は、みんな便利になってしまいまして、昔は小学校三年生か四年生かでやっていたようなことも、お金さえだせば自分でやらなくたっていいようになっている。

人生を豊かに生きるために学ぶ

もう一つの理由は何か、それは出世とかなんとかではなく、「人生をより豊かに生きるために学ぶ」という事です。

「より豊かに生きる」ためにはいろんなことがありますよね・・・例えば音楽がたのしめるといい、絵がたのしめるといい、科学がたのしめるといい、文学がたのしめるといい。いろんなたのしみ方が出来れば豊かですね。

私は自然科学の教育がもともと専門ですから「科学が分かってより豊かに生きるためにはどうしたらいいか」という事を考えるのです。

今のような教育をつづければいいのか・・・おそらくダメですね。

大体「科学なんていう本はこんりんざい見たくない!」という思いを固く決意させるために学校教育はあるような感じがしています(会場大笑)。

もしも勉強しなかったなら、何にも教えてくれなかったなら「もしかするとオレ科学の才能があるかもしれないぞ」と思ったかも知れないのに、小学校、中学校、高等学校、人によっては大学までとことん、そういう事を教えてくれたばっかりに、「こんりんざい科学の勉強はしたくない」ということを決意してしまう・・・

こういうことは科学ぐらいだと思っていたんですが、ある時、国立音楽大学の先生にあって話をすると、入学して来る学生のほとんど一人残らず音楽が嫌いだというんです。「えー」っと思いましたね。音楽の世界くらいは、好きだからはいってくると思っていたんです。科学は嫌いでも勉強させられちゃうけど、音楽は基本教科にもなっていないから、そういじめられないだろうと思っていたんですけれど、そうじゃないんだそうです。

音楽大学に入ってきた子どもたちは、高等学校の頃どういう様子かというと「いろんな勉強しているんだけど自分で何をやっていいのか分からない」という人が多いのだそうです。

自分は子どもの時から親にいじめられて音楽をさせられた・・・音楽は大嫌いで、親に反抗して、イヤだイヤだと思いながらやっていたんだけど、自分には<他の人よりできるもの>というものは音楽しかない。だから音楽学部に入った、というんです。

その国立の先生がいうには「例外的な者が一人いたよ」っていうんですね。この人は、他の事を勉強していたんだけども、高等学校の二年生の頃に「音楽が面白い」って気がついたというんです。高等学校の二年の頃ですから、もちろんピアノは引けないし、他の楽器も駄目だし、だけども「音楽がやりたい」っていうわけですよ。あわてて高等学校の二年からピアノの練習やったらしい。本人はたのしいんですね。たのしいんだけど能力はないんです(笑)。この人が何とかがんばって、一年浪人してはいってきたらしいんです。「これはめずらしい男だ」というわけで、ぼくにはなしてくれたわけです。

こういう人は、子どもたちに「音楽のたのしさを教えよう」という発想になるんです。はじめからたのしいんだとして受け入れてきたわけですから、たのしく教えようというわけです。

ところが普通の音楽大学の卒業生は「音楽はたのしくないものだ」「あれはたのしくなくてもやって、なんだか反抗しているうちにも身に付いていっちゃうものなんだ(会場大笑い)」と考える。だからそうやって、自分たちの教え子にも教えようとなる。これは大変なことです。

「先生が悪い」っていう話があるんですけど、しかし先生の監督っていうのは不十分ですから、まだいいんです。「音楽」の監督は家庭でお母さんがやっているんですから、これはきびしいんですね。本当に、とことこ嫌いになるまでやるわけですから(会場大笑)。

つづく