板倉聖宣(仮説実験授業研究会代表)アーカイブス 沖縄ファースト講演「人生を豊かにするために たのしく学ぶ(1)」

 これから数回に分けて、仮説実験授業研究会代表板倉聖宣先生がはじめて沖縄に来てくださった時の講演をお届けします。沖縄で仮説実験授業のサークルを設立した伊良波さんとわたし二人で、企画運営した初めての講演で、思い出深い内容です。会場は沖縄市にあるレストランを貸しきって利用しました。参加費がいくらだったのか、どうやって宣伝活動をしたのか、25年位前のことなので記憶が定かではありませんが、その時に板倉先生が語ってくれたことは今でもかなりの部分覚えています。
 この文章は講演直後にわたし、喜友名が文字起こしして、仮説実験授業の研究会の皆さんや、たのしい教育に興味関心を持っている方達へ配布しましたので、関係する方達の目には触れていると思います。また、たのしい教育メールマガジンを購読してくださっている方達は、さそこに毎回というほど講演記録を掲載していますので、似たような発想に触れていると思います。
 しかし、この公式サイトで板倉聖宣の発想法などを断片的にしか触れていない方達へは、きっと貴重なアーカイブ(重要文書資料)になると思います。
 内容に関する記述についての責任はすべて私きゆな(いっきゅう)にあります。
この内容を読んだり、サイトそのものを紹介してくださるのは歓迎いたしますが、この内容を印刷・配布することはご遠慮ください。

たのしい教育研究所 喜友名

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1989 仮説実験授業研究会代表 板倉聖宣 沖縄ファースト講演
「人生を豊かにするために たのしく学ぶ(1)」
会場 沖縄市 レストラン サザンパレス
文責 たのしい教育研究所 喜友名 一

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勉強することは良いことか

 板倉でございます。

 私は、25年前に仮説実験授業を提唱いたしまして、つまり今年度は仮説実験授業が始まってちょうど25周年です。

以来、これまでほとんど全ての都道府県で仮説実験授業について話す機会がありました。しかし沖縄だけは25年間、大事にしまってありまして(笑)・・・今回初めてであります。

今回こちら沖縄で仮説実験授業というものについてお話させていただくと、私、日本の全ての都道府県でそういう話をしたことになります。

本日は沖縄仮説サークルの方たちから「基礎学力とたのしい授業」というテーマで話してもらいたい、というお話でございました。きっと沖縄でも「基礎学力」が大きなテーマになっているのでしょう。

私は、仮説実験授業というものを25年前に提唱したあと、その幅を広げた形で「たのしい授業」という雑誌をだしております。その中の私の論文をまとめたものが「たのしい授業の思想」という本の形でまとめられております。興味のある方は、ぜひ手にしていただけたらと思っております。

へたにやると「たのしい授業」は「ただ遊んでいる授業」と理解されがちであります。けれどそうではなくて〈本格的な科学を本格的に教える〉すると〈たのしい授業〉になります。そういう授業がかなり軌道にのったもので、かなり自信を持ちました。

つまり「仮説実験授業」という授業が確かな成果をあげ、これで「たのしい授業」が実現できるということがわかって、そういった〈ものの考え方〉をほとんど全ての教科に広げようということで「たのしい授業」ということを広げることとしたのです。

実は当初、「たのしい授業」という雑誌を出すとどういう反応が返って来るのかという事で、かなりの心配をいたしました。

その一つは「授業がたのしい」つまり「たのしい授業」というのは良いにきまっている。そういう「いいにきまっているのを表題に出すというのはなんだかへんだなぁ」というものでした。

もう一つは「授業なんて元来たのしいものではない、厳しいものなんだ。授業にたのしさなんかもとめたら、授業は成り立たなくなってしまう。それは子どもたちの考え方を誤らせてしまう危険な思想である」という反対意見でした。

  = 板書 =
「たのしい授業」
・あたりまえだ
・そんなでたらめなものはない

こういう2つの考え方があったわけです。

今でこそ「たのしさ」というのはかなり流行しております。しかし、私たちが「たのしい授業」という雑誌を出したころは、それはでたらめだ、けしからんという考え方が一般的でありました。最近の子どもたちは授業にたのしさなんて求めるからおかしくなるんだ、というわけです。

その頃、一般に教育の講演会やら研究会で普通に言われていたのは

= 板書 =
わかる授業・たのしい学校

という事でした。

これには文部省も日教組もめずらしく歩調を合わせて主張していたものです(笑)。

「授業はわかるようにしなければならない。分かる授業をしなければ学校がたのしくならない」というのです。

学校というのはなにしろ友たちがいる、休み時間がある、遠足もある、給食もある。最近は給食がたのしくないという人もいる様ですけど、つまり「学校という所はたのしくなりうるけれど、授業というものはたのしくなるなんて事はありえない」こういうことです。

ですから、日教組も文部省も「授業をたのしく」ということではなくて、こぞって「授業を分かりやすくしよう」「分かる授業をしよう」ということでありました。

私たちはこういう状況を承知の上で「たのしい授業」という雑誌をだしたのです。

なぜ「たのしい授業」か。

わかってもたのしくない知識があります。
わからなくってもたのしい知識がございます。
わかんないしたのしくないという事もあります。

  = 板書 =
<たのしく>て<分かる>
<たのしく>て<分からない>
<退屈>で<分かる>
<退屈>で<分からない>

普通の人は<たのしく>て<分かる>が一番で、<退屈>で<分からない>が一番悪いと考えます…しかし私はそう考えません。

<退屈>で<分からない>ものなら私はがまんできる。しかし「退屈でイヤなのに分かる」というのはがまんがならないのです。

例えばどういうことか。

「戦争に行って弾丸を打つ、敵に当てたくないのに当たっちゃう。そういう身に付けたくない能力、人殺しをする能力がついてしまう」ということです。「そういうことは勉強したくないのに、そういういろんな能力がついてしまう」ということです。

戦争なんて特殊(とくしゅ)な例をださなくっても、私自身の例で言えば、子どもの時から、勉強することがそんなに良いことだとは思えないという事がありました。

みなさんはどうなんでしょうか。勉強っていうのは、すればするほどいいにきまっているものでしょうか?

学力はあればあるほどいいにきまっているものでしょうか?

わかれば、わかんないのよりいいにきまっているものでしょうか?

「いいに決まっている」という人はそうとう幸せな人じゃないかと思います。


勉強することは悪いことではないか、という問い

私は小学校の高学年の頃から「勉強がいいに決まっている」とは思いづらかった。「どうも勉強することは悪いことではないか」という事を密かに思っておりました。でもそれは「密かに」であって、あまり公言はできません。

そういう事を考えておりますと、例えば、江戸時代の有名な剣豪(けんごう)、宮本武蔵の友だちというか先生の沢庵(たくあん)和尚、彼はわりあい教育論をやっておりまして、「学問は悪恵を生ずる」と言っています。つまり「学問は悪い知恵を生ずる」「学問をすると人間性が悪くなる」という事をかなり強く言っているのです。

「ああ私と似た考え方のお坊さんがいたんだなぁ」と思ったりいたしたんですが、おそらくは多くの人がどこかで、勉強する事は、ある場合は〈すごくいい〉んだけれど、ある場合は〈悪い〉というふうに思わざるを得ないことがあるんではないかと思うんですけれど、どうでしょうか。

私は最近の若い人たちと違って、9人きょうだいの6番目として生まれました。9人きょうだいで真ん中よりちょっと下です。兄さんというのは年が離れていますので気にならないのですが、姉さんがたいへん口うるさい。

たいへん教育的であったのかも知れませんが、弟である私を仕込んでやろうという感じがあって、わたしにはたいへん意地悪に思えた。なにか間違えると笑うわけです。「こんな事も知らない、あんな事も知らない」と。

一番ハッキリ覚えているのは、私、子どもの頃から鼻が悪くって、今でもかなり悪いのですが、「耳鼻咽喉科」というものがありますね。中学二年の頃に姉に「〈みみはなのどか〉という医者ががあったよ」といったら大笑いされました。それは「じびいんこうか」と読むんだと知らされてしまったのですが、それ以来私はそれを「じびいんこうか」と読むことさえ拒否してしまいました。

「耳鼻咽喉科」と書いて「じびいんこうか」と読めなければ笑うわけですね。そう読める人間が、読めない人間を笑うわけです。

しかし私は、そうは読めなかったから、誰かが間違って「みみはなのどか」といっても笑わない。それが間違っていることに気がつかないんですから(笑)。

しかし考えてみると、「じびいんこうか」というのでは意味がよくわからないのだけど、「みみはなのどか」ならわかりますよね。

勉強するという事は、その知識を知らない人を笑う人間を作ってしまうのではないか。他人を笑う能力を身に付けさせてしまうのではないか。私は知識が無かったから、それを笑えないのだけど、おそらく知ってしまったら、他人を笑う能力を身に付けてしまうのではないか。たいへんいやらしい人間になってしまう気がしたのです。

私も姉と同じいやらしい人間になってしまう、私はそういういやらしい人間になりたくない。誰かが何かを知らないといっていじめる人間になりたくない。そういう人間にならないためには、そういう学力をみにつけないことだ。より清く正しく生きるためには、学力が無いことが大事だ。私はかなり本気で小学校高学年から中学校の時代、そう考えておりました。

私はその後、教育学に関する議論を大なり小なりするようになったものですから、こんなふうにきれいに整理することができるのですが、あの頃は「こんちくしょう」というモヤモヤとした思いだったのです。自分が教育について議論するようになって、「ああ、あの頃の思いはそういうことだったんだなぁ」と分かりました。

ところで、軽蔑(けいべつ)する人間になりたくないというのもありますけれど、軽蔑される人間になりたくないという思いもありますよね。私は意志薄弱(いしはくじゃく)な人間でしたから、軽蔑したくないという思いと、軽蔑されたくないという思いにはさまれて、ついつい勉強してしまいました。多少なりとも悪い人間になるという事をしょうちの上で勉強してしまった。ただ、少なくとも「自分がある知識を知ったとして、それを知らない人間をバカにすることはすまい」と考えていました。下手すると、知らない人間をバカにしてしまうのだから、そうすることはすまいと思いながら勉強して来ました。

ですから私は、学校の勉強ができない子どもたちというのを見ると、たいへん尊敬(そんけい)すべき存在ではないのだろうかと思うのです。私より意志強固(いしきょうこ)で、非(ひ)人間的なことはしたくないと非常にハッキリ胸に抱いて、断固(だんこ)として勉強しないというこうごうしい存在ではなかろうかと。

つづく

板倉聖宣「仮説実験授業とは何か」-仮説実験授業研究-/たのしい教育と仮説実験授業

 板倉聖宣(仮説実験授業研究会代表/日本科学史学会会長)がジャポニカ大百科に書き下ろした文章の抜粋版が、以前にも紹介した「仮説実験授業研究」という資料に掲載されています。1969年発行ですから、55年くらい前に編集発行されたものですけど、その元となる考え方と、授業の構造とがシャープに整理された内容です。

 ところで、この〈たのしい教育研究所の公式サイト〉には《仮説実験授業》についての記事も掲載しています。それは〈たのしい教育〉をすすめるにあたって、ゆるぎないほど強力な教育方法と発想法を提示してくれているからです。気づいてみると、一般の先生たち、大学で学んでいる方たちをはじめ、教育関係者の皆さんからの問い合わせも多数届く様になりました。
 その中で多いのが〈どういう授業を仮説実験授業というのか〉というテーマの質問です。
 冒頭にある様に、仮説実験授業研究会の代表である板倉聖宣が、自ら生み出した仮説実験授業をどの様に記述しているか、ご覧下さい。

仮説実験授業研究
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仮説実験授業(かせつじっけんじゅぎょう)

 科学上のもっとも基礎的一般的な概念・法則を教えて、科学とはどのようなものかということを体験させるととを目的とした授業理論。
 この授業法の理論的基礎は主として次の二つの命題におかれている。
① 科学的認識は、対象に対して目的意識的に問いかける実践(実験)によってのみ成立し、未知の現象を正しく予言しうるような知識体系の増大確保を意図するものである

② 科学とは、すべての人々カ納得せざるを得ないような知識体系の増大・確保をはかる一つの社会的機構であって、各人がいちいちその正しさを吟味することなしにでも安心して利用しうるような知識を提供するものである。

 

 この第一の命題によって、実験の前には必ず生徒一人一人に予想・仮説をもたせなければならない、という主援が生れる。また、第一第二の命題から、討論の重要性が指摘される。他人のすぐれたアイデアを積極的にとり入れ、他人のまちがった考えを批判し、自分の考えが正しいと思ったら、みんなから瓜立しても自説を守り、他人を納得させるだけの論理と証拠・予言をそろえられるようにならなければならないというわけである。そこで、この授業埋論にもとずく授業では、問題・予想(仮説)・討論・実験 が授業の中心におかれることになる。

 

 同じ概念・法則に関連する一連の問題をつぎつぎと与えて予想、をたてさせ、考え(仮説)をだしあわさせて討論させてから実験によってどの予想が正しかったかを知らせるうちに、目的とした概念・法則を確実に身につけさせようというのである。

 

 このような授業で成果をあげるには、とくに適切な問題の作成配列が重要になるが、そのためには「授業書」という一種の教科書を準備し、教師と生徒に提供する方法がとられている。

 

 この授業書には、問題のほかに科学者の研究成果も読物などの形で収録されている。上記の第二の命題によって、生徒たちに受け入れ能力さえできていれば、科学の知識は積極的に提供した方がよいというのである。

 

 この授業理論は1 963 年(昭和38)に板倉聖宣らによって提唱されたもので、それ以来『ふりこと振動』『ばねと力』『ものとその重さ』『花と実』『電流と磁石』『溶解』『宇宙』などの授業書が作成され、全国各地の小中学校で多くの実験授業が行われている。そして、大部分のクラスでほとんど全員、「考えるのがたのしい」として理科の授業がすきになるなど多くの成果をあげたと報告されている。
 また、一般の理科や社会科・算数の授業などにも予想をたてさせることが普及するなど多くの影響を与えている。

(板倉聖宣)

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仮説実験授業 授業書「ふりこと振動」たのしい教育Cafe6月

たのしい教育Cafeで、前回から引き続き仮説実験授業 授業書「ふりこと振動」をたのしんでいただきました。
この授業は、ガリレオのはじめの科学研究の成果を体感するもので、仮説実験授業の記念すべき初めての授業書です。

とてももりあがりました。

ふり子の等時性を体験していただくのですけど、ここで長年のわたしの疑問が出てきて新しいプランが出来上がりそうな予感がしています。

仮説実験授業 授業書「ふりこと振動」

授業書の問題の中に出てくるのですけど、1mのふりこの周期はいくらになると思いますか?

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板倉聖宣「世の中は必ず変わる」1993

今週のメールマガジン「たのしい教育」第206号を執筆しています。

板倉聖宣 仮説実験授業

メールマガジンは、①たのしい教育研究所 今日この頃 ② 学校や家庭で利用出来るたのしい授業 ③ おすすめ映画 ④ たのしい教育の発想法 の章でできています。

今日は、①板倉研究を訪ねた時の様子と ④1993年に板倉聖宣が語った「世の中は必ず変わる」というお話をまとめています

④の一部「板倉聖宣1993 世の中は必ず変わる」の始まりの部分をお届けします。

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