板倉聖宣(仮説実験授業研究会代表)アーカイブス 沖縄ファースト講演「人生を豊かにするために たのしく学ぶ(4)」

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1989仮説実験授業研究会代表 板倉聖宣 沖縄ファースト講演
「人生を豊かにするために たのしく学ぶ(4)」
会場 沖縄市 レストラン サザンパレス
文責 たのしい教育研究所 喜友名 一

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役立たない知識を出世のために学ぶ

それ以上になると何をやっているのかというと、一つは「出世のためです」。

例えば東大法学部を出て大蔵官僚(おおくらかんりょう)になる。主計官(しゅけいかん)あるいは税務所長(ぜいむしょちょう)になる。

国会予算を審査(しんさ)するなんていうとどういうことになるか。ある主計官は遺伝子(いでんし)研究費を審査したりコンピュータの予算を審査したりなんかするものだから、もうこれは、まんべんなく知ってなきゃならない。ですから、大蔵省の役人はまんべんなくしってなきゃならないのです。とすると、東大法学部ではまんべんなくしってなきゃならない、そういう事です。出世するためにはまんべんなく知ってなきゃならない人がいるんです。

不思議に思うかもしれませんが、日本の教育っていうのは、だいたいが東大法学部を見本としているところがあります。東大法学部をみんなが目指すという事を考えてできているところがあります。「あらゆることを薄く、浅く知っている」ということです。そんなに浅いわけではありませんが、そんなに深くでもありません。それがモデルです。

だけど東大法学部に入る人間なんて毎年何百人かでしょう。京大法学部もなんとか法学部もいれてもそんなにたくさんいるわけじゃないですね。

昔は義務教育は小学校三年生か四年生まででした。ですから<読み書きそろばん>で卒業できた。

それでもその時、つまり明治のはじめの時代の小学校三年生か四年生の教科書を皆さんに見せたら、きっとびっくりしますよ。なにせ小学校三年生、四年生で卒業して社会に出るわけですから、ほんとうにびっくりするような内容がある。何が必要になるかというと例えば<役場に届け出る書類を読み書きできる能力>を扱うのです。

結婚したときの「婚姻証明書」を書いて提出する学力がある。家族が死亡したときの「死亡通知」を書いて届け出る能力があるのです。

「私の実父、どこのだれ邊ベエは、何月何日、どのような理由により死去いたしました。ここにおいてご通知いたします」というようなものを書いた教科書があって、それをまねして自分で書けるようになるわけです。小学校三年生か四年生でですよ。

みなさんが、もしそれを見たら、おそらく読むことが出来ないとおもいます。それを小学校三年か四年でやるわけですね。官制教育だから、どうしてもそういう事を考えてやっている。すごく役立つ事を、明治の始めには実感をこめてやっていた。

今はそういうことはなくなっちゃたですね。

私、あきれたんですけれど、大学の頃、買ったばかりの自転車を盗まれまして警察署にいったんです。そしたら警察署の人が何といったかというと「そういうことなら代書屋へいって書いてもらいなさい」というのです。めんどうくさいですね、向こうは。それから代書屋を儲(もう)けさせたいんのでしょう。

私は「何でだよ、それくらいの学力は俺有るよ」って思うわけです。それで「俺が書く」って言ったんです。そしたら「その書式が無い」っていうわけです(笑)。で、また「代書屋へいけ」っていうわけです。それで押し問答になりましてね・・・まぁ結局、自分で書いて出したんですけれども(笑)。

つまり今やそういう事は、みんな便利になってしまいまして、昔は小学校三年生か四年生かでやっていたようなことも、お金さえだせば自分でやらなくたっていいようになっている。

人生を豊かに生きるために学ぶ

もう一つの理由は何か、それは出世とかなんとかではなく、「人生をより豊かに生きるために学ぶ」という事です。

「より豊かに生きる」ためにはいろんなことがありますよね・・・例えば音楽がたのしめるといい、絵がたのしめるといい、科学がたのしめるといい、文学がたのしめるといい。いろんなたのしみ方が出来れば豊かですね。

私は自然科学の教育がもともと専門ですから「科学が分かってより豊かに生きるためにはどうしたらいいか」という事を考えるのです。

今のような教育をつづければいいのか・・・おそらくダメですね。

大体「科学なんていう本はこんりんざい見たくない!」という思いを固く決意させるために学校教育はあるような感じがしています(会場大笑)。

もしも勉強しなかったなら、何にも教えてくれなかったなら「もしかするとオレ科学の才能があるかもしれないぞ」と思ったかも知れないのに、小学校、中学校、高等学校、人によっては大学までとことん、そういう事を教えてくれたばっかりに、「こんりんざい科学の勉強はしたくない」ということを決意してしまう・・・

こういうことは科学ぐらいだと思っていたんですが、ある時、国立音楽大学の先生にあって話をすると、入学して来る学生のほとんど一人残らず音楽が嫌いだというんです。「えー」っと思いましたね。音楽の世界くらいは、好きだからはいってくると思っていたんです。科学は嫌いでも勉強させられちゃうけど、音楽は基本教科にもなっていないから、そういじめられないだろうと思っていたんですけれど、そうじゃないんだそうです。

音楽大学に入ってきた子どもたちは、高等学校の頃どういう様子かというと「いろんな勉強しているんだけど自分で何をやっていいのか分からない」という人が多いのだそうです。

自分は子どもの時から親にいじめられて音楽をさせられた・・・音楽は大嫌いで、親に反抗して、イヤだイヤだと思いながらやっていたんだけど、自分には<他の人よりできるもの>というものは音楽しかない。だから音楽学部に入った、というんです。

その国立の先生がいうには「例外的な者が一人いたよ」っていうんですね。この人は、他の事を勉強していたんだけども、高等学校の二年生の頃に「音楽が面白い」って気がついたというんです。高等学校の二年の頃ですから、もちろんピアノは引けないし、他の楽器も駄目だし、だけども「音楽がやりたい」っていうわけですよ。あわてて高等学校の二年からピアノの練習やったらしい。本人はたのしいんですね。たのしいんだけど能力はないんです(笑)。この人が何とかがんばって、一年浪人してはいってきたらしいんです。「これはめずらしい男だ」というわけで、ぼくにはなしてくれたわけです。

こういう人は、子どもたちに「音楽のたのしさを教えよう」という発想になるんです。はじめからたのしいんだとして受け入れてきたわけですから、たのしく教えようというわけです。

ところが普通の音楽大学の卒業生は「音楽はたのしくないものだ」「あれはたのしくなくてもやって、なんだか反抗しているうちにも身に付いていっちゃうものなんだ(会場大笑い)」と考える。だからそうやって、自分たちの教え子にも教えようとなる。これは大変なことです。

「先生が悪い」っていう話があるんですけど、しかし先生の監督っていうのは不十分ですから、まだいいんです。「音楽」の監督は家庭でお母さんがやっているんですから、これはきびしいんですね。本当に、とことこ嫌いになるまでやるわけですから(会場大笑)。

つづく

板倉聖宣(仮説実験授業研究会代表)アーカイブス 沖縄ファースト講演「人生を豊かにするために たのしく学ぶ(3)」

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1989仮説実験授業研究会 板倉聖宣 沖縄ファースト講演
「人生を豊かにするために たのしく学ぶ(3)」
会場 沖縄市 レストラン サザンパレス
文責 たのしい教育研究所 喜友名 一

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 小三から小四までは役立つ。小五くらいからは、ほとんど役立たないといってよい、生活的に役立たない知識がたくさん出てきます。

 現代は科学の時代です。電気の時代であり、原子力の時代です。そうすると、私たちはみんな電気の事、原子の事をしらなければならないのでしょうか?

一時はそういうふうに思って心配して「勉強しなきゃならないなぁ」とがんばった人たちもいると思います。でも結局は電気のことをよく知らなくては生活できなかったり、原子力について知らなくては生活できない、ということはなかったでしょう。

私どもの世代は、大人になったころテレビというものができました。テレビというものを扱うには電気というもの電子工学というものをそうとう知らなければならないだろうと思ってビクビクしていたら、何の事はない、スイッチをいれればいいだけのことでした。

私は基礎学力が無いもんですから、旅行に行くとテレビをつけられないことが多かったものです。いろんな種類のテレビがあるんですよ。テレビによっては引っ張るやつと押せばいいやつと右に回すやつと、へんな所に回すやつといろんなものがあるんです。

テレビというものはうんと基礎的なものだから、基礎学力に入るのか?

私は電気工学は普通の人よりズーッと知っているんだけども、そんなものはテレビを観るためとか、冷蔵庫を使うためとかに、ほとんど役立たちません。だいたいからして、メーカーは「この機械は中学三年程度の学力を持っていなければつかえませんよ」という機械をつくったら売れないんだという事をよーく知っているんです。

<ボタンを押しなさい>とか<コンセントを差し込みなさい>とかいうことがわかったらいいのです。お客さんにそれ以上の学力を要求したら商売は成り立たないという事がわかっているのです。メーカーは「科学についての知識はいらない」ということを前提にして機械を作っているのです。ほとんど全ての機械はそうです。「電子レンジを買うんだけど、私にも扱えるのかしら」っていう場合には、それは電気工学について知っている人に聞いているのではない。そんなこと知ったってしょうがない。電子レンジを扱って何か料理をしたことのある人に聞くのです。

だから学校の理科教育がちゃんと一人前に分からなければ、この電気の時代・原子の時代に生きていかれないということは無いのです。これはハッキリしていますね。

そうするとますます〈生活に役立つ学力っていうのは小学校三年か四年の内容でいいじゃないか〉という見方をしてみることも大切ではないかという気持ちになってきます。

いろんな学力調査をすると、その事をハッキリ裏付けることが出来ます。小学校四年で教えたことがらを、五年生、六年生、中一、中二・・・というぐあいにテストしていくわけです・・・そうするとどういうようになるか?

小学校四年で教えた事柄について、一番よくできるのは小学校四年です。中学三年が出来るんじゃないんです。

中学一年で教えたことが一番よくできるのは中学三年生かというと、そうではない、中学一年生なんです。

ただ一つ例外があります・・・「漢字の読み・書き取り」です。漢字だけはだんだんと学力が上がるんです。使うからです。手紙を書いたり本を読んだりするときにつかいますね。

けれど、数学の学力とか、理科の学力とか、社会科の学力とかは、みんな教わったときが一番よくできるんです。それでも100%はできませんよね。60%できて、あとは50%、40%・・・と下がっていく。

つまり「使っていない」という事です。漢字なんかは使うから上がっていくでしょう。

そういうふうに考えると、全ての人が使うとか役立つという意味で役立つ知識は、小学校四年生くらいまでです。だからそこまでは、子どもたちは学習意欲があるし、教え方を工夫してうまく教えられれば、たいへん良い教育が成り立つ。しかし、小学校五年生以上になるとそう簡単にはいかない。これは、人と競争して勝って、人を軽蔑する能力をつけたいと思う人なら勉強するかもしれないけれど(笑)、非常に真面目な子どもたちは勉強しないよ。

じゃあそういう人たちは、こういう人を軽蔑する勉強をしなきゃいいのか?

「しなくてもいい」というのが一つ有ります。

私はしなくても良いと思います。

「しなくてはならない」とは思わない。

しかし実は、小学校二年生だろうと五年生だろう何年生だろうと、もし本当にたのしく授業してくれたら、これは<役立つか役立たないか>なんて関係なく、新しい世界を開いてくれるんです。

例えば原子というものがある。

<水の原子>を一億倍すると・・・いや一億倍じゃあ小さすぎるから五億倍にしましょう・・・こういう感じの水の分子、こういうものを知ってなきゃ困るかというと、これ困りませんよね。だってほとんどみなさん知らないんだから。

どっかで見たことがあるかもしれないけど、あまり知らないですよね。

例えば「水の分子はこういうかっこうしているんだよ」っていう事を今私たちは小学校二年生くらいから教えちゃうのですけれども、これたのしいんです。子どもたちが「赤パンツだ」なんていってね。

Water_molecule

これが酸素の酸素の分子(赤2個)です。

index

これが一酸化炭素(酸素1コ)です。

一酸化炭素

これが二酸化炭素(酸素2コ)です。

CO2

真ん中を黒く塗ったつもりですけれどあまり黒く見えませんね。黒板といっているけれど、これ本当は青板ですから(笑)。

たとえばこういう事は中学校か高等学校で教えるのですけれど、小学校二年生や一年生に教えることできるんです。だって「あの人、花子さんて名前だよ」「あの人、太郎さんて名前だよ」って教えること出来るでしょう。

同じように「これ酸素さんて名前だよ」「これ水という名前だよ・・・水っていうのはこんなふうに集まってできているんだよ」ってね。

こう教えると、みなさんがあまり考えることが出来なかった創造的な考えができるようになるんです。

「先生、先生、これ水っていってるけど、ほんとの名前は水じゃないんでしょ・・・これは二水化酸素っていうんでしょ」
なんていう子どもたちもでてきます、小学校二年生か三年生で。

そういうのがわかってくると、そういうのを知らない人をバカにしようというんではなくて、たのしいのです。

しかもこういう原子分子を知っていると、電子レンジはなぜ料理ができるのかという事がわかる。本来はお皿なんか熱さないで中の料理を熱してしまうんですね。なぜかというと、電子レンジというのは<電気の波>を起こす。電気の波がこう来ると、水の分子は+と-に電気が別れているものですから、こうゆすぶられる。例えばご飯の中には水の分子が入っていますから、その水の分子がゆすぶられて、中がこすれていって中から温まっちゃう。そうやって電子レンジは温まるんですね。こういう二酸化炭素の形のように一列に並んでいると、電子レンジでゆすぶられないので温まりません。

こういう事をぜんぜん考えてもみない人が電子レンジを使っているわけですけれど、こういう事を知って、いろいろ考えていくと、
「ああ、なんか世の中って理解できるなぁ」
という感じになってきます。まあこの事だけをしっただけでは大したことではないかもしれないですけれど。

要するに学校で教えているのは「読み書きそろばん」という事です。読み書きそろばんは、江戸時代の頃から、知っていたら都合が良いぞという事だった。役立つという事はわかっていた。それが今でいえば小学校三四年生までだ、と。

つづく

板倉聖宣(仮説実験授業研究会代表)アーカイブス 沖縄ファースト講演「人生を豊かにするために たのしく学ぶ(2)」

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1989 仮説実験授業研究会代表 板倉聖宣 沖縄ファースト講演
「人生を豊かにするために たのしく学ぶ(2)」
会場 沖縄市 レストラン サザンパレス
文責 たのしい教育研究所 喜友名 一

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役立たない知識の利用方法

例えば耳鼻咽喉科が「じびいんこうか」と読めなくても、「みみはなのどか」とよめれば役だつでしょう。耳がよくない、鼻が悪いというのなら、その「みみはなのどか」に行けばいいのです。

では「じびいんこうか」と読むことが役立つというのはどういう時か、これは、「人を教育するとき」か「人をいじめるとき」、この二つくらいしかないのではないだろうかと思うことがあります。

医者に行きたかったら「みみはなのどか」という看板のあるところにいけばいいんですから。「じびいんこうか」ではなく、「みみはなのどか」と読める知識があれば役立つのです。「みみはなのどか」とも読めないとなると、ちょっと役立たないですけどね。

人殺しに役立つなんていうのは困るんですけれども、人間の物質的にも精神的にも豊かにする形で役立つものは嬉しいです。こういう知識は人をいじめたり、人を軽蔑したりする為に使う必要がありません。

しかし、ほとんど役に立たない知識というものがある。ほとんど役立たない知識というものを持っているとどうなるか? 例えば二次方程式です。みなさんは二次方程式が生活で役立ったという事がありますか?
ほとんどないはずです。

私は使ったことあるんですよ・・・偉いですね(笑)。二次方程式を使って「数学の歴史」の論文を書きました。

その時に驚いたんです。私より前の研究者たちがずーっとナゾで分からなかった問題があるんです。ずーっと昔からなぞで分からなかった問題が、私には分かった。二次方程式を知っていたおかげなんです。数学の歴史は、数学をよく知っているはずの人たちがやるんですよね。その人たちは二次方程式を使っていないんですよ・・・数学をよく知っている人たちがさえ二次方程式を使わないという事が分かって、私はとても感激したことを覚えています(笑)。

それほどに二次方程式は使わないのですね。

数学の先生は、それを教える時に役だつはずです・・・そういう時など、ほんのたまに役立つことがあるんだけれども、まあ、ほとんど使わない。

そういう知識はどういう時に使うかというと・・・「あいつ二次方程式もできないでやんの」となる。つまり二次方程式がどういう具合に使われるのかという事は分からないのだけれども、中学生としては二次方程式を知っていることだという事になっていて、「それを知らない無能な人」というレッテルはりに役立てることができる。

二次方程式だけじゃないです。分数の足し算、これはもうほとんどといって役立たない。計算機ですら小数に直してから計算しているわけですからね。

つまり、ほとんど役に立たない知識というものを役立てる方法、それは、その知識を知らない人をバカにし、軽蔑し、脅(おど)かすということですよ。ですから、役立たない知識を身に付けると、とたんに人間が悪くなるんです。

役立つ知識の利用法

役立つ知識というのは、そうではないのです。例えばこういうところでアンプを扱う人が誰もいないとどうしようもないですね。アンプを扱う人はだまって黙々(もくもく)と調整してくれますね。運動会などでもとても役立つ。でも、そういう人達は威張(いば)りませんね。威張る必要がありません。黙々とやるだけです。役立つ知識というのは他人を軽蔑するというぐあいには働かない。

ただ黙々とやっているだけですけれど、他の人は感謝してくれます。「あの人がいて良かったなぁ」となります。役立つ知識を持っている人は、他人を軽蔑しなくても存在感が浮かび上がって来るんです。何にも言わなくたってね。

ですから「役立つ知識」というのと「役立たない知識」という二つのものがあるんです。では学校で教えているかなりの知識というものは、役立つのか役立たないのか? 理工系の学問をやる時、それらが少なくとも過渡期(かどき)には役立つことがあるかもしれませんが、しかしほとんどの人たちにとってはかならずしも「役立たない」。

では、役立つ知識だけをとって学校で教えようか。役立つ知識だけを集めて学校で教えるとなると、学校教育はどのくらいの時間ですんじゃうのか?

おそらく私は小学校三年か四年ですむと私は思っています(笑)。小学校三、四年までは子どもたちは学習意欲があります。なぜかというと、それまでに教わってきたことが役立つことがすぐにわかるからです。お父さんお母さんがつかっていますよね、日常生活で。たとえば「山」という字、「川」という字が読めると役にたつ。読めないと困ります。

知識を持っていない人をバカにしないことと同時に、知識を持っていない人が傷つかない様にするということも大切です。

学校の先生方って「どうやって子どもたちが傷ついているのか」っていうことにもっと気を使って欲しいと思うことがあります。

私は「授業書開発講座」というのをやっていまして、授業書案を検討する機会があるわけですけど、そこにやってくるのは主として学校の先生です。そこでは授業書案を作って来た先生に読んでもらうのではなく、他の先生に読んでもらいます。そうすると先生方ってとても緊張(きんちょう)しますね。「読めなかったらどうしよう」っていうわけです。つまり軽蔑の対象になるかならないのかの瀬戸際(せとぎわ)に立つわけです。私はそういう気持ちがよくわかるものだから、ちょっとつかえるとサッとこちらから読んであげる・・・そうすると傷つかないでしょう。そういうときに意地悪して、だまっていて「さてこの先生どう読むんだろう」なんてジーっとしてると、困った先生はモジモジしだしてとんでもない読み方をしたりなんかする(笑)・・・かわいそうですね。

そういう研究会っていやでしょう・・・行かないに限りますよね。

子どもたちが傷つきそうなときにはサッと手をさしのべてやるといいのです。

沖縄なんか来ると、私、人名なんかぜんぜん読めませんからね、非常に不安ではあるんです。「どうやって読むのかなぁ」なんていろいろ考え込んだ末に読むと「いやこんなのは普通によめばいいんだ」とか、いろいろです。しかしよそ者だからあたりまえという感じもあるでしょう。

いろいろお話しましたが、〈知識〉というのは「知っている人が知らない人をバカにするようなものがすごく多い」という側面、そして「役立たないにもかかわらず軽蔑されないために勉強したという人が多い」という見方もあるのだということは、知っていても良いことだと思っております。
そうやって、軽蔑されないために勉強した人の多くが学校の先生になっている(会場 笑)ということも頭においておくとよろしいのではないかと思っております。

では、そういうことを解決するにはどうしたらよいのでしょうか?

つづく

板倉聖宣(仮説実験授業研究会代表)アーカイブス 沖縄ファースト講演「人生を豊かにするために たのしく学ぶ(1)」

 これから数回に分けて、仮説実験授業研究会代表板倉聖宣先生がはじめて沖縄に来てくださった時の講演をお届けします。沖縄で仮説実験授業のサークルを設立した伊良波さんとわたし二人で、企画運営した初めての講演で、思い出深い内容です。会場は沖縄市にあるレストランを貸しきって利用しました。参加費がいくらだったのか、どうやって宣伝活動をしたのか、25年位前のことなので記憶が定かではありませんが、その時に板倉先生が語ってくれたことは今でもかなりの部分覚えています。
 この文章は講演直後にわたし、喜友名が文字起こしして、仮説実験授業の研究会の皆さんや、たのしい教育に興味関心を持っている方達へ配布しましたので、関係する方達の目には触れていると思います。また、たのしい教育メールマガジンを購読してくださっている方達は、さそこに毎回というほど講演記録を掲載していますので、似たような発想に触れていると思います。
 しかし、この公式サイトで板倉聖宣の発想法などを断片的にしか触れていない方達へは、きっと貴重なアーカイブ(重要文書資料)になると思います。
 内容に関する記述についての責任はすべて私きゆな(いっきゅう)にあります。
この内容を読んだり、サイトそのものを紹介してくださるのは歓迎いたしますが、この内容を印刷・配布することはご遠慮ください。

たのしい教育研究所 喜友名

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1989 仮説実験授業研究会代表 板倉聖宣 沖縄ファースト講演
「人生を豊かにするために たのしく学ぶ(1)」
会場 沖縄市 レストラン サザンパレス
文責 たのしい教育研究所 喜友名 一

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勉強することは良いことか

 板倉でございます。

 私は、25年前に仮説実験授業を提唱いたしまして、つまり今年度は仮説実験授業が始まってちょうど25周年です。

以来、これまでほとんど全ての都道府県で仮説実験授業について話す機会がありました。しかし沖縄だけは25年間、大事にしまってありまして(笑)・・・今回初めてであります。

今回こちら沖縄で仮説実験授業というものについてお話させていただくと、私、日本の全ての都道府県でそういう話をしたことになります。

本日は沖縄仮説サークルの方たちから「基礎学力とたのしい授業」というテーマで話してもらいたい、というお話でございました。きっと沖縄でも「基礎学力」が大きなテーマになっているのでしょう。

私は、仮説実験授業というものを25年前に提唱したあと、その幅を広げた形で「たのしい授業」という雑誌をだしております。その中の私の論文をまとめたものが「たのしい授業の思想」という本の形でまとめられております。興味のある方は、ぜひ手にしていただけたらと思っております。

へたにやると「たのしい授業」は「ただ遊んでいる授業」と理解されがちであります。けれどそうではなくて〈本格的な科学を本格的に教える〉すると〈たのしい授業〉になります。そういう授業がかなり軌道にのったもので、かなり自信を持ちました。

つまり「仮説実験授業」という授業が確かな成果をあげ、これで「たのしい授業」が実現できるということがわかって、そういった〈ものの考え方〉をほとんど全ての教科に広げようということで「たのしい授業」ということを広げることとしたのです。

実は当初、「たのしい授業」という雑誌を出すとどういう反応が返って来るのかという事で、かなりの心配をいたしました。

その一つは「授業がたのしい」つまり「たのしい授業」というのは良いにきまっている。そういう「いいにきまっているのを表題に出すというのはなんだかへんだなぁ」というものでした。

もう一つは「授業なんて元来たのしいものではない、厳しいものなんだ。授業にたのしさなんかもとめたら、授業は成り立たなくなってしまう。それは子どもたちの考え方を誤らせてしまう危険な思想である」という反対意見でした。

  = 板書 =
「たのしい授業」
・あたりまえだ
・そんなでたらめなものはない

こういう2つの考え方があったわけです。

今でこそ「たのしさ」というのはかなり流行しております。しかし、私たちが「たのしい授業」という雑誌を出したころは、それはでたらめだ、けしからんという考え方が一般的でありました。最近の子どもたちは授業にたのしさなんて求めるからおかしくなるんだ、というわけです。

その頃、一般に教育の講演会やら研究会で普通に言われていたのは

= 板書 =
わかる授業・たのしい学校

という事でした。

これには文部省も日教組もめずらしく歩調を合わせて主張していたものです(笑)。

「授業はわかるようにしなければならない。分かる授業をしなければ学校がたのしくならない」というのです。

学校というのはなにしろ友たちがいる、休み時間がある、遠足もある、給食もある。最近は給食がたのしくないという人もいる様ですけど、つまり「学校という所はたのしくなりうるけれど、授業というものはたのしくなるなんて事はありえない」こういうことです。

ですから、日教組も文部省も「授業をたのしく」ということではなくて、こぞって「授業を分かりやすくしよう」「分かる授業をしよう」ということでありました。

私たちはこういう状況を承知の上で「たのしい授業」という雑誌をだしたのです。

なぜ「たのしい授業」か。

わかってもたのしくない知識があります。
わからなくってもたのしい知識がございます。
わかんないしたのしくないという事もあります。

  = 板書 =
<たのしく>て<分かる>
<たのしく>て<分からない>
<退屈>で<分かる>
<退屈>で<分からない>

普通の人は<たのしく>て<分かる>が一番で、<退屈>で<分からない>が一番悪いと考えます…しかし私はそう考えません。

<退屈>で<分からない>ものなら私はがまんできる。しかし「退屈でイヤなのに分かる」というのはがまんがならないのです。

例えばどういうことか。

「戦争に行って弾丸を打つ、敵に当てたくないのに当たっちゃう。そういう身に付けたくない能力、人殺しをする能力がついてしまう」ということです。「そういうことは勉強したくないのに、そういういろんな能力がついてしまう」ということです。

戦争なんて特殊(とくしゅ)な例をださなくっても、私自身の例で言えば、子どもの時から、勉強することがそんなに良いことだとは思えないという事がありました。

みなさんはどうなんでしょうか。勉強っていうのは、すればするほどいいにきまっているものでしょうか?

学力はあればあるほどいいにきまっているものでしょうか?

わかれば、わかんないのよりいいにきまっているものでしょうか?

「いいに決まっている」という人はそうとう幸せな人じゃないかと思います。


勉強することは悪いことではないか、という問い

私は小学校の高学年の頃から「勉強がいいに決まっている」とは思いづらかった。「どうも勉強することは悪いことではないか」という事を密かに思っておりました。でもそれは「密かに」であって、あまり公言はできません。

そういう事を考えておりますと、例えば、江戸時代の有名な剣豪(けんごう)、宮本武蔵の友だちというか先生の沢庵(たくあん)和尚、彼はわりあい教育論をやっておりまして、「学問は悪恵を生ずる」と言っています。つまり「学問は悪い知恵を生ずる」「学問をすると人間性が悪くなる」という事をかなり強く言っているのです。

「ああ私と似た考え方のお坊さんがいたんだなぁ」と思ったりいたしたんですが、おそらくは多くの人がどこかで、勉強する事は、ある場合は〈すごくいい〉んだけれど、ある場合は〈悪い〉というふうに思わざるを得ないことがあるんではないかと思うんですけれど、どうでしょうか。

私は最近の若い人たちと違って、9人きょうだいの6番目として生まれました。9人きょうだいで真ん中よりちょっと下です。兄さんというのは年が離れていますので気にならないのですが、姉さんがたいへん口うるさい。

たいへん教育的であったのかも知れませんが、弟である私を仕込んでやろうという感じがあって、わたしにはたいへん意地悪に思えた。なにか間違えると笑うわけです。「こんな事も知らない、あんな事も知らない」と。

一番ハッキリ覚えているのは、私、子どもの頃から鼻が悪くって、今でもかなり悪いのですが、「耳鼻咽喉科」というものがありますね。中学二年の頃に姉に「〈みみはなのどか〉という医者ががあったよ」といったら大笑いされました。それは「じびいんこうか」と読むんだと知らされてしまったのですが、それ以来私はそれを「じびいんこうか」と読むことさえ拒否してしまいました。

「耳鼻咽喉科」と書いて「じびいんこうか」と読めなければ笑うわけですね。そう読める人間が、読めない人間を笑うわけです。

しかし私は、そうは読めなかったから、誰かが間違って「みみはなのどか」といっても笑わない。それが間違っていることに気がつかないんですから(笑)。

しかし考えてみると、「じびいんこうか」というのでは意味がよくわからないのだけど、「みみはなのどか」ならわかりますよね。

勉強するという事は、その知識を知らない人を笑う人間を作ってしまうのではないか。他人を笑う能力を身に付けさせてしまうのではないか。私は知識が無かったから、それを笑えないのだけど、おそらく知ってしまったら、他人を笑う能力を身に付けてしまうのではないか。たいへんいやらしい人間になってしまう気がしたのです。

私も姉と同じいやらしい人間になってしまう、私はそういういやらしい人間になりたくない。誰かが何かを知らないといっていじめる人間になりたくない。そういう人間にならないためには、そういう学力をみにつけないことだ。より清く正しく生きるためには、学力が無いことが大事だ。私はかなり本気で小学校高学年から中学校の時代、そう考えておりました。

私はその後、教育学に関する議論を大なり小なりするようになったものですから、こんなふうにきれいに整理することができるのですが、あの頃は「こんちくしょう」というモヤモヤとした思いだったのです。自分が教育について議論するようになって、「ああ、あの頃の思いはそういうことだったんだなぁ」と分かりました。

ところで、軽蔑(けいべつ)する人間になりたくないというのもありますけれど、軽蔑される人間になりたくないという思いもありますよね。私は意志薄弱(いしはくじゃく)な人間でしたから、軽蔑したくないという思いと、軽蔑されたくないという思いにはさまれて、ついつい勉強してしまいました。多少なりとも悪い人間になるという事をしょうちの上で勉強してしまった。ただ、少なくとも「自分がある知識を知ったとして、それを知らない人間をバカにすることはすまい」と考えていました。下手すると、知らない人間をバカにしてしまうのだから、そうすることはすまいと思いながら勉強して来ました。

ですから私は、学校の勉強ができない子どもたちというのを見ると、たいへん尊敬(そんけい)すべき存在ではないのだろうかと思うのです。私より意志強固(いしきょうこ)で、非(ひ)人間的なことはしたくないと非常にハッキリ胸に抱いて、断固(だんこ)として勉強しないというこうごうしい存在ではなかろうかと。

つづく