板倉聖宣(いたくらきよのぶ)略伝

板倉聖宣アーカイブスが人気です。
「これまで板倉聖宣の講演全体を読んだことはありませんでした。かなり前の講演とはいえ、とても興味深かったです」という趣旨のお便りがいくつも届いています。

板倉先生のことを知らないまま読んでも読み応えがあると思いますが、知っていると深みも増すと思います。これまでも何度か紹介してきましたが、アーカイブスを読んでくれた方達向けに、また少し紹介したいと思います。

板倉聖宣はとてもたくさんの画期的な仕事をしてきたので、略伝で一冊の本になるのではないかと思うほどですが、あえてその中からピックアップします。

板倉 聖宣 (いたくら きよのぶ)
1930年 東京の下町で職人の息子として誕生(9人きょうだいの6番目)
1958年 東京大学で科学史を専攻
1959年 国立教育研究所(現国立教育政策研究所)に勤務
1963年 アメリカのPSSC物理に触発され、科学教育を根本から改革する「仮説実験授業」を提唱。「仮説実験授業研究会」を組織し、会の代表をつとめる
1983年 月刊誌『たのしい授業 (仮説社)」を創刊、編集代表
1995年 国立教育研究所を定年退職し板倉研究所を設立
2013年 日本科学史学会の会長に就任

板倉先生は、科学の本の執筆数でも日本トップクラスの人物です。
絵本から一般向けの本まで、たのしくよくわかる作品にあふれています。

板倉聖宣 ぼくが歩くと月もあるく 編集代表を務める雑誌「月刊 たのしい授業」は教育関係の雑誌の中でトップクラスの売れ行きをしめしています。

わたし喜友名が教師になった頃とほぼ同時期に創刊されました。そして〈仮説実験授業〉や〈たのしい授業の哲学・発想〉をたくさん学ばせてもらった雑誌です。

月刊たのしい授業

大きな成果を数々生み出した板倉先生ですから、近寄りがたい、というイメージを持つ方もいますが、実はとてもフレンドリーな人物です。
この写真は2010年に沖縄で開催した仮説実験授業冬の大会で、私たちの質問にニコニコとした表情で答えてくれているところです。

板倉聖宣

これだけの人物が、わたし達の希望に答えて、沖縄に10回以上足を運んできてくれました。毎回、とても刺激的なお話を聞かせてくれました。その内容は今でもいろいろな方達に深い影響を与えることと思います。

読者の皆さんの反応をしばらく確かめて、出す価値が大きいと判断した段階で、また次の講演をアーカイブスに加えたいと思っています。ご期待ください。

たのしい教育が未来を創る
「たのしい教育研究所」です
 

 

板倉聖宣(仮説実験授業研究会代表)アーカイブス 沖縄ファースト講演「人生を豊かにするために たのしく学ぶ(5)」

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1989仮説実験授業研究会代表 板倉聖宣 沖縄ファースト講演
「人生を豊かにするために たのしく学ぶ(5)」
会場 沖縄市 レストラン サザンパレス
文責 たのしい教育研究所 喜友名 一

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本来の教育の原理

「より豊かに生きるために学ぶ」というのが、本来の教育の原理なんです。

例えば日本なんかでは「学校では実験をやらんからけしからん」「実験を入れろ」なんていっています。実験というものは昔はなかったけどだんだんいれてきたんだ、なんていう話があるんですけど、それは真っ赤なウソですね。科学の教育のもとは何かというと、17世紀、あるいは18世紀の頃のヨーロッパの先進国イギリスやフランスで科学を研究する人たちです。その科学の研究をする人は、月給をもらうためにイヤイヤ科学を勉強していたんではないんです・・・科学がたのしいからやったんです。
「おもしろいなぁー、星ってこういうふうになってたのか」
「色ってこういうものかぁー」
「光ってこういうものだったのか」
というぐあいに研究していったんです。

面白いから研究していると、ついついそばの人が、「ねえねえ先生、その話おもしろそうだろから聞かせてよ」

「実験して見せてよ」

ってなっていったんです。それはわかる感じがするでしょう。

そうやって、見せると喜ぶ人がいるっていうことがわかってきた。それいうふうにやってると貧乏な人も科学を研究するという事がでてきます。科学者たちは望遠鏡(ぼうえんきょう)を作ったり、プリズム買ったりするのにいろいろお金がかかるでしょう。これ、もとを取りたいとおもうでしょう。

それで「お金くれれば望遠鏡みせてあげますよ」ってなった。そうするとお金持ちがね、
「望遠鏡のぞかせてよ・・・土星に輪があるそうだね、それ見せてよ」
ってやって来ることもある。

そうやっていろいろみせてあげる。そういうのってたのしいでしょう。そういうものを見たいという人がいて、見せたいという人がいて、それで科学の教育が始まったんです。

「一人一人やったらめんどうだから12人、一ダースあつまったら教えましょう」という人が出る。

一人でもいいですよ、12人分の授業料払ってくれたらやりますよっていう人たちなども現れてきたのです。

そうやってそういう人たちがだんだんと、いなかのお金持ちなどのところで科学の講演をするわけです。講演ったって「オイ、ちゃんと聞いてたか。試験するぞ」なんていいません(笑)。「感想文かかなきゃ観せてやんない」なんていう人もいません(笑)。

例えば芝居はたのしくて観るもんでしょう。「つまんなくて寝ちゃった」なんていうときにはその舞台が悪いんです、役者がいけないんですね。

科学の講演でもそうですよ。

寝てしまうような講演をする科学の先生がだめなんです。だって生徒は神様なんですから・・・お金を払ってくれる人でしょう。そういう人たちがたのしめるような実験を用意するわけです。

だから科学の話なんか始めから実験がつきものですよ。実験が一番面白いんだもんね。そうして実験を観て「おー、面白い」という人たちが増えてきたのです。そういう事がだんだんと広がって参ります。

そしてそういうたのしい科学の先生がいろんなところに現われてきた。馬車に実験器具を乗せた一流の先生たちです。

こちらの村に一週間、あちらの村に一週間、その向こうの村に一週間・・・。そうするとこちらの村の庄屋さんとあちらの村の庄屋さんはつながってますから、「オイオイこんどね、うちの村に面白い科学の話をしてくれる先生が馬車引きで来るんだよ。12人いたらやってくれるそうだから、おまえの村でもあつめてみないか? 面白いよ」っていうぐあいにだんだんと広まって行ったのです。

日本は男女差別は激しいけれど階級(かいきゅう)差別はあんまりありません。ヨーロッパっていうのは階級差別は激しいのだけれど男女差別は激しく無いのです。ですからそういう科学の講演会を聞きにいくのは旦那衆だけでは無くって貴婦人、レディーも来るわけですよ。そうするとレディーにもわかります、っていう話をしなきゃお客さん減っちゃうわけですから、そういうレディーにもたのしい話をする。

こういう形で科学の授業は広まっていったんです。

ところでレディーたち、女の人たちは、こういうたのしい話を聞くと、どう思うのでしょう?

「この話は面白い。うちの息子にも聞かせてあげたい。家の娘にも見せてあげたい」となるでしょう。

なかには有力な人もいますよ。「うちの息子が通っている○○カレッジで授業をしてください。一回でもいいですから、いや三時間だけでもいいですからやってください。子どもたちはたのしいとおもうだろうし、賢くなるから是非やってください」ってね。

その頃のヨーロッパの学校でも日本の漢文の塾のように「師のたまわく・・・」なんてことやってんです。

キケロとかプルタークとかをギリシャ語で読んだりラテン語で読んだりしていて、全然つまんないんですね。そういうところで科学の授業やったら、これはたのしいですね。

そのうちに「毎年必ずきて下さい」という事になって、「いや、一週間ぶっ通しでやって下さい」「いや、もうずーっとここに住み着いて下さい(笑)・・・」なんてことになるんです。

そうやって科学の授業は始まったんです。

これがたのしくないはずないでしょう。

試験をして「できない奴、はいダメ」なんてならないでしょう。

学校の科学の勉強が<テストをして、先生が監督して成り立ってる>というのは、「日本」の科学の伝統です。

日本は科学が立身出世の為に役立った。外国の文化を日本に持って来るわけですから、外国の科学、文化を全部勉強しなきゃならない・・・。だから歯を食いしばってでも勉強しなきゃならない。

「歯を食いしばって勉強した奴は給料たくさん出すよ」という話で、みんな歯を食いしばって勉強やっちゃったものだから、そういう習慣が身についてしまって「勉強というものはきびしいものなんだ」となっちゃったのです。

ヨーロッパはそうではない伝統がずーっとあった。「たのしいから」研究するという伝統がある。もちろん、芸術でもたのしいからやっているんです。

月給くれるからしかたなしにやっている人たちは、そうとう三流です。やっぱりちゃんとした人たちは、月給くれるからではなくて、たのしいから絵を描いているのです。そして周りには<たのしくなりたい>という人がたくさんいるもんだから、教えていこうというぐあいにやっているんです。

だから「より豊かに生きるため」勉強をしている。より豊かということはどういうことでしょうか?

「世界が観える」ということです。

「美」というものが観えるということです。

「真理」が観えるということです。

「未来」が観えるということです。

例えば<科学>というものが分かると、人々がみんな平等でなければいけないということがわかってきたり、社会正義というものが観えて来たり、そうすれば世の中がもっと分かってきて「さらにいい時代にしよう」となる。

社会についての科学が分かれば、ますますそういうことがわかる。そうすると、そういう事がわかってくればたのしいでしょう。

私どもの授業で例えば<べっこうアメ>の授業があります。

なめられるからたのしいのだけど、じゃあ、食べられるものは何でもたのしいかというと、そうじゃないんですよ。

べっこうアメというものは、ちょっと砂糖を熱してやると味が変わって固まって、不思議だなぁ、となる。

スライムというものがあります・・・べちゃべちゃして、私、気味わるくてしようがないんですけれど、そのスライムというものをつくらせると、みんなたのしみます。

新しい世界がなんか観えて来るからです。

ただ、食べられるからとかいうものではないんです。

食べられるからおもしろい、というのなら、べっこうアメをなめたことの無いような人がたのしいといいそうですよね。でもこれは、そうじゃないですね。学習院の子どもだって、うんとお金持ちの子どもだって、べっこうアメをつくってなめさせるとすごく喜ぶんです。

イヤ、学校で<塩>なめさせただけで、学習院の子どもだって喜ぶんですね(笑)。

なぜ学校で塩をなめさせただけでたのしいのか・・・学校は塩ですらなめてはいけないところだからね(大笑)。

「ろ紙を通った水は塩か、真水か」という問題で、実際になめさせてみると、子どもたちはとても喜ぶわけです。

学校というのはすごく体制的に考えているところがあります。私たちの授業書に「磁石を割ったらどうなるか」という問題があります。この授業をやると大変なんです・・・まあ最近はあまり聞かなくなりましたが・・・「先生、本当に磁石を割るの?」「校長先生にしかられない?」って子どもたちが言うんですよ。

「豆電球を割ったらどうなるか」という問題もあります。この時も大変だったんです・・・。

誰かに仕組まれて軌道に乗せられるのではなく、こういうふうに壊したりイロイロしながら、新しい世界が観える・・・世界が観えると、今まで観えなかった、気がつかなかったものが新しく役立つという世界が出て来るんです。

消費生活をするだけなら役立たないけれど、消費生活をちょっと越えて「新しい世界を開く」となると、これはちがってきます。

学校の理科の授業で例外的に唯一といっていいほど、みんながたのしいというのに「虫メガネでものを焼く」というのがあります。これ、きらいだという人はほとんどいないでしょう(笑)。いろいろなものを焼こうとする。

例えば私たちが開発致しました「光と虫めがね」という授業があります。
・・・・

以下しばらくは仮説実験授業の授業書「光と虫めがね」の内容が続きます。
興味のある方は、こちら➡︎ 光と虫めがね (授業書研究双書)

 

おわりに

結局「基礎学力とは何か」ということは、いろいろな解釈が存在して、よくわかりません。それは科学の対象ではありません。
私たちは「なにが基礎学力か」という論に振り回されるのではなく、「こういう授業で賢くなる」「こういう授業で新しい世界の開ける知識、原理を学ぶことができる」そういう研究をすすめています。
今、社会に求められている創造性も科学のたのしさを味わった人間が初めて発揮できると思っています。

ということで、本日のお話を終えさせていただきたいと思います。

以上

いかがだったでしょうか。
たっぷり1時間半の内容を5回に分けてお届けいたしました。
たのしい教育メールマガジンには毎週、板倉聖宣の発想を中心とした、どっしりとした内容が入っています。興味を持ってくださった方は、ぜひお申し込みください。
➡︎こちら          きゆな筆

板倉聖宣(仮説実験授業研究会代表)アーカイブス 沖縄ファースト講演「人生を豊かにするために たのしく学ぶ(4)」

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1989仮説実験授業研究会代表 板倉聖宣 沖縄ファースト講演
「人生を豊かにするために たのしく学ぶ(4)」
会場 沖縄市 レストラン サザンパレス
文責 たのしい教育研究所 喜友名 一

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役立たない知識を出世のために学ぶ

それ以上になると何をやっているのかというと、一つは「出世のためです」。

例えば東大法学部を出て大蔵官僚(おおくらかんりょう)になる。主計官(しゅけいかん)あるいは税務所長(ぜいむしょちょう)になる。

国会予算を審査(しんさ)するなんていうとどういうことになるか。ある主計官は遺伝子(いでんし)研究費を審査したりコンピュータの予算を審査したりなんかするものだから、もうこれは、まんべんなく知ってなきゃならない。ですから、大蔵省の役人はまんべんなくしってなきゃならないのです。とすると、東大法学部ではまんべんなくしってなきゃならない、そういう事です。出世するためにはまんべんなく知ってなきゃならない人がいるんです。

不思議に思うかもしれませんが、日本の教育っていうのは、だいたいが東大法学部を見本としているところがあります。東大法学部をみんなが目指すという事を考えてできているところがあります。「あらゆることを薄く、浅く知っている」ということです。そんなに浅いわけではありませんが、そんなに深くでもありません。それがモデルです。

だけど東大法学部に入る人間なんて毎年何百人かでしょう。京大法学部もなんとか法学部もいれてもそんなにたくさんいるわけじゃないですね。

昔は義務教育は小学校三年生か四年生まででした。ですから<読み書きそろばん>で卒業できた。

それでもその時、つまり明治のはじめの時代の小学校三年生か四年生の教科書を皆さんに見せたら、きっとびっくりしますよ。なにせ小学校三年生、四年生で卒業して社会に出るわけですから、ほんとうにびっくりするような内容がある。何が必要になるかというと例えば<役場に届け出る書類を読み書きできる能力>を扱うのです。

結婚したときの「婚姻証明書」を書いて提出する学力がある。家族が死亡したときの「死亡通知」を書いて届け出る能力があるのです。

「私の実父、どこのだれ邊ベエは、何月何日、どのような理由により死去いたしました。ここにおいてご通知いたします」というようなものを書いた教科書があって、それをまねして自分で書けるようになるわけです。小学校三年生か四年生でですよ。

みなさんが、もしそれを見たら、おそらく読むことが出来ないとおもいます。それを小学校三年か四年でやるわけですね。官制教育だから、どうしてもそういう事を考えてやっている。すごく役立つ事を、明治の始めには実感をこめてやっていた。

今はそういうことはなくなっちゃたですね。

私、あきれたんですけれど、大学の頃、買ったばかりの自転車を盗まれまして警察署にいったんです。そしたら警察署の人が何といったかというと「そういうことなら代書屋へいって書いてもらいなさい」というのです。めんどうくさいですね、向こうは。それから代書屋を儲(もう)けさせたいんのでしょう。

私は「何でだよ、それくらいの学力は俺有るよ」って思うわけです。それで「俺が書く」って言ったんです。そしたら「その書式が無い」っていうわけです(笑)。で、また「代書屋へいけ」っていうわけです。それで押し問答になりましてね・・・まぁ結局、自分で書いて出したんですけれども(笑)。

つまり今やそういう事は、みんな便利になってしまいまして、昔は小学校三年生か四年生かでやっていたようなことも、お金さえだせば自分でやらなくたっていいようになっている。

人生を豊かに生きるために学ぶ

もう一つの理由は何か、それは出世とかなんとかではなく、「人生をより豊かに生きるために学ぶ」という事です。

「より豊かに生きる」ためにはいろんなことがありますよね・・・例えば音楽がたのしめるといい、絵がたのしめるといい、科学がたのしめるといい、文学がたのしめるといい。いろんなたのしみ方が出来れば豊かですね。

私は自然科学の教育がもともと専門ですから「科学が分かってより豊かに生きるためにはどうしたらいいか」という事を考えるのです。

今のような教育をつづければいいのか・・・おそらくダメですね。

大体「科学なんていう本はこんりんざい見たくない!」という思いを固く決意させるために学校教育はあるような感じがしています(会場大笑)。

もしも勉強しなかったなら、何にも教えてくれなかったなら「もしかするとオレ科学の才能があるかもしれないぞ」と思ったかも知れないのに、小学校、中学校、高等学校、人によっては大学までとことん、そういう事を教えてくれたばっかりに、「こんりんざい科学の勉強はしたくない」ということを決意してしまう・・・

こういうことは科学ぐらいだと思っていたんですが、ある時、国立音楽大学の先生にあって話をすると、入学して来る学生のほとんど一人残らず音楽が嫌いだというんです。「えー」っと思いましたね。音楽の世界くらいは、好きだからはいってくると思っていたんです。科学は嫌いでも勉強させられちゃうけど、音楽は基本教科にもなっていないから、そういじめられないだろうと思っていたんですけれど、そうじゃないんだそうです。

音楽大学に入ってきた子どもたちは、高等学校の頃どういう様子かというと「いろんな勉強しているんだけど自分で何をやっていいのか分からない」という人が多いのだそうです。

自分は子どもの時から親にいじめられて音楽をさせられた・・・音楽は大嫌いで、親に反抗して、イヤだイヤだと思いながらやっていたんだけど、自分には<他の人よりできるもの>というものは音楽しかない。だから音楽学部に入った、というんです。

その国立の先生がいうには「例外的な者が一人いたよ」っていうんですね。この人は、他の事を勉強していたんだけども、高等学校の二年生の頃に「音楽が面白い」って気がついたというんです。高等学校の二年の頃ですから、もちろんピアノは引けないし、他の楽器も駄目だし、だけども「音楽がやりたい」っていうわけですよ。あわてて高等学校の二年からピアノの練習やったらしい。本人はたのしいんですね。たのしいんだけど能力はないんです(笑)。この人が何とかがんばって、一年浪人してはいってきたらしいんです。「これはめずらしい男だ」というわけで、ぼくにはなしてくれたわけです。

こういう人は、子どもたちに「音楽のたのしさを教えよう」という発想になるんです。はじめからたのしいんだとして受け入れてきたわけですから、たのしく教えようというわけです。

ところが普通の音楽大学の卒業生は「音楽はたのしくないものだ」「あれはたのしくなくてもやって、なんだか反抗しているうちにも身に付いていっちゃうものなんだ(会場大笑い)」と考える。だからそうやって、自分たちの教え子にも教えようとなる。これは大変なことです。

「先生が悪い」っていう話があるんですけど、しかし先生の監督っていうのは不十分ですから、まだいいんです。「音楽」の監督は家庭でお母さんがやっているんですから、これはきびしいんですね。本当に、とことこ嫌いになるまでやるわけですから(会場大笑)。

つづく

板倉聖宣(仮説実験授業研究会代表)アーカイブス 沖縄ファースト講演「人生を豊かにするために たのしく学ぶ(3)」

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1989仮説実験授業研究会 板倉聖宣 沖縄ファースト講演
「人生を豊かにするために たのしく学ぶ(3)」
会場 沖縄市 レストラン サザンパレス
文責 たのしい教育研究所 喜友名 一

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 小三から小四までは役立つ。小五くらいからは、ほとんど役立たないといってよい、生活的に役立たない知識がたくさん出てきます。

 現代は科学の時代です。電気の時代であり、原子力の時代です。そうすると、私たちはみんな電気の事、原子の事をしらなければならないのでしょうか?

一時はそういうふうに思って心配して「勉強しなきゃならないなぁ」とがんばった人たちもいると思います。でも結局は電気のことをよく知らなくては生活できなかったり、原子力について知らなくては生活できない、ということはなかったでしょう。

私どもの世代は、大人になったころテレビというものができました。テレビというものを扱うには電気というもの電子工学というものをそうとう知らなければならないだろうと思ってビクビクしていたら、何の事はない、スイッチをいれればいいだけのことでした。

私は基礎学力が無いもんですから、旅行に行くとテレビをつけられないことが多かったものです。いろんな種類のテレビがあるんですよ。テレビによっては引っ張るやつと押せばいいやつと右に回すやつと、へんな所に回すやつといろんなものがあるんです。

テレビというものはうんと基礎的なものだから、基礎学力に入るのか?

私は電気工学は普通の人よりズーッと知っているんだけども、そんなものはテレビを観るためとか、冷蔵庫を使うためとかに、ほとんど役立たちません。だいたいからして、メーカーは「この機械は中学三年程度の学力を持っていなければつかえませんよ」という機械をつくったら売れないんだという事をよーく知っているんです。

<ボタンを押しなさい>とか<コンセントを差し込みなさい>とかいうことがわかったらいいのです。お客さんにそれ以上の学力を要求したら商売は成り立たないという事がわかっているのです。メーカーは「科学についての知識はいらない」ということを前提にして機械を作っているのです。ほとんど全ての機械はそうです。「電子レンジを買うんだけど、私にも扱えるのかしら」っていう場合には、それは電気工学について知っている人に聞いているのではない。そんなこと知ったってしょうがない。電子レンジを扱って何か料理をしたことのある人に聞くのです。

だから学校の理科教育がちゃんと一人前に分からなければ、この電気の時代・原子の時代に生きていかれないということは無いのです。これはハッキリしていますね。

そうするとますます〈生活に役立つ学力っていうのは小学校三年か四年の内容でいいじゃないか〉という見方をしてみることも大切ではないかという気持ちになってきます。

いろんな学力調査をすると、その事をハッキリ裏付けることが出来ます。小学校四年で教えたことがらを、五年生、六年生、中一、中二・・・というぐあいにテストしていくわけです・・・そうするとどういうようになるか?

小学校四年で教えた事柄について、一番よくできるのは小学校四年です。中学三年が出来るんじゃないんです。

中学一年で教えたことが一番よくできるのは中学三年生かというと、そうではない、中学一年生なんです。

ただ一つ例外があります・・・「漢字の読み・書き取り」です。漢字だけはだんだんと学力が上がるんです。使うからです。手紙を書いたり本を読んだりするときにつかいますね。

けれど、数学の学力とか、理科の学力とか、社会科の学力とかは、みんな教わったときが一番よくできるんです。それでも100%はできませんよね。60%できて、あとは50%、40%・・・と下がっていく。

つまり「使っていない」という事です。漢字なんかは使うから上がっていくでしょう。

そういうふうに考えると、全ての人が使うとか役立つという意味で役立つ知識は、小学校四年生くらいまでです。だからそこまでは、子どもたちは学習意欲があるし、教え方を工夫してうまく教えられれば、たいへん良い教育が成り立つ。しかし、小学校五年生以上になるとそう簡単にはいかない。これは、人と競争して勝って、人を軽蔑する能力をつけたいと思う人なら勉強するかもしれないけれど(笑)、非常に真面目な子どもたちは勉強しないよ。

じゃあそういう人たちは、こういう人を軽蔑する勉強をしなきゃいいのか?

「しなくてもいい」というのが一つ有ります。

私はしなくても良いと思います。

「しなくてはならない」とは思わない。

しかし実は、小学校二年生だろうと五年生だろう何年生だろうと、もし本当にたのしく授業してくれたら、これは<役立つか役立たないか>なんて関係なく、新しい世界を開いてくれるんです。

例えば原子というものがある。

<水の原子>を一億倍すると・・・いや一億倍じゃあ小さすぎるから五億倍にしましょう・・・こういう感じの水の分子、こういうものを知ってなきゃ困るかというと、これ困りませんよね。だってほとんどみなさん知らないんだから。

どっかで見たことがあるかもしれないけど、あまり知らないですよね。

例えば「水の分子はこういうかっこうしているんだよ」っていう事を今私たちは小学校二年生くらいから教えちゃうのですけれども、これたのしいんです。子どもたちが「赤パンツだ」なんていってね。

Water_molecule

これが酸素の酸素の分子(赤2個)です。

index

これが一酸化炭素(酸素1コ)です。

一酸化炭素

これが二酸化炭素(酸素2コ)です。

CO2

真ん中を黒く塗ったつもりですけれどあまり黒く見えませんね。黒板といっているけれど、これ本当は青板ですから(笑)。

たとえばこういう事は中学校か高等学校で教えるのですけれど、小学校二年生や一年生に教えることできるんです。だって「あの人、花子さんて名前だよ」「あの人、太郎さんて名前だよ」って教えること出来るでしょう。

同じように「これ酸素さんて名前だよ」「これ水という名前だよ・・・水っていうのはこんなふうに集まってできているんだよ」ってね。

こう教えると、みなさんがあまり考えることが出来なかった創造的な考えができるようになるんです。

「先生、先生、これ水っていってるけど、ほんとの名前は水じゃないんでしょ・・・これは二水化酸素っていうんでしょ」
なんていう子どもたちもでてきます、小学校二年生か三年生で。

そういうのがわかってくると、そういうのを知らない人をバカにしようというんではなくて、たのしいのです。

しかもこういう原子分子を知っていると、電子レンジはなぜ料理ができるのかという事がわかる。本来はお皿なんか熱さないで中の料理を熱してしまうんですね。なぜかというと、電子レンジというのは<電気の波>を起こす。電気の波がこう来ると、水の分子は+と-に電気が別れているものですから、こうゆすぶられる。例えばご飯の中には水の分子が入っていますから、その水の分子がゆすぶられて、中がこすれていって中から温まっちゃう。そうやって電子レンジは温まるんですね。こういう二酸化炭素の形のように一列に並んでいると、電子レンジでゆすぶられないので温まりません。

こういう事をぜんぜん考えてもみない人が電子レンジを使っているわけですけれど、こういう事を知って、いろいろ考えていくと、
「ああ、なんか世の中って理解できるなぁ」
という感じになってきます。まあこの事だけをしっただけでは大したことではないかもしれないですけれど。

要するに学校で教えているのは「読み書きそろばん」という事です。読み書きそろばんは、江戸時代の頃から、知っていたら都合が良いぞという事だった。役立つという事はわかっていた。それが今でいえば小学校三四年生までだ、と。

つづく