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ここまで。

板倉聖宣(仮説実験授業研究会代表)アーカイブス 沖縄ファースト講演「人生を豊かにするために たのしく学ぶ(2)」

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1989 仮説実験授業研究会代表 板倉聖宣 沖縄ファースト講演
「人生を豊かにするために たのしく学ぶ(2)」
会場 沖縄市 レストラン サザンパレス
文責 たのしい教育研究所 喜友名 一

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役立たない知識の利用方法

例えば耳鼻咽喉科が「じびいんこうか」と読めなくても、「みみはなのどか」とよめれば役だつでしょう。耳がよくない、鼻が悪いというのなら、その「みみはなのどか」に行けばいいのです。

では「じびいんこうか」と読むことが役立つというのはどういう時か、これは、「人を教育するとき」か「人をいじめるとき」、この二つくらいしかないのではないだろうかと思うことがあります。

医者に行きたかったら「みみはなのどか」という看板のあるところにいけばいいんですから。「じびいんこうか」ではなく、「みみはなのどか」と読める知識があれば役立つのです。「みみはなのどか」とも読めないとなると、ちょっと役立たないですけどね。

人殺しに役立つなんていうのは困るんですけれども、人間の物質的にも精神的にも豊かにする形で役立つものは嬉しいです。こういう知識は人をいじめたり、人を軽蔑したりする為に使う必要がありません。

しかし、ほとんど役に立たない知識というものがある。ほとんど役立たない知識というものを持っているとどうなるか? 例えば二次方程式です。みなさんは二次方程式が生活で役立ったという事がありますか?
ほとんどないはずです。

私は使ったことあるんですよ・・・偉いですね(笑)。二次方程式を使って「数学の歴史」の論文を書きました。

その時に驚いたんです。私より前の研究者たちがずーっとナゾで分からなかった問題があるんです。ずーっと昔からなぞで分からなかった問題が、私には分かった。二次方程式を知っていたおかげなんです。数学の歴史は、数学をよく知っているはずの人たちがやるんですよね。その人たちは二次方程式を使っていないんですよ・・・数学をよく知っている人たちがさえ二次方程式を使わないという事が分かって、私はとても感激したことを覚えています(笑)。

それほどに二次方程式は使わないのですね。

数学の先生は、それを教える時に役だつはずです・・・そういう時など、ほんのたまに役立つことがあるんだけれども、まあ、ほとんど使わない。

そういう知識はどういう時に使うかというと・・・「あいつ二次方程式もできないでやんの」となる。つまり二次方程式がどういう具合に使われるのかという事は分からないのだけれども、中学生としては二次方程式を知っていることだという事になっていて、「それを知らない無能な人」というレッテルはりに役立てることができる。

二次方程式だけじゃないです。分数の足し算、これはもうほとんどといって役立たない。計算機ですら小数に直してから計算しているわけですからね。

つまり、ほとんど役に立たない知識というものを役立てる方法、それは、その知識を知らない人をバカにし、軽蔑し、脅(おど)かすということですよ。ですから、役立たない知識を身に付けると、とたんに人間が悪くなるんです。

役立つ知識の利用法

役立つ知識というのは、そうではないのです。例えばこういうところでアンプを扱う人が誰もいないとどうしようもないですね。アンプを扱う人はだまって黙々(もくもく)と調整してくれますね。運動会などでもとても役立つ。でも、そういう人達は威張(いば)りませんね。威張る必要がありません。黙々とやるだけです。役立つ知識というのは他人を軽蔑するというぐあいには働かない。

ただ黙々とやっているだけですけれど、他の人は感謝してくれます。「あの人がいて良かったなぁ」となります。役立つ知識を持っている人は、他人を軽蔑しなくても存在感が浮かび上がって来るんです。何にも言わなくたってね。

ですから「役立つ知識」というのと「役立たない知識」という二つのものがあるんです。では学校で教えているかなりの知識というものは、役立つのか役立たないのか? 理工系の学問をやる時、それらが少なくとも過渡期(かどき)には役立つことがあるかもしれませんが、しかしほとんどの人たちにとってはかならずしも「役立たない」。

では、役立つ知識だけをとって学校で教えようか。役立つ知識だけを集めて学校で教えるとなると、学校教育はどのくらいの時間ですんじゃうのか?

おそらく私は小学校三年か四年ですむと私は思っています(笑)。小学校三、四年までは子どもたちは学習意欲があります。なぜかというと、それまでに教わってきたことが役立つことがすぐにわかるからです。お父さんお母さんがつかっていますよね、日常生活で。たとえば「山」という字、「川」という字が読めると役にたつ。読めないと困ります。

知識を持っていない人をバカにしないことと同時に、知識を持っていない人が傷つかない様にするということも大切です。

学校の先生方って「どうやって子どもたちが傷ついているのか」っていうことにもっと気を使って欲しいと思うことがあります。

私は「授業書開発講座」というのをやっていまして、授業書案を検討する機会があるわけですけど、そこにやってくるのは主として学校の先生です。そこでは授業書案を作って来た先生に読んでもらうのではなく、他の先生に読んでもらいます。そうすると先生方ってとても緊張(きんちょう)しますね。「読めなかったらどうしよう」っていうわけです。つまり軽蔑の対象になるかならないのかの瀬戸際(せとぎわ)に立つわけです。私はそういう気持ちがよくわかるものだから、ちょっとつかえるとサッとこちらから読んであげる・・・そうすると傷つかないでしょう。そういうときに意地悪して、だまっていて「さてこの先生どう読むんだろう」なんてジーっとしてると、困った先生はモジモジしだしてとんでもない読み方をしたりなんかする(笑)・・・かわいそうですね。

そういう研究会っていやでしょう・・・行かないに限りますよね。

子どもたちが傷つきそうなときにはサッと手をさしのべてやるといいのです。

沖縄なんか来ると、私、人名なんかぜんぜん読めませんからね、非常に不安ではあるんです。「どうやって読むのかなぁ」なんていろいろ考え込んだ末に読むと「いやこんなのは普通によめばいいんだ」とか、いろいろです。しかしよそ者だからあたりまえという感じもあるでしょう。

いろいろお話しましたが、〈知識〉というのは「知っている人が知らない人をバカにするようなものがすごく多い」という側面、そして「役立たないにもかかわらず軽蔑されないために勉強したという人が多い」という見方もあるのだということは、知っていても良いことだと思っております。
そうやって、軽蔑されないために勉強した人の多くが学校の先生になっている(会場 笑)ということも頭においておくとよろしいのではないかと思っております。

では、そういうことを解決するにはどうしたらよいのでしょうか?

つづく

板倉聖宣(仮説実験授業研究会代表)アーカイブス 沖縄ファースト講演「人生を豊かにするために たのしく学ぶ(1)」

 これから数回に分けて、仮説実験授業研究会代表板倉聖宣先生がはじめて沖縄に来てくださった時の講演をお届けします。沖縄で仮説実験授業のサークルを設立した伊良波さんとわたし二人で、企画運営した初めての講演で、思い出深い内容です。会場は沖縄市にあるレストランを貸しきって利用しました。参加費がいくらだったのか、どうやって宣伝活動をしたのか、25年位前のことなので記憶が定かではありませんが、その時に板倉先生が語ってくれたことは今でもかなりの部分覚えています。
 この文章は講演直後にわたし、喜友名が文字起こしして、仮説実験授業の研究会の皆さんや、たのしい教育に興味関心を持っている方達へ配布しましたので、関係する方達の目には触れていると思います。また、たのしい教育メールマガジンを購読してくださっている方達は、さそこに毎回というほど講演記録を掲載していますので、似たような発想に触れていると思います。
 しかし、この公式サイトで板倉聖宣の発想法などを断片的にしか触れていない方達へは、きっと貴重なアーカイブ(重要文書資料)になると思います。
 内容に関する記述についての責任はすべて私きゆな(いっきゅう)にあります。
この内容を読んだり、サイトそのものを紹介してくださるのは歓迎いたしますが、この内容を印刷・配布することはご遠慮ください。

たのしい教育研究所 喜友名

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1989 仮説実験授業研究会代表 板倉聖宣 沖縄ファースト講演
「人生を豊かにするために たのしく学ぶ(1)」
会場 沖縄市 レストラン サザンパレス
文責 たのしい教育研究所 喜友名 一

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勉強することは良いことか

 板倉でございます。

 私は、25年前に仮説実験授業を提唱いたしまして、つまり今年度は仮説実験授業が始まってちょうど25周年です。

以来、これまでほとんど全ての都道府県で仮説実験授業について話す機会がありました。しかし沖縄だけは25年間、大事にしまってありまして(笑)・・・今回初めてであります。

今回こちら沖縄で仮説実験授業というものについてお話させていただくと、私、日本の全ての都道府県でそういう話をしたことになります。

本日は沖縄仮説サークルの方たちから「基礎学力とたのしい授業」というテーマで話してもらいたい、というお話でございました。きっと沖縄でも「基礎学力」が大きなテーマになっているのでしょう。

私は、仮説実験授業というものを25年前に提唱したあと、その幅を広げた形で「たのしい授業」という雑誌をだしております。その中の私の論文をまとめたものが「たのしい授業の思想」という本の形でまとめられております。興味のある方は、ぜひ手にしていただけたらと思っております。

へたにやると「たのしい授業」は「ただ遊んでいる授業」と理解されがちであります。けれどそうではなくて〈本格的な科学を本格的に教える〉すると〈たのしい授業〉になります。そういう授業がかなり軌道にのったもので、かなり自信を持ちました。

つまり「仮説実験授業」という授業が確かな成果をあげ、これで「たのしい授業」が実現できるということがわかって、そういった〈ものの考え方〉をほとんど全ての教科に広げようということで「たのしい授業」ということを広げることとしたのです。

実は当初、「たのしい授業」という雑誌を出すとどういう反応が返って来るのかという事で、かなりの心配をいたしました。

その一つは「授業がたのしい」つまり「たのしい授業」というのは良いにきまっている。そういう「いいにきまっているのを表題に出すというのはなんだかへんだなぁ」というものでした。

もう一つは「授業なんて元来たのしいものではない、厳しいものなんだ。授業にたのしさなんかもとめたら、授業は成り立たなくなってしまう。それは子どもたちの考え方を誤らせてしまう危険な思想である」という反対意見でした。

  = 板書 =
「たのしい授業」
・あたりまえだ
・そんなでたらめなものはない

こういう2つの考え方があったわけです。

今でこそ「たのしさ」というのはかなり流行しております。しかし、私たちが「たのしい授業」という雑誌を出したころは、それはでたらめだ、けしからんという考え方が一般的でありました。最近の子どもたちは授業にたのしさなんて求めるからおかしくなるんだ、というわけです。

その頃、一般に教育の講演会やら研究会で普通に言われていたのは

= 板書 =
わかる授業・たのしい学校

という事でした。

これには文部省も日教組もめずらしく歩調を合わせて主張していたものです(笑)。

「授業はわかるようにしなければならない。分かる授業をしなければ学校がたのしくならない」というのです。

学校というのはなにしろ友たちがいる、休み時間がある、遠足もある、給食もある。最近は給食がたのしくないという人もいる様ですけど、つまり「学校という所はたのしくなりうるけれど、授業というものはたのしくなるなんて事はありえない」こういうことです。

ですから、日教組も文部省も「授業をたのしく」ということではなくて、こぞって「授業を分かりやすくしよう」「分かる授業をしよう」ということでありました。

私たちはこういう状況を承知の上で「たのしい授業」という雑誌をだしたのです。

なぜ「たのしい授業」か。

わかってもたのしくない知識があります。
わからなくってもたのしい知識がございます。
わかんないしたのしくないという事もあります。

  = 板書 =
<たのしく>て<分かる>
<たのしく>て<分からない>
<退屈>で<分かる>
<退屈>で<分からない>

普通の人は<たのしく>て<分かる>が一番で、<退屈>で<分からない>が一番悪いと考えます…しかし私はそう考えません。

<退屈>で<分からない>ものなら私はがまんできる。しかし「退屈でイヤなのに分かる」というのはがまんがならないのです。

例えばどういうことか。

「戦争に行って弾丸を打つ、敵に当てたくないのに当たっちゃう。そういう身に付けたくない能力、人殺しをする能力がついてしまう」ということです。「そういうことは勉強したくないのに、そういういろんな能力がついてしまう」ということです。

戦争なんて特殊(とくしゅ)な例をださなくっても、私自身の例で言えば、子どもの時から、勉強することがそんなに良いことだとは思えないという事がありました。

みなさんはどうなんでしょうか。勉強っていうのは、すればするほどいいにきまっているものでしょうか?

学力はあればあるほどいいにきまっているものでしょうか?

わかれば、わかんないのよりいいにきまっているものでしょうか?

「いいに決まっている」という人はそうとう幸せな人じゃないかと思います。


勉強することは悪いことではないか、という問い

私は小学校の高学年の頃から「勉強がいいに決まっている」とは思いづらかった。「どうも勉強することは悪いことではないか」という事を密かに思っておりました。でもそれは「密かに」であって、あまり公言はできません。

そういう事を考えておりますと、例えば、江戸時代の有名な剣豪(けんごう)、宮本武蔵の友だちというか先生の沢庵(たくあん)和尚、彼はわりあい教育論をやっておりまして、「学問は悪恵を生ずる」と言っています。つまり「学問は悪い知恵を生ずる」「学問をすると人間性が悪くなる」という事をかなり強く言っているのです。

「ああ私と似た考え方のお坊さんがいたんだなぁ」と思ったりいたしたんですが、おそらくは多くの人がどこかで、勉強する事は、ある場合は〈すごくいい〉んだけれど、ある場合は〈悪い〉というふうに思わざるを得ないことがあるんではないかと思うんですけれど、どうでしょうか。

私は最近の若い人たちと違って、9人きょうだいの6番目として生まれました。9人きょうだいで真ん中よりちょっと下です。兄さんというのは年が離れていますので気にならないのですが、姉さんがたいへん口うるさい。

たいへん教育的であったのかも知れませんが、弟である私を仕込んでやろうという感じがあって、わたしにはたいへん意地悪に思えた。なにか間違えると笑うわけです。「こんな事も知らない、あんな事も知らない」と。

一番ハッキリ覚えているのは、私、子どもの頃から鼻が悪くって、今でもかなり悪いのですが、「耳鼻咽喉科」というものがありますね。中学二年の頃に姉に「〈みみはなのどか〉という医者ががあったよ」といったら大笑いされました。それは「じびいんこうか」と読むんだと知らされてしまったのですが、それ以来私はそれを「じびいんこうか」と読むことさえ拒否してしまいました。

「耳鼻咽喉科」と書いて「じびいんこうか」と読めなければ笑うわけですね。そう読める人間が、読めない人間を笑うわけです。

しかし私は、そうは読めなかったから、誰かが間違って「みみはなのどか」といっても笑わない。それが間違っていることに気がつかないんですから(笑)。

しかし考えてみると、「じびいんこうか」というのでは意味がよくわからないのだけど、「みみはなのどか」ならわかりますよね。

勉強するという事は、その知識を知らない人を笑う人間を作ってしまうのではないか。他人を笑う能力を身に付けさせてしまうのではないか。私は知識が無かったから、それを笑えないのだけど、おそらく知ってしまったら、他人を笑う能力を身に付けてしまうのではないか。たいへんいやらしい人間になってしまう気がしたのです。

私も姉と同じいやらしい人間になってしまう、私はそういういやらしい人間になりたくない。誰かが何かを知らないといっていじめる人間になりたくない。そういう人間にならないためには、そういう学力をみにつけないことだ。より清く正しく生きるためには、学力が無いことが大事だ。私はかなり本気で小学校高学年から中学校の時代、そう考えておりました。

私はその後、教育学に関する議論を大なり小なりするようになったものですから、こんなふうにきれいに整理することができるのですが、あの頃は「こんちくしょう」というモヤモヤとした思いだったのです。自分が教育について議論するようになって、「ああ、あの頃の思いはそういうことだったんだなぁ」と分かりました。

ところで、軽蔑(けいべつ)する人間になりたくないというのもありますけれど、軽蔑される人間になりたくないという思いもありますよね。私は意志薄弱(いしはくじゃく)な人間でしたから、軽蔑したくないという思いと、軽蔑されたくないという思いにはさまれて、ついつい勉強してしまいました。多少なりとも悪い人間になるという事をしょうちの上で勉強してしまった。ただ、少なくとも「自分がある知識を知ったとして、それを知らない人間をバカにすることはすまい」と考えていました。下手すると、知らない人間をバカにしてしまうのだから、そうすることはすまいと思いながら勉強して来ました。

ですから私は、学校の勉強ができない子どもたちというのを見ると、たいへん尊敬(そんけい)すべき存在ではないのだろうかと思うのです。私より意志強固(いしきょうこ)で、非(ひ)人間的なことはしたくないと非常にハッキリ胸に抱いて、断固(だんこ)として勉強しないというこうごうしい存在ではなかろうかと。

つづく

たのしさが未来を拓(ひら)く=たのしさの重要性

「本質的な内容に触れる・わかる感動」それが、たのしい教育研究所が提供している授業です。そしてそれを「たのしさ」と平仮名で表記する様にしています。

「楽しい」という言葉はたくさん耳にしますから、「たのしい教育研究所」という言葉から、それの事をイメージする人は少ないかもしれません。日本語の難しいところです。

英語では enjoyable や happy など、楽しさを表現する言葉はけっこうあります。
大いなる喜び、今まで見えなかったことが見えてくる様な喜びという意味で たのしい教育研究所ではたのしい教育を

Derihghtful-Educttion(ディライトフル・エデュケーション)

と訳しています。

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※マークにも示してありますが研究所の別名はRIDE(ライド)です。そのDはDerightfull の「D」、EがEducationの「E」です。ちなみにはじめのRとIはReserch Institude(研究所)を意味します。

 

たとえば子ども達が「すべてのものは原子分子でできている」という真理に触れた時の感動、ロケットの推進力が「反作用」によるものであることを知り、自ら実験して試した時の感動、それが未来を拓くカギだと思います。

「科学の原理など難しい」と考える方や「子ども達には実験やものづくりをさせてあげれば楽しむものだよ」という教育関係者も多いのですが、私たちはその様な立場には立ちません。
ですから、単に大掛かりな実験装置で驚いてもらったり、不思議な現象を見せてたのしませたり、という授業ではなく、受講した方達が「そうか、そういうわけでこうなったのか」とか「自然界にはこういう秘密がかくされていたのか」という様に、目が開かれる様な感動をもってもらうことが「たのしい教育」のテーマです。

先日実施した「原始時代から宇宙時代までの人類の発展」をテーマにした授業も、原子分子的にものごとを見ていく本格的な授業です。「子どもには難しい」と思うかもしれません。
しかし小学生がたくさんの感動を伝えてくれました。それだけでなく、一緒についてきて、会場の後ろに座って授業を聞いていた保育園だという子どもも、最後に私のところに来て「とってもたのしいかったです」と伝えてくれました。

5年生の感想から一つ紹介させていただきます。

たのしく感動する授業 本格的な授業こそたのしい!
そういう結果がどんどん重なっている、たのしい教育研究所の日々です。

 

自由研究「トマト嫌いがなおる食べ物」の開発

「新作 トマトあめ」の質問が届いています。
ちょうど二週間前に開催した講座「たのしく伸びようよ 夏!」で紹介した、簡単にできるおいしいお菓子です。

自由研究のテーマとしても扱うことができます。

ベッコウあめづくりの応用編として紹介した一つが「トマトあめ」です。

トマト嫌いの人でもきっと「おいしい」と言ってくれるのではないかと思います。

ベッコウあめを作ることができる人には、簡単につくることができます。

0)あらかじめ洗って乾かしたプチトマトに〈つまようじ〉をしっかり突き刺しておく
1)カップに少し多めの量(厚み1cmくらいをめどに)のベッコウあめをつくる
1.5)色がベッコウ色(黄金色)に変わったら2)へ
2)準備したトマトをコーティングするように、ベッコウあめに浸して回転させる
3)洗濯バサミなどを利用して立てて乾かす
※講座などで体験した人はコツをつかんでいると思いますが、ベッコウあめはと〜っても熱いので手などにつかないように細心の注意をしてください! 熱湯よりずっとずっと熱いのです

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自由研究のタイトルは「トマト嫌いがなおる食べ物の開発」という様にすると、受けがよいと思います。
研究所で広めているアイディアですから、「開発協力」には『たのしい教育研究所』と明記してください!

たのしさが未来を拓く!
「たのしい教育研究所」です