「近頃の子ども達は、こんなことも知らない、あんなことも知らない」「学力が低下している」という意見について考えてみる続きの話です。嬉しいことに、さっそくいろいろな方たちから「早く読みたい」というメールが届いています。嬉しいことです。最近は「記事のラストにある〈応援票クリック〉を押しましたよ」というメールも届き始めました。こういう頼りはこれまでにあまりなかったことで、それもとても嬉しい便りです。
そういえば〈学校で紹介しています〉という方からのメールもありました。ますますこの記事に力を注ごうと思っています。
さて、日本の物理学者を育てた長岡半太郎でさえ、その諸先輩達から「学力がない」と批判されていた、という話の続きになります。まだの方は一つ前に戻って読んでから、ここに戻ってください。
東京の読者の方から「長岡半太郎がすごい科学者であることは切手になっていることからもわかりますよ」という便りがありました。調べてみると確かに切手にもなっています。
その長岡半太郎でさえ諸先輩達から「学力がない」と批判された、というのです。
誰でも初めは学力がないのがあたりまえだから、それで批判されたというのでしょうか?
違います。
長岡半太郎さんの時代、東大の授業は英語です。
教科書も英語だし、教師の大部分は外国人です。だから英語はペラペラしゃべれたりもしました。
明治の初めにあって抜群の学力があったことになります。
しかし、その長岡さんでさえ「学力が低下した」と、みんなから言われたのです。
なぜか?
江戸時代の人からすると、手紙は筆で候文で書きます。
それが書けないというのです。
そりゃそうですね。
英語での対話が十分出来るように勉強したのですから、普通の手紙でも危ないかもしれないのに、候文で、しかも筆で書くなんてことは出来なくて当然です。
もし、そんなことが出来たとしたら、英語の勉強はおろそかになっていたかもしれないし、物理学の勉強も怪しいかもしれないのです。
だから〈新しい時代には、新しい学力がある〉ということになります。
ところが年寄りは〈新しい学力〉なんて一切考えないで、自分たちの知っている知識を、今の若者たちの知識の量と比べて「今の若者たちはこんなことも知らない」とか、「あんなことも知らない」とか言っているのです。
とくに最近なんかは、漢字で「こんな漢字の諺も知らない。あんな諺も知らない」と言っていますが、あれは大変極端な例を出して、広告も出ているので皆さんも「子どもたちの身になって考えることが出来る」と思いますが、おそらくは皆さんも知らないような言葉を「知らない」と言って、若者たちは攻撃されているのです。
すごく古いセンスで古い時代を守ろうとしているのです。
「新しい時代を切り開く」としたら、それにとって重要とはいえない古い時代の知識は「知らない」と言うことが勲章であります。
若者たちは、そういう年配者たちに特別に反撃はしませんね。
けれども「今の若者たちはこんなことも知らない。あんなことも知らない」という人たちは、おそらくパソコンは使えないのです。そして携帯電話も持っていないのです。
若者たちを批判する年配の人たちは、そういう文化が自分たちのものになっていないのです。
新しい時代にはついていけないのです。
まだ続きますが、刺激の強い話もたくさん出てくるので、サイトではここまでにしておきましょう。
わたしたち大人は、特に自分の子どもの教育や、広くいろいろな人たちの教育に携わる人たちにとって〈とても重要な視点〉だと思うのですが、どうでしょうか。
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