LEAPカウンセリング入門 前段「科学的とはどういうことか」

LEAPカウンセリングについての質問がいくつか届いています。ちょうどカウンセリング系について書きたいと思っていたので、その質問に答える形で書き進めてみたいと思います。

テーマは

「自分の行動は自分の選択。その行動の責任を受け入れることで成長する」

その前編として「科学的とは」ということにして書かせてください。

LEAP(リープ)カウンセリングは私が開発したカウンセリング体系です。

その源になった体系が二つあります。アルフレッド・アドラーが開発したカウンセリングの体系「インディビジュア

ル・サイコロジー(日本ではアドラー心理学と呼ぶ人も多い)」と、科学教育の体系である「仮説実験授業」です。

アルフレッド・アドラーのカウンセリングと仮説実験授業とを猪突的に学んでいた頃は、わたしの中で別々の体系だったのですが、教師を辞めてフリーとなり「NPO法人 たのしい教育研究所」を立ち上げて後、二つが融合して整理できるようになりました。
そうやって生まれたのがLEAPカウンセリングです。

アドラー心理学と呼ばれているものには、本当にたくさんの流派が存在します。その中には〈スピリチャル(霊)的〉なことを重視したり、科学的にはかなり怪しいと思える様なことを主張している書籍や資料もいろいろあります。

仮説実験授業は純然たる科学の授業体系ですから、作り出した授業が科学の内容だというだけでなく、「仮説実験授業」の組み立て方や発展そのものも、みごとに科学的です。

では科学的とは何か?

「予想・仮説」を立てて「実験する・確かめる」という方法で確立されてきたものが「科学」です。ですから「予想・仮説⇨実験・確かめ」という方法によらないものは全て、科学ではありません。

「偉い人がこう言っているから正しい」「周りのみんながそう言っているから正しい」という様なものは科学ではないのです。

「確かに私の目にはそう見えた」という様な「現象」を主張しているものも科学とは言えません。たとえば「私には確かに宇宙船が見えた」といっても、「たくさんの住民が怪しい飛行物体を見た。動きも形も今まで見たものとは明らかに異なっている。あれは宇宙人の乗り物だ」と主張しても科学的だとは言えないのです。

「だって見えたんだから本当でしょう」と言っても、その主張をもって、それが真実だとは考えないのです。

おかしなことを言っているから科学的ではない、というわけではありません。手法が科学として成り立たせていない、ということです。

たとえば「宇宙人がUFOで地上に降りたところを見た」と言っているのが突拍子もないことだから科学的ではない、ということではありません。

突拍子もない話というのなら、かつて、コペルニクスやガリレオが主張した

「あの動いている様に見える太陽は実は止まっていて、この地球があの太陽の周りをまわっているのだ」

という言葉の方が、よほど突拍子もないことです。

ガリレオたちの言葉を聞いたほぼ全員が

「どうして私が立っているこの地球が、あの太陽の周りをぐるぐる回っているというのか。大地はまったく動いていないではないか」

と思ったことでしょう。

ですから、「そんなのはありえない」ということが、科学的かそうでないかを決める要素ではないのです。

「予想・仮説⇨実験・確かめ」という方法で確立されていくのが科学です。

ガリレオは金星が満ち欠けをしていることを発見して、自分の予想が決定的に正しいということを発見しました。

不幸にもローマ教皇の法廷で裁判にかけられて、その研究を続けるなら死刑だと宣告されるのですが、ガリレオは、表面上それに従い、幽閉された家の中で研究を続けました。「天は自由だ」というガリレオのセリフが本当かどうかはわかりませんが、家から外に出ることができなかったガリレオにとって、空は自由に科学的思考を広げ得る世界だったことでしょう。

カウンセリングも同じです。

こういう理論で成り立っているから正しい、ということは科学的ではないのです。もしも科学的にカウンセリングをすすめるなら「予想・仮説⇨実験・確かめ」の過程をたどるしかありません。

フロイトがエディプス・コンプレックスを主張し、アルフレッド・アドラーは、それに異議を唱えました。
⇨ エディプス・コンプレックス
しかし彼らは二人とも、自分の思考を拠り所にして「それが正しい・正しくない」と主張しているのです。

ですから科学的な主張とは言えません。

エディプス・コンプレックスが人間のたどる一般的な思考過程だとすれば、どういうことが予想されるのか、それをどの様に確かめていけばよいのか、それに知恵を絞って確かめることがなくてはいけないのです。

その結果、エディプス・コンプレックスは誰にでもあるものだ、と主張されるかもしれないし、そんなことはない、という結論になるかもしれない。どちらにしても、カウンセリングがより一歩、真理に近づいたことになります。

巷にあふれたカウンセリングの流派は100ではききません。来世カウンセリングという、私にとってはどこをどう切っても同意することができないカウンセリングから、論理療法という、かなり信頼度の高いものまでたくさんあります。

それらのカウンセリングで「科学」を標榜するものがあるのか?

きっとあるでしょう。

しかし、それが本当に「予想・仮説⇨実験・確かめ」の方法を経ているのかは、はなはだ怪しい。

LEAPカウンセリンクは、カウンセリング手法そのものが、予想・選択肢を準備して、自分でそのことを確かめることによって、一歩ずつ進んでいくという過程です。

ですから、科学的であろうとしていることは間違いありません。

いろいろな臨床例から、もっとシンプルな体系として提示できる様になると思っています。

今回は、その中から「自分の行動は自分の選択。その行動の責任を受け入れることで成長する」ということを書きましょう。

後半をおたのしみに。

カウンセリングも仮説・実験
たのしい教育研究所です

 

 

 

 

カウンセリング授業プラン「困った時の歩き方」|子ども達にも本格的なカウンセリング教材を!

いろいろなところでカウンセラー養成講座やカウンセリング入門講座などを担当しています。

その時の感想の中には
「子ども達向けの悩み解決的な授業ができないでしょうか」
という質問がよくあがっています。

十年以上前、卒業する六年生に向けて
「中学校に行った時、小学校と違ういろいろな悩みが起こるでしょう。その時の解決の仕方を、科学者達の問題の解決の方法から学びましょう」
ということで授業プランを授業にかけたことがありました。

子ども達からの評価も高く、その後も何度か試していたのですけど、忙しさの中で、そのままになっていったプランの一つです。

最近、またそれを整理して、必要な方達にお分けすることとなりました。

スクリーンショット 2016-02-03 20.11.03 スクリーンショット 2016-02-03 20.11.13

 興味のある方はお問い合わせください!

子どもたちの健やかな成長も
たのしい教育研究所の重要なテーマです

神経に作用する薬

今月某日、カウンセリングを実施。
クライエントさんの状況を考えると、来月、という様に延ばすことは難しいものがあるので、カウンセリングに関しては、どんなに忙しくてもなるべく組む様にしています。

カウンセリングも調子よくすすみ、元気が出ましたという言葉をもらって、また次回、となったのですけど、少し気になる「薬」について少し書かせていただきます。

神経に作用する薬はとてもよく効きます。
内科系の薬がこれだけ効いたらどんなによいかと思うほどです。

20120621073615-300x200

ウツやADHDなどの症状に処方される向精神薬。
不安を訴える人に処方される抗不安薬。
また睡眠薬。
いろいろな薬があります。

薬に頼らず、現状にゆっくりと対処していく行動の変容によってすすめていければ、こんなによいことはありません。

LEAPカウンセリングは、薬に頼る暮らしから薬に頼らない暮らしへの変化も伴っています。

興味のある方はお申し込みください。

カウンセリングを学んでいるみなさんへ/カウンセリングする時にとても大切なこと②

先週のカウンセラー協会で担当した講座
「インディビジュアルサイコロジー/アドラー心理学」の反響が届いています。
うれしいことです。

後半は私が開発したLEAPカウンセリングのテキストを元に
「選択肢を一緒に考え、タイムリミットを決めて実験する」という手法で問題解決の方法にすすみました。
そこでワークした「選択肢⇨実験」という流れがとても斬新だった様です。

images2選択肢を出す、という技法に目がいきすぎると困るところもあるので、少しその前の大切なことを書かせてください。
コースの前半で丁寧に
「敵に回ってはいけない/仲良くなるという関係が基本です」
と伝えましたが、そのことと深い関係があります。

カウンセリングに興味を持っている方だけでなく、前回私のコースを受けた方たちにも読んでいただけたらと思っています。

カウンセリングをしていると
「どうしてこういうところで苦しむのだろう?」
という場面に遭遇することがあります。

「どうしてそこで怒らなくてはいけなかったのだろう?」
ということもあります。

カウンセラーとしての自分がそういう精神状態の時、こちらからのアドバイスや選択肢は、ほぼうまく相手に届かないことがほとんどです。

ですから、まだまだ一緒に選択肢を考えている段階ではないのです。

相手の心の状態が違和感なく、自分の中にはい込んだ。
わたしの好きな、古い表現で言えば
「腑に落ちた」
という状態になってはじめて選択肢を立てることが可能になります。

images-3

相手の行動を全て肯定しなくてはいけない、ということではありません。

「やってしまったね」ということだってあるわけです。
たとえば「娘の携帯を取り上げて割ってしまいました」という話がありました。
それはうなづける行動とは言いかねます。

しかし、クライエントのそれまでの長い歴史、その時の心理状態、混乱している状況が自分の中で腑に落ちた時、その人のその行動が「理解できない」ということはないのです。
もしかして、自分が同じ状況、同じ歴史を背負っていたら、こういうことがありえたかもしれない…

そういう段階になってはじめて、それを解決に向かう可能性のある「選択肢」を考えるのです。

カウンセリングというものは正に生ものです。
今ここで目の前にいる方とのダイナミックなやりとりです。

相手の敵になって成り立つものではありません。
あくまで目の前のその人の味方でいる。
その困った状況を自分ならどのように一緒に突破できるか、それをひっしに考えるのです。

以上