自分がやりたい授業ができないという悩み

 もっと子どもたちがたのしむ授業をしたいのに、市販のプリントやテスト類だけでなく、沖縄の学校独自の◯◯テストや◯◯テスト、県や国のテストなどたくさんある上に、学年が足並みを揃えて授業をすすめていこうということで学年会で確認していくので、自分の個性を出した進め方ができない、そういう悩みを、今まで何度も聞いてきました。

 確かにそれは事実でも、教師には実は自由になる時間はいろいろあります。たとえば〈今月は感想画・感想文のコンクールに向けての取り組みをやりましょう、ということになっても、「よし、じゃあさっそく五味太郎のたのしい絵本の読み語りをやろう」とか「ヨシタケシンスケさんの本を思い切り読んであげられる」とか、たくさんの選択肢がありますし、そこに個性は滲み出てしまうものですし。
 逆に、周りの学級とまったく同じ様にすすめたいと思っても、不可能なのです。

 最新のメルマガに、板倉聖宣(元仮説実験授業研究会代表/元科学史学会会長)の「理想と現実と妥協」という文章を載せたところ、若い先生たちを中心にくつも反響が返ってきました。

 板倉聖宣の語ったことを紹介します。

 自分の理想を心にきめていながら現実と妥協するとそれが心の負担になります。そこで日本人は妥協がきらいです。妥協がきらいということはふつういいことだと考えられているようですが、わたしはあまりいいことではないと思っています。

 日本人は「妥協をするのがいやだから理想主義に走る」かというと、そうではありません。たいていの場合〈妥協をするのがいやだから〉といって理想をすてるんですね。

 自分は理想をもっている、ところが現実にはいろいろな問題があってなかなか理想どおりにはいかない。そんなとき多くの人は一応は「理想どおりにやりたい、理想を現実化したい」と思うわけです。

 ところが理想どおりにやると仲間から冷たく見られたり首がとんだり、いろんなことがおこることが予想される。そこで「となりの先生とうまくやっていくためには理想どおりやれないな」と思ったりするわけです。

 そんな場合、すぐに理想どおりできなかったらできるところからやればよいと思うのです。現実と妥協して、理想のうちのできるところをやればよいのです。

 そうすれば妥協しているという心の負担が残りますが、この世の中は流動的ですから、そのうち現実がかわります。そこで現実がかわったらそこにうまくさっと理想をとり入れて、だんだんと理想が全面的に実現できるようにしていけばよいと思うのです。

 

国土社「はじめての仮説実験授業」より

 

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日本最大のどんぐり/ドングリ

 最近、話し合いがあって沖縄本島北部まで行きました。立ち寄った売店で〈オキナワウラジロガシ〉の実を見つけました。10個ほどが数百円で売られています。買おうかと思ったのですけど、RIDEにはずっと大きくて色ツヤ良いものがいっぱいあるのでやめておきました。

 
 以前、RIDEでどんぐりの教材化をしている時にスタッフが紹介した記事があります、もう6年前なんですね、ここをクリックするとジャンプします。
 記事の中のオキナワウラジロガシの写真は、近くのしっかりしたクリの大きさと比較すると、そのサイズ感がわかると思います。

教材「どんぐりセット」できました(^^

 懐かしくなって、またオキナワウラジロガシのことをいろいろ調べてみると、こういう情報が手に入りました。

 沖縄にはオキナワウラジロガシ林は無いのですけど、鹿児島県にオキナワウラジロガシ林があるというのです、面白い。

 ドングリセットは、たしか50セットくらい作ったのですけど、すぐに無くなって、今はRIDEに2~3セット残っているだけです。

 「ゆずってほしい」という人もいるのですけど、あまりに貴重なので、もう値段がつけられません。
 授業などで利用したい方は、レンタル可能です、お問い合わせください。

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菜の花をたのしむ/島村暮鳥のユーモア

道端に菜の花が咲いていました、気持ちがあたたかくなります。

 

〈菜の花〉いっぱいの詩があります、山村暮鳥(ぼちょう)という詩人・児童文学者が作った作品です。

 はじめてこの詩の全体の形を見て〈絵の様な詩〉だなと感じたことを覚えています。
 声に出して読むと、本当に菜の花畑にいる様な気持ちになります、やってみてください。

 学生の頃この詩の鑑賞で〈副題〉のことや、最後の連の〈やめるはひるのつき〉が〈病めるは昼の月〉だということ、そしてそれが持つ意味などをつらつら語られて、詩の鑑賞というのが、その詩の魅力をごっそり削いでしまうことになるのだなと思いました。
 うっかりすると学校での授業も、そうなるかもしれません。

 そういうことよりも、この詩を構成するそれぞれの行が〈スクッと立つ菜の花〉の様に高さを揃えている美しさや、折り重なる様に咲く菜の花たちの様に〈なの花という言葉〉を重ねている美しさが何千倍も何万倍も大事だと思います。

 何十回も読んで、その中を構成している言葉が気になった時に解説するのも良いし、「そうだね、先生もよくわからないから調べてみようね」でもよいと思います。
 それを二、三回読んだだけで「〈病めるは昼の月〉っていうのは暮鳥の闇の部分を・・・」という話にもっていく、テストに出るからね的な授業は、詩に対する冒涜でさえあると思えてなりません。

 異なる言葉に注目するならまず「それぞれの連に一行ずつ異なるフレーズを織り込みながら、リズムは決して崩れないという妙」を讃えたい。

 中にはこの詩の副題を消し、最後の連を消して、ついでに一連だけにして紹介していることがあって驚きます。勝手にそういうことをするなら〈風景〉というタイトルも変えなくてはいけません、もうその詩ではないのですから。

 私は〈病めるは昼の月〉を暮鳥のネガティプな部分とは受け取っていません。
「これだけの見事な菜の花の周りにいるから、空に見えている昼の月さえ顔色を失ってしまったるんだろうね」という暮鳥のジョークとして読み取っています。
 こういう解釈は誰もしていないと思いますけど、けっこう真実に近いのだろうと思っているんですよ。
 副題の〈銀座モザイク〉も私なりの解釈があります、でもつらつら書くより、そのまま音としてたのしんでおくのもよいものです。優れた詩というのはまるで宝石の様です。

 いつかRIDEでたのしく深く味わう詩の授業をしてみたいものです。

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〈分からないことは分からない〉とはっきりさせることがとっても大切/たのしい教育の発想法

 大抵の人は分からないことを恥ずかしいと感じます、それはきっと学校システムが作り出した大きな負の教育だと思います。
 分からないことに対して集団の中で恥をかかされた、恥をかいた経験はほとんどの人にあると思います。でも、分かっていることより分からないことの方が多いのが当たり前で、一度教えられたことなら必ず覚えているっていうことなんて誰にもできません。
 たのしく賢くなっていくためには〈分からないこと〉を〈私は分からない〉とはっきりさせておくことがとても大事です。もちろん試験で合格するしないという場合でもそれが基本です。

 私いっきゅうが最近〈わからない〉とハッキリさせたのが「どうして砂や泥は海底で岩石になることができるのか」ということです。

 岩石に詳しい人たちに聞いても〈それは長い年月が関わるから〉という様な答えで納得できません。
 長い年月というのなら川の底でも岩石ができていくことになるはずなのに、あいかわらず教科書で教えているのは「砂岩・レキ岩・泥岩などは海底や湖の底でできる」ということです。
 長い年月が必要なら、我が家の地中でも砂や泥が石になっていけるんじゃないだろうか・・・、そういう疑問が湧いて来ます。

 そういう問題意識を持って機会あるごとに調べていくうちに、きっと「なるほどそういうことか」と分かったという瞬間に出会えるでしょう。
 その工程はとてもたのしいものに違いありません。

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