この頃は台風が去っていくごとに秋のグラデーションが少しずつ濃くなっていく感じがします。そうしてついつい秋の映画をみたりエッセイを読んだりしています。もう何度も開いた、高村光太郎の『山の秋』をまた開いてみました。
私は学生の頃から妙なクセがあって「この作家は世界でただ1人、私だけのためにこの作品を書いた」と勝手に思い込んで読むことがあります。そうやって読むたびに、作品の世界に深く入り込むことができます。今回も高村光太郎が見た世界、心の中に近づけた感じがしています。青空文庫に感謝して引用させていただきます。
高村光太郎『山の秋』
山麓さんろくから低い山にかけて東北には栗の木が多い。
栗の木は材の堅いくせに育ちが早く、いくら伐ってもいつのまにか又林になる。
そして秋にはうまい栗の実をとりきれないほど沢山ならせる。
山口部落の奥のわたくしの小屋はその栗林のまんなかにあるので、九月末になると殆ほとほと栗責めである。
秋に向かう東北の山や自然公園を歩くとこういう感じで、たわわに実った栗をたくさんみることができます。後で出てくるように、東北の山の栗はシバグリ(柴栗)と呼ばれていて、小ぶりな実がたくさんできます。
日中はまだ少し暑いが、朝の空気はむしろ肌さむいほどの清涼さ。そのきれいな空気を吸いに朝の戸口をとび出すと、眼の前の地面に栗いろの栗がころころ落ちている。
この落ちて間もない栗の実の色とつやとは実に美しく、清潔な感じで、殊にお尻の白いところがくっきりと白く、まったく生きている。
しっとりとした地面の上にこれが散らばっている黒と褐色との調和は高雅である。
「お尻の白いところがくっきりと白く」というのはこういう感じでしょう。
拾いはじめると、あちらにもこちらにも眼につき、繁ったニラの葉の中や、菊のかげ、ススキの根もとなどに光っている。毎朝ざるに一杯ずつ拾い、あとはすてて置く。
拾っているうちにもぱらぱら落ちてくるし、小屋の屋根には案外大きな音をたてる。クマザサの中にもばさっと落ちるが、下草のある中に落ちた栗の実はなかなか見つけられないもので、不思議にうまくかくれてしまう。
山の栗は多く実が小さいシバグリだが、小屋のあたりのはタンバグリとシバグリとの間くらいのもので食うのにあつらえ向きだ。
タンバグリは丹波栗、シバグリ(柴栗)と違って大きな栗の種類です。
光太郎さんの小屋の周りには、その2種類の中間くらいの大きさのクリも多かったわけです、それを毎朝ザルいっぱい集める。
食べるのがたのしみだったことでしょう。
毎日栗飯を炊いたり、うで栗にしたり、いろりで焼栗にしたりする。
ぬれ紙につつんで灰の中で焼く焼栗を電灯の下でぼつぼつ食べていると、むかし巴里(パリ)の街角で、「マロンショウ、マロンショウ」と呼売していた焼栗の味をおもい出す。
あの三角の紙包をポケットに入れて、あついのを歩きながら食べたことを夢のように思い出す。
あれはフランス、ここは岩手、なんだか愉快になったものだ。
焼き栗はパリの風物詩のようです、パリの栗はかなり大きいですね。
左側に三角の入れ物があります、光太郎さんの頃から変わらずこういうスタイルだったかもしれません。
部落の子供や小母さんらがよくかごを持って栗ひろいにくる。
裏の山の南側のがけに取りきれないほど落ちているが、自然にどこの木が一番うまいというようなことがあるようである。
栗拾いには随分山の奥の方まで出かけるが、そういう時に時々熊のいる形跡に出あって逃げてかえってきた人がある。
熊も栗やドングリが好きで、この季節にさかんに出没する。
熊は木のまたに棚というものをこしらえて、そこに坐って食べるらしい。
この「クマが棚をこしらえて座って栗を食べる」というのがおかしいのと、本当なのかと思ってしまうだけど、「どこどこの栗の木がおいしい」というのは本当でしょう。
沖縄にも栗の木があるとよいなと、心から思える読書のひとときでした。
上質のエッセイを私に残してくれた光太郎さんに感謝。
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