英語をたのしく−有料メルマガから「Be動詞の自信」−

Kiyuna記

たのしい英語教育も、RIDE(たのしい教育研究所)のテーマです。

超多忙化の為、熟考の末、なくなく閉じたのですけど、今年の3月まで「たのEn(たのしい英語コース)」を開催していました。ゆりえ先生とラブさんのおかげで、とても盛り上がる内容を実施できたと思っています。生徒さん達にも毎回好評でした。

時間ができたらまた再会したいものの一つです。

さて以前、高校の先生方に呼ばれて講義をした事がありました。その中で、マルセ太郎の「Be動詞への自信」という一文を紹介させてもらいました。その後、英語の先生が数名私のところにやってきてくれ、とても興味を持って頂けた様子でした。

マルセさんのこの文章は、名文だと思います。以下、有料メルマガに載せたのですけど、いろいろな人に紹介したいので、このサイトにも掲載したいと思います。※マルセさんの文章は私の友人が送ってくれたものです。

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2. Let’s Enjoy the たのしい授業

高校の先生方からの依頼で講演をする事になり、準備を始めています。
タイトルは「本質的学力とたのしさ−たのしい授業のすすめ−」
いつの間にこういうタイトルになったのだろう?
と振り返るゆとりは無く、とにかく「どっちに転んでもシメタを探せ!」とばかりに、真剣に考え始めています。
ストーリー的には、後半「感動を持って伝えられる教材がたのしい授業です」
という流れで、いくつかの教材を紹介しようと思っています。

そうやって根性入れて準備を進めているおかげで、これまで見つからなかった資料が見つかりました。
「英語」の教材です。
英語の教材、といっても、パントマイム芸人だったマルセ太郎という人物が書いた日本語の文章です。
わたしはとてもこの文章に感動しました。
今でこそ何とか英語圏を一人旅行できるくらいなのですけど、中学・高校・大学を通して英語大嫌い人間だった私は、もっと早くこの文章に出逢いたかったと思いました。
マルセさんが中学生に向けて雑誌に書いた文章です。
「英語は嫌いだ」苦手だという人達にぜひ読んでもらいたいです。
特に苦手でないという人も、読んでみると英語の力がアップすると思います。

「Be動詞への自信」中学生のみなさんへ

                     マルセ太郎
 

 僕は1933年生まれですから、中学生になったのは敗戦の翌年でした。


 生まれ育ったのは大阪です。


 戦争による 焼け跡の中、食べ物に不自由していた頃でしたが、それでも中学生になった喜びがありました。


 電車で通学するため、定期券を持つのがえらく嬉しかったのを覚えています。


 科目別に先生が変わることや、小学校ではクラスを、一組、二組と言っていたのが、A組、B組という、つまらないことまで、何か未知の世界が世界が広がっていくように思えたものです。


 中でも英語が習えることに、わくわくする期待感がありました。
 

 しかしこの期待感はすぐに挫折しました。


 やはり難し かったのです。


 僕らは単純に、英語の単語さえ覚えれば、それをそのまま日本語とおきかえて英語ができるものと思いこんでい たのです。


 君たちもそうでしたか?


 ところが知っての通り、そうはいきません。


 主語が変わると、アムとか、アーとか、イズという、つまり「Be動詞」が変化 することや、他にもややこしいことが多くでてきます。

 


 どうして、アムならアムだけで統一しないのか。


 僕たちを”勉強”させるため、わざと面倒にしているの ではないかと思ったほどです。

 

 Be動詞というのは何なのでしょう。


 僕らは英文のamの下に、「デス」と仮名をふって日本語に訳していました。


 現在(いま)でも「デス」と教えられているのですか?


 大人になってから考えました。


 あれを「デス」と教えてはいけないのです。


 大切なことは、Be動詞 を、日本語にはないのだということを、まず教えるべきです。


 

 ではBe動詞とは何か。


 「存在」なのです。


 アイアム。私は存在している、ということです。


 有名なシェイクスピアの劇、「ハムレット」に出てくる台詞があります。


 ”To be or not to be” 生きるべきか、死ぬべきか。


 ”to be”で、生きることを意味しています。


 つまり存在することが生きることなのです。
 話しを急転回します。


 よくみなさんは「自信をもて」と教えられていませんか。


 ことにスポーツの世界では、指導者たちが、自信ということを強調します。


 先生も親も、上に立つ人は、何かというと自信をもてとあおります。


 もしかしてみなさんも、自信をもつことが正しいものと、受け入れているのではありませんか。


 自信て何でしょう。


 僕は嫌いです。


 むしろ害悪だとさえ思っています。


 なぜなら、それは他と比較する上で成り立っているからです。


 彼には負けない自信がある。


 この中では一番になる自信があるとか、すべて競争の論理で成り立っています。


 こういう自信は、他を差別する優越感にひたり、また逆に、理由のない劣等感に落ちこんだりするのが常です。


 それでは自信は必要ないのか。


 そんなことはありません。


 生きるため大いに必要なことです。


 

 そこで言いたいこと は、「Be動詞」への自信をもつ、ということです。


 アイアム。アムヘの自信です。


 私は存在しているのだ、ということの自信です。
 ユーアー。
あなたは存在して いる。


 ヒーイズ。彼は存在して いる。


 

 ここに優劣の比較はありません。


 負けない自信なんて、くそ食らえです。


 

 フランス映画『仕立屋の恋』の中で、アパート中 の住人から嫌われている主人公に、刑事が訊きます。
「お前はなんだって、みんなから嫌われているんだ」
主人公は答えます。
「わたしも、あの人たちが嫌いで す。」
これがBe動詞への自信です。

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たのしい授業で必要不可欠なもの-子ども達に聞くということ②

「これが子ども達のための教育だ」と真剣に考えて教育すれば「子ども達の為になっている」といえるのでしょうか?

「何しろ私は子ども達が喜ぶような内容を真剣に考えて授業を作っています」とい教師が授業すれば、子ども達が喜ぶのでしょうか?

いいえ、そういうことはありません。
思いと結果は独立しているのです。

買った宝くじが当たれといくら願っても祈っても神棚に祭っても、そういう事と結果は独立しているのです。

重い石が軽い石より早くおちるのは当たり前だと思っていても、結果は思いと独立しています…一緒に落ちるのです。

子ども達が笑顔になるような教育がしたい。先生達も元気になるような教育がしたい。子どもが賢く元気になるような授業がしたい、と思って授業しても、はなはだおしけに満ちた苦しい授業になることも多いのです。実際、私も何度も経験済みです。

そう考えるなら、それを試した結果、子ども達全員に評価してもらうしかないのです。そして、その結果を真摯に受け止めて一歩ずつ高みに向かって進むしかないのです。

これはかつて師の板倉聖宣が語った言葉です…私の記憶で綴ります(文責 きゆな)。

「ジョン・デューイというとても有名な人物がいます。彼は何しろ子ども中心主義の教育をした、という事で有名ですね。では彼がやった教育は本当に子ども中心の教育であったのか。私は疑問に思っています。彼は、子どもに聞いてみたのでしょうか? 感想文を書いたり評価してもらったりしたのでしょうか。私の知る限り聞いた事がありません。私くらいかもしれませんけど、本当に彼が子ども中心の教育をやったのかどうか、疑わしいと思っています。例えば彼は実験学校を作ったという事です。それはまだ続いているのでしょうか?…」

子ども達の為にやったのだと考えるなら、その主体である子ども達に聞く、評価してもらう。しかも、あやふやな文言ではなく、はっきりとした文言で。

私の様に「たのしい教育が大切だ」と考えるなら「たのしかったですか?」と聞くしかないのです。

それは「たのしい教育/たのしい授業」につて必要不可欠なものです。

 うちの研究所では「たのしさ度」「理解度」の二つの5段階尺度で評価してもらい、さらに自由感想を綴ってもらっています。よろしければ真似てご利用ください。

※これはある学校での校内研修での感想です。個人名などは手をいれましたスクリーンショット 2014-06-29 11.52.58全力でたのしい教育の普及ににとりくむ「たのしい教育研究所」です。1日1度のこの「いいね」で一緒に〈たのしい教育〉を広めましょう➡︎いいね=人気ブログ!=ジャンプ先でもサイトをワンクリックするともっと良し!

賢くなるには−科学的な見方・考え方入門…パソコン遠隔操作事件から考える-

普通は有料メルマガに書く様な内容なのですけど,今回は、ここに載せてみようと思います。

RIDEロゴしっかり版0609a1.パソコン遠隔操作ウィルス事件

パソコン遠隔操作ウィルス事件がまた騒がれ始めています。

これまで「片山という人物の逮捕は警察によるでっちあげだ、えん罪だ」と騒がれ続けましたが,最近になって,その人物が自供したというのです。

事件についてよく知らない方もいるかもしれませんので,時系列で簡単にまとめてみます。

① 2012年の夏、大阪市に脅迫メールが届き。その発信メールをたどって三人が逮捕され,彼らの全員だったか一部だったのかは「私がやりました」と犯行を認めます

②その後、そのメールは遠隔操作ウィルスに感染したパソコンを中継しただけで,別の人物がその三人のパソコンから発信したようにみせていたものだと判明します…その時点で警察の行き過ぎた取り調べがかなり問題となりました。だって,犯人でもない人物たちが犯人になって自供までさせられたわれですから

③警察は三人を釈放した後、片山という人物を逮捕します。しばらくすると,またもや警察の誤認逮捕だと騒がれます。いろいろな人達が警察を避難すると共に、続々と支援者が名乗りを上げ,片山が無罪かという様な様相を呈してきます

④ 今年2014年の3月に片山被告は保釈され,ますます警察を避難する声は力をましてきました。その中、片山被告の新たな証拠(携帯)が見つかり,片山被告が,「全て自分がやりました」と全面自供しました。数日前の出来事です

この事件は,科学的な見方や考え方の,とても重要な内容を含んでいると思います。

 

2.ものごとを正しく認識するために

私がウィルス操作がどうだこうだとか,パソコンの仕組みがどうだというのを詳しく知っているから書いてみたい,という事では全くありません。私が知っている事もここにあげた四点くらいです。

そういう事ではなく「ものごとを正しく認識するにはどうすればよいのか」という事,つまりそれは「科学的な見方・考え方とは何か」について,とても重要だと考えているです。

科学的な見方・考え方は、何も,薬や実験器具を目の前にしている時に必要なのではありません。
いや,逆に社会的なものを見る時にこそ,より重要になってくるのだと思うのです。

 それは「予想」と「解釈」という話でもあります。

片山という人物が自供した後、web上で「やっぱりか…あやしいと思っていた」というコメントがたくさん出ています。

ちなみに「やっぱり(スペース)片山」検索すると2014.5.27現在で 3,870,000 件ヒットします。

それらを開くと、「やっぱりそうだった」「あの顔を見た時から怪しいと思っていた」というようなコメントがたくさん出て来ます。

実は私は「片山被告が犯人だろう」という予想を立て,それを近い仲間に語っていました。

「一度誤認逮捕した上に偽の自供まで引き出してしまった警察が,二度も誤認逮捕するとは思えない」という考えを元にしたからです。

たまたま私の予想が当たっただけという事もあるかもしれません。しかし,それは,かつてのオーム真理教事件の時,私がハッキリと間違った予想,つまり「サリン事件の解決をあせった警察が間違って宗教団体を逮捕してしまったのだ」を予想した事が影響していると思います。

 

3.〈はっきりこうだ〉と予想する事の重要さ

オーム事件の時には,私だけでなく、たくさんの人達も同じように考えていた事を覚えてします。著名人もたくさん名乗りを上げて警察を避難していました。
しかし,結果は裁判が明らかにしてくれたように,サリンをまいたのもオーム真理教の信者たち,でした。

つまり私の予想ははっきりと間違っていたのです。

その時に、私は自分の予想の間違いをハッキリと自覚しましたが,まわりの人達の多くは「やっぱりね、怪しいと思っていたよ」という論調が多数を占めました。今回の様に、あの姿形からして怪しい、という様な人々も多かったと覚えています。

賢くなるために決定的に重要な事は、科学の手法に則って「これはこうなのだろう」と,自分の中でハッキリと予想を立てるという事です。

片山という人物が「えん罪だ」と予想したなら、
「はっきりと自分はそう予想している」と認識する事です。
それが間違っていたら,そこで確実に賢くなります。

もちろんその予想が当たっていても賢くなれます。

ところが大抵の人達は、事実が明らかになる前にはっきりと自分はこうだと「予想を立てる」ことをせず、いろいろな物事がハッキリして後に「解釈」してしまいます。
例えばオームの事件の時の多くの人たちの反応の様に、「あ〜、やっぱりね」という形です。

物事がはっきりして後に解釈するのではなく,まず私たちのまわりにあふれる情報や事実を材料として「予想する事から出発する」のです。

そしてその後のカギを握る事実によってそれを確かめる、実験結果を出すのです。

 

4.「予想」から出発するという事

それは,私たちのまわりの事実や情報を無視して考えましょう、ということではありません。私たちのまわりに情報や事実があふれているのは当たり前です。今回の事件で言えば、片山被告が犯人ではないと思われる事実も情報もたくさんあふれています。逆に、片山被告が犯人だと思われる事実もたくさんあるのです。それを無視する事などできません。

私たちは,まわりの事実や情報から独立して全く独自に考える事などできないのですから,「事実を元に考えましょう」というのは,あまり意味のある事だとは言えません。

周りの情報の整理や解釈ではなく,まずそれらの中で自分が拠り所としたい情報や、見方・考え方を元にして「自分はこう考える」という様にハッキリと予想を立てる事が科学的な出発点だということです。

そして実は、それが真実に至る道なのです。

もちろん途中の、予想変更もありです。

まわりにあふれる事実・情報は,自分が立てた予想を確かめるための材料なのです。結果として、たくさん間違った予想を立てる事にもなるでしょう。しかし間違いなく、その過程の中で認識の仕方が研ぎすまされていきます。

逆に,そういう科学的な認識の仕方ではなく,例えば、今回の片山被告の自供という事実や情報から出発して「やはりそうなんだ。そうだと思ったよ」という事を繰り返しているうちは,なかなか自分で正しく物事を判断する事は難しいのです。

だって,出て来る情報を拠り所にしていたのでは,例えば、今後の裁判で片山被告が「実は、あれは酔った勢いで言った言葉で、実はわたしはやっていません」と言ったら、またその情報を元にして判断を変えなくてはいけなくなりますね。そういう事を繰り返していては,なかなか認識は深まらず、正しい答えに至るのは難しいのです。

今回の事件で,そういう事を考えています。

「たのしい教育」とは関係のないような事かもしれません。しかし「人間の認識の仕方」という事では,十分に関わるものだと思って載せてみました。

私は仮説実験授業を提唱した板倉聖宣から,この見方考え方を強く学びました。興味ある方は、ぜひ板倉聖宣の本を手にしていただければと思っています。

私のメルマガには毎回、板倉聖宣の発想法の重要な内容を載せてあります。興味のある方はぜひご購読ください。

参考になれば幸いです。1日1度のこの「いいね」で一緒に〈たのしい教育〉を広めましょう➡︎いいね=人気ブログ!=ジャンプ先でもサイトをワンクリックするともっと良し!

あたらしい授業の構想中

今年もよきなかまに恵まれて、たくさんの仕事にあふれた、たのしい年でした。

来年も一月からみっしりと、いろいろな処での授業が予定されています。

しばらくはずっとアウト・プット中心の仕事をして来たのですけど、クリスマスの頃から、少しずつ、授業の構想を練る時間をとる事ができるようになってきました。

今日は、いろいろな方達とのミーティングの合間に、ノマド(遊牧民)スタイルで、授業の構想中です。

昨日の夜に、研究所で「海を泳ぐのも空を飛ぶのも、実は同じこと」というプランを組み立てていたのですけど、スタバで珈琲を呑みながらプランを見ていたら、これはやはり、科学が解き明かした最高の真理

azimuth:0.000000||elevation:0.000000||horizon:0.000000「この世界・この宇宙は原子で出来ている」という流れにもって行きたくなって、そこに向かっています。

最初の授業は幼稚園児から小学校六年生、それから先生方対象なのですけど、45分で実験を交えてスパンと収まるようなものにしたいです。

「まとまるのかなぁ〜」というエキサイティングな感覚、久しぶりです。